「次のような主のことばが私にあった。『人の子よ。イスラエルの家が、自分の土地に住んでいたとき、彼らはその行ないとわざとによって、その地を汚した。その行ないは、わたしにとっては、さわりのある女のように汚れていた。それでわたしは、彼らがその国に流した血のために、また偶像でこれを汚したことのために、わたしの憤りを彼らに注いだ。わたしは彼らを諸国の民の間に散らし、彼らを国々に追い散らし、彼らの行ないとわざとに応じて彼らをさばいた。彼らは、その行く先の国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、【この人々は主の民であるのに、主の国から出されたのだ】と言ったのだ。わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ。それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。―神である主の御告げ―…』」
エゼキエル書36章16-23節
かつて家系、血筋というのを結構日本では重要視することがありました。こまったことに、以前は優生思想のようなものがあって、それゆえに妊娠機能を奪われるなどという悲しい出来事もありましたが。ただ、私たちのおおもとはどこにあるのか、この家系、血筋は。猿?とんでもない。というよりもそんなこと言われていやじゃないですか?でもそうじゃない、私たちは神様がご自身のイメージにしてつくられた、神様はご自身の霊を吹き込み、全てをもって私たちを生かして下さるのです。この神様の血潮が、いのちが、今日私たちの内に溢れ流れているのです。私たちはこのいのちをけがしてはいけない。神様が、私たちをご自身の聖なる家族にもう一度回復させるために、御子イエス様のいのちさえ惜しまず身代わりに差し出されてまで取り戻された、この神様の愛が今日あなたに向けられているのです。あなたは今日誰の名のもとに生きるでしょうか。このイエス様の流された血潮が今日私たちの内に溢れ流れている。
さて、↑はかつて紀元前に覇権を握っていたバビロン帝国によってイスラエル・南ユダ王国が捕囚されていった後、神様が預言者エゼキエルを通して語られた(BC585年1月9日)ことば・預言の続きになります。かつて栄光輝くエルサレム、神様が与えてくださったこの地が廃墟となるなんて考えもしなかった民、いつかは勝利して帰れるだろう、と思っていた希望は潰えてしまった…はずでしたが、神様は見捨てていませんでした。
↑の前でそのことが明らかにされていましたね。神様はかの失われた地を耕し、種を蒔き、いのちの息吹を吹き込まれ、回復させようとされていることが語られていました。失われたと思っていた地は神様のもの、やがてこの地に神様が彼らを連れ戻されることを語られ、この神様が今、この捕囚の地にあっても共におられる、彼らの今の時、この地に、彼ら自身を耕され、種を蒔き実を神様の豊かな実を実らせることを語られたのです。神様は愛する彼ら、私たちを我が子と呼び、お腹を痛め産んだ子を、へその緒から離れようとも大切な子を親が惜しむことなく愛し育てるように神様はその愛を注ぐことをやめていなかった、確かに彼らを見張り人・また羊飼いとして、いのちをかけて彼らを守られることを語りかけながら。
なお神様はエゼキエルを通して「人の子よ。イスラエルの家が、自分の土地に住んでいたとき、彼らはその行ないとわざとによって、その地を汚した。その行ないは、わたしにとっては、さわりのある女のように汚れていた。それでわたしは、彼らがその国に流した血のために、また偶像でこれを汚したことのために、わたしの憤りを彼らに注いだ」と語られます。神様は彼らを回復していくうえで、まず問題を解決しなければいけないことをここから告げられていきます。え?過去は過去でしょ?と考える人もいるかもしれません。しかし、傷は残したままにしないで治療が必要です。汚れがあるままではきれいになることはできない、本当にあるべき私たちに回復することはできません。
神様は「自分の土地」を自分たちの行いとわざによって汚した、とここで告げられていますが、土地というのは神様から与えられるものですから、本来は最高のもののはずなんです。この大地をつくられ、すべての植物、食べ物を実らせ、私たちに与えてくださる、神様からいのちの川が流れ潤されるその土地、そこに住まわせていただいているわけです。それは住む土地だけではなく、今生きている時であり、また遣わされている場所、また私たちのいのちそのものです。神様の息吹が吹き込まれた大切な土地、いのちです。事実、イスラエルの民がエジプトに奴隷として400年近く捕らえられた後、神様に助け出され、この約束の地に帰ってきて、与えられた、神様が乳と蜜を流す、豊かな地として与えたものでした。それなのに、これは自分の土地だから、好きにしていいだろう、と自分の好む偶像や価値観を置きかえて、神様のくださっているはずの最高のいのちを傷つけてしまったのです。
ここで「さわりのある女(性)のように汚れていた」という表現がされていますが、女性の普段あるあれのことです。その女性が汚れている、とかそういう表現もなかなか書きづらい所があるのですが、この期間って女性って大変ですよね。聖書の中で確かにその汚れについて書かれてはいるのですが、どちらかというと、そのように弱って大変な女性を衛生的な面も含めて保護して守る、という意味合いがあります。
神様がなんであえてこの「さわりのある女(性)」という表現を使ったのか、神様はだからこそ、神様から離れ、別なものにとらわれ疲れ果ててしまった、傷つき倒れ、色んなものに振り回されて、そんな私たちをまさに保護し、聖めたい、その思いがここに込められているのではないか。神様は、彼らが汚れているから見捨てるんじゃない、そんな傷つき倒れ、今捕囚の身にある彼らを憐れまれた。どうにもならないどん底にある彼らを保護しなければ、その思いがここに込められているのではないか。だから、↑の前であったように、彼らがもう一度良い土地・いのちに回復していくように、私たちを耕し、神様の愛の種を蒔いて、もう一度神様の恵みに回復させようとしたのです。
事実、神様はこのバビロンの地にあってもイスラエルの民を守っておられた。今エゼキエルを通して神様の希望が語られている、神様がおられることを示しながら、バビロンの中枢に神様がおいたイスラエル人の宦官(ダニエルなど)を通して神様の多くの御業を見せ、助けてこられました。それを彼らは目撃しているのです。ああ、ことばだけじゃない、そのことばを実行される神様がいるんだ、と。彼らを通してネブカデネザル王が変えられていったのもみます。イスラエルを捕囚していった王が変えられていくのを。そして絶体絶命の中で人となって生まれてこられる前のイエス様が助けに来られたのも見ています。
すべての人がこれを目撃したかはわかりませんが、もしかしたら目撃者が分かち合ったかもしれない、いずれにしても神様の彼らを保護したい、弱り疲れ果てた、誰に頼ったらいいのかもう分からない絶望下の中にあった彼らを確かに保護されていた、神様ご自身の愛を、御手を、確かに注がれていたのです。彼らの土地を、神様が与えてくださった土地を、いのちを、放置するのではなく、何とか命の実を結んでほしい、とその土地の管理者と言いますか与えてくださっている神様が耕して下さっていたのです。神様は憤りを注がれた、と↑で仰られていますが、そのように失わせていく様々なものに対して憤り、悲しみ、これを取り戻したい、その思いが注がれているのです。
私たちがどれだけ神様から愛を受けているか、あなたはどれだけ考えているだろうか。多分ほとんどの人が普段神様自体の事を考えず、自分を中心にして生きる。これ、クリスチャンもしてしまいます。自分のしたいことがあって、神様を利用する、とか。自分に役に立つことをどこかから引っ張ってくる。でも神様はそんなにダメな方なんですか?しかし私たちは神ではない、神様が私たちに命を与え、また養ってくださっている、支えてくださっている、この土地、いのちに生かされているのです。神様はそれを放っておくわけでも無責任に手放すわけでもなく、私たちを心配し、耕して下さっている、良いものにしたいとその思いを、全てを注がれているのです。
土地を放置すればあっという間に荒れ果てていくように、神様のいのちがなければその土地も、時も、関係も、私たち自身も生きることはできません。人がつくられた時も、神様は神様の作られた、いのちあふれる土地のちりを取って神様のイメージに似せて創られた後、その息吹を吹き込んだことで人は生きたものとなりました。この神様の息吹が吹き込まれるから、注がれているから、心血注がれ耕していただいているから、私たちは生きるのです。イエス様も私たちが実を結ぶように耕して下さっていることを教えてくださりましたね。
神様は↑で「わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ。それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである…」と仰られますが、本来私たちは神様の聖なるものの子とされていたはずなんです。それなのに汚してしまった、そのままでいることを惜しまれるのです。厳密に言えば、彼らの罪によって神様の御名が汚されることを良しとしないゆえなのですが、本来神様の子という聖なる、素晴らしい恵みをいただいているはずなのに、汚されてしまったことを惜しんだことには変わらない。
だから、私たちのこの汚れ、痛み、悲しみ、何より罪を拭い去るため、私たちのこれらすべてを神様は御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架に架け、死なせたのです。聖なる方の血潮を私たちの身代わりに流させ死なせたのです。普通に考えたらあり得ない。でもそのありえないことを、あなたをそれでも心配される神様は保護し、もう一度命を与える、聖なる名においてご自身の全てを注ぐことを選ばれたのです。イエス様のいのちの種を蒔かれたのです。そうして、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れ、聖なるものとしてくださる、洗い聖め、新しくしてくださるのです。神様の家族、イエス様のいのちにあって和解、回復された聖なる関係へと招き入れられたのです。3日目にイエス様をよみがえらせてくださった神様が、同じ恵みに私たちを与らせてくださるのです。
神様は「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と仰られます。その神様が私たちをこのイエス様のいのちにあって聖なるものとしてくださった。この神様の注がれる聖なるわざ、愛によって私たちは生かされているのです。今日、私たちは古い自分から離れ神様に洗い聖めていただこう。この聖さが私たちの内に、また周りに、このいのちに覆われることを祈り求めようではありませんか。今日も神様はあなたに聖い種を蒔き、また耕して下さっている。あなたはこの神様に今日どれだけ信頼していますか。