―蒔かれた種、結ばれる実― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…だが、おまえたち、イスラエルの山々よ。おまえたちは枝を出し、わたしの民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが帰って来るのが近いからだ。わたしはおまえたちのところに行き、おまえたちのところに向かう。おまえたちは耕され、種が蒔かれる。わたしは、おまえたちの上に人をふやし、イスラエルの全家に人をふやす。町々には人が住みつき、廃墟は建て直される。わたしは、おまえたちの上に人と獣をふやす。彼らはふえ、多くの子を生む。わたしはおまえたちのところに、昔のように人を住まわせる。いや、以前よりも栄えさせる。このとき、おまえたちは、わたしが主であることを知ろう。わたしは、わたしの民イスラエル人に、おまえたちの上を歩かせる。彼らはおまえを所有し、おまえは彼らの相続地となる。おまえはもう二度と彼らに子を失わせてはならない。神である主はこう仰せられる。彼らはおまえたちに、【おまえは人間を食らい、自分の国民の子どもを失わせている】と言っている。それゆえ、おまえは二度と人間を食らわず、二度とおまえの国民の子どもを失わせてはならない。―神である主の御告げ―わたしは、二度と諸国の民の侮辱をおまえに聞こえさせない。おまえは国々の民のそしりを二度と受けてはならない。おまえの国民をもうつまずかせてはならない。―神である主の御告げ―』」

エゼキエル書36章8-15節

 

植物は、種を植えたらすぐに生えて実を結ぶわけではないですよね。すぐに芽を出さない、実を結ばないから、この種はおかしいんだ、というわけではない。誰かが肥料をやり、水をやり、根気良く育てていく中でようやく美しい花を咲かせる、実を結ぶわけです。私たちの人生だって何でこんなことになるんだろう、といことだってあります。自分は愛されていない、必要とされていない、とか。でも種を蒔かない鳥さえ養い、植物さえ美しく着飾らせてくださる神様があなたを心配しないはずがないです。神様にとってはあなたは大切な子。私たちの寝ている間もお守りくださる、私たちが疲れ果てている時もそばにいて励まし、力づけてくださる、どうしたらいいか分からない時にもその道を照らし、その手を取り導いて下さるのです。神様はあなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどに愛されているのだから。だからこの神様の愛に信頼しつつ、ここに神様の御業が現わされることを切に祈ろうではありませんか。

 

さて、↑はかつて紀元前に覇権を握っていたバビロン帝国によってイスラエル・南ユダ王国が捕囚されていった後、神様が預言者エゼキエルを通して語られた(BC585年1月9日、エルサレム陥落から4か月後)ことば・預言の続きになります。かつて栄光輝くエルサレム、神様が与えてくださったこの地が廃墟となり、人々も悲しみに包まれました。一体この先どうしたらいいのか、彼らの希望は失われたかに見えました。

 

しかし希望はあった、神様が見捨てておられなかったのです。神様はそもそも捕囚前から、いや、彼らの生まれるずっと前から、もっと言うなら人がつくられてからこの方、神様はずっとご自身を現し、私たちを助け、守り、導いて下さっていたのです。しかし人は神様を信じて何になる?何の役に立つ?と言わんばかりに神様から離れ、好き勝手に生き、その神様の恵みから離れていってしまった結果、神様から本来与えられている最高のいのちを傷つけてしまったのでした。しかし神様はそれでも愛する我が子を見捨てていません。へその緒が切られずに見捨てられている赤ちゃんを見捨てられない神様は、親がその赤ちゃんを大切に抱きしめ、愛を語り、養い育てるように、神様はそれでも私たちを抱きしめ、神様ご自身が、見張り人・また羊飼いとして、いのちをかけて彼らを守られることをここまで約束されていました。周辺国への裁きを語りながら、今ここに神様がいる、あなたの声を聞いている、と。

 

なお神様は↑で「だが、おまえたち、イスラエルの山々よ。おまえたちは枝を出し、わたしの民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが帰って来るのが近いからだ。わたしはおまえたちのところに行き、おまえたちのところに向かう。おまえたちは耕され、種が蒔かれる。わたしは、おまえたちの上に人をふやし、イスラエルの全家に人をふやす。町々には人が住みつき、廃墟は建て直される。わたしは、おまえたちの上に人と獣をふやす。彼らはふえ、多くの子を生む。わたしはおまえたちのところに、昔のように人を住まわせる。いや、以前よりも栄えさせる。このとき、おまえたちは、わたしが主であることを知ろう」と語られます。神様は今、その廃墟になったイスラエルの回復、つまりバビロン捕囚からの解放をここで約束されます。厳密に言うと、この預言が完全に成就するのは、1900年代半ばほどになるのですが、それについては後半で触れます。

 

そのために今神様は今、彼らがやがて帰還する時のために土地の準備をする、とここで仰られるのです。この神様のことばをよく見ますと、「おまえたちは『耕され』、種が『蒔かれる』」と、~され、とあるように、神様がこれをしてくださる、というのです。

 

これ、とても大切な話です。私たちは神様が耕し、種を蒔いて下さる、その上に私たちは住まわせていただいているのです。いや、もともとの話が私たちは神様がつくられたこの地に住まわせていただいているわけですが。神様がその地をつくり、そこに全ての植物、食べ物を備え、人や動物が住めるようにすべての良いものを備えてくださっているのです。

 

そういえば、イエス様は「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。…なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか」と仰られていますが、まさにそうなんです。私たちはそんな空の鳥や野の花よりもすぐれている、それらを養われる神様が私たちを養ってくださらないはずがありません

 

神様は私たちを、私たちの今いる場所、遣わされている場所、時、私たち自身を耕し、実を実らせようとしてくださっている。なんと感謝なことだろう。私たちがいかんともしがたい状況にあっても、私たちが当たり前と思って普段過ごしている中にも、神様が耕して下さり、種を蒔き、実を実らせてくださっている、この目には見えなくとも神様の働きがあるのです。

 

イスラエルの民からしたら、まだバビロン捕囚からの解放が紀元前538年なので、まだ50年弱先の話です、この預言を聞いている段階から見たら。しかし、このように耕し、種を蒔かれる神様が、今ここにいる、見捨てずに私たちの内にご自身の全てを注ぎこもうとしてくださっている、先の話だけではなく、今神様が彼ら、私たちの内に働かれているのです。一時的ではなく時を超えた計画をもっておられ、神様の最善のご計画を神様は確かに私たちに向けて現して下さっているのです。捕囚中は苦しんで、我慢したら解放するからね、と仰っているのではなく、この神様が今ここに働いている。未来まで、いつか分からない時まで我慢しなさい、というのではなく、今神様がここで働かれている、この事を忘れてはいけません。実際に今イスラエルがバビロンの地にいる中で、神様が、バビロンの中枢に神様を信じる宦官を置くことで民を守り、王の心を変えたり、人となって生まれる前のイエス様が直接助けに来られたこともありましたし。私たちにはあり得ない、と思う中に神様はおられる、だから私たちは神様を求めていいのです。

 

神様はさらに「わたしは、おまえたちの上に人をふやし、イスラエルの全家に人をふやす。町々には人が住みつき、廃墟は建て直される。わたしは、おまえたちの上に人と獣をふやす。彼らはふえ、多くの子を生む。わたしはおまえたちのところに、昔のように人を住まわせる。いや、以前よりも栄えさせる。このとき、おまえたちは、わたしが主であることを知ろう」と語られます。ただ土地が回復するだけではなく、そこに人が住めるようになる、と。廃墟を昔の、かつて反映していたイスラエル、いや以前より、それこそエデンの園のような場所に回復していく、と神様は約束されます。これは第一義的に言うならバビロン捕囚からの解放です。神様が、神様が整えたところに連れ戻して下さったのです。

 

ただ、実際の回復、預言の完全な成就はだいぶ先の話です。実際にこのバビロン捕囚から先の歴史家エズラによると、確かにバビロン捕囚から帰ってきて神殿が再建され、城壁は建て直されましたが、以前のような栄光はなかったと記します。そして二度と子を失わせてはならない、外国の民に侮辱を聞こえさせないとありますが、バビロン帰還後のイスラエルでは成就しませず、ペルシヤの後に、ご存じギリシヤが来て踏み荒らされ、ローマの支配下に入りました。そして紀元 70 年に世界に離散します。ただ、紀元十九世紀の終わりから、世界に散っていたユダヤ人がこの地に集まり始めました。その小川のような帰還民の波は、前世紀の始め、鉄砲水のように帰還の大水の流れができ、人口は急増し、そして 1948 年にイスラエルとして国ができました。そうして物理的には回復していきました。

 

ただ、エデンの園のように、とまではいかない。なぜならまだ彼らはイエス様を召し後、救い主として受け入れていないから。メシアニックジューとよばれ、イエス様を救い主として受け入れた人たちもいますが、このイエス様なしに完全な回復などありえないのです。ただ、神様は一人一人の内を耕し、種を蒔きながら私たちが、彼らが帰ってくるのを待っているのです。いのちを得てほしい、と。

 

エデンの園は神様からすべてのものが成り、いのちの川が溢れ流れていた、その神様なしに私たちの魂は潤されることはありません。先程の人々の回復は神様にある喜びや平安で満たされた人たちの回復と言ってもいいでしょう。しかしイスラエルの民も、私たちもこの神様を追い出してしまい、廃墟となってしまった。神様は私たちが神様を追い出し、耕すもののいなくなったこの地が廃墟、神様の恵みを失ってしまった、そんな私たちをもう一度憐れまれ、救うため、私たちの身代わりに神の御子イエス様に、私たちの傷や痛み、悲しみ、思い煩い、何より罪の一切を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目にイエス様をよみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め、立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として、このエデンの園に迎え入れられる。神様の繁栄が、いのちが溢れる場所に私たちを連れ戻して下さったのです。

 

どうか忘れないでください。こんな私たちを見捨てず、廃墟となってしまったような、見捨てられても仕方ないような私たちを神様は憐れまれ、御子イエス様のいのちを惜しまず差し出すほどにあなたに生きてほしい、その思いを実行に移されたことを。この神様が今日、あなたを、あなたのいる場所を、あなたのこの時を、あなたの未来を耕し、種を蒔いて下さっているということを。この神様の実がやがてなる。いや、今も実ろうとしている。私たちはこの神様の栄光を待ち望もうではありませんか。ここに命が溢れ広がることを願いつつ。