「『…それゆえ、―わたしは生きている。神である主の御告げ―わたしは必ずおまえを血に渡す。血はおまえを追う。おまえは血を憎んだが、血はおまえを追いかける。わたしはセイルの山を荒れ果てさせ、廃墟とし、そこを行き来する者を断ち滅ぼす。わたしはその山々を死体で満たし、剣で刺し殺された者たちがおまえの丘や谷や、すべての谷川に倒れる。わたしはおまえを永遠に荒れ果てさせる。おまえの町々は回復しない。おまえたちは、わたしが主であることを知ろう。おまえは、【これら二つの民、二つの国は、われわれのものだ。われわれはそれを占領しよう】と言ったが、そこに主がおられた。それゆえ、―わたしは生きている。神である主の御告げ―おまえが彼らを憎んだのと同じほどの怒りとねたみで、わたしはおまえを必ず罰し、わたしがおまえをさばくとき、わたし自身を現わそう。おまえはイスラエルの山々に向かって、【これは荒れ果てて、われわれのえじきとなる】と言って、侮辱したが、主であるわたしがこれをみな聞いたことを、おまえは知るようになる。おまえたちは、わたしに向かって高慢なことばを吐いたが、わたしはそれを聞いている。神である主はこう仰せられる。わたしはおまえを荒れ果てさせて、全土を喜ばせよう。おまえは、イスラエルの家の相続地が荒れ果てたのを喜んだが、わたしはおまえに同じようにしよう。セイルの山よ。おまえは荒れ果て、エドム全体もそうなる。人々は、わたしが主であることを知ろう。…』」
エゼキエル書35章6-15節
土地、これはとても大切ですね。この土地の上に私たちは生きているわけですし、この土地に植物・食物が成り、これによって私たちは生きる。またそこに水が流れ、動物もまた住み着き、私たちも生きる。ある意味では私たちのいのちともいうべきものですね(土地というもともとのことばの意味にそうした意味合いがあるのですが)。じゃあこの土地は誰のものなのか?あなた?家族?国?でもこれをつくったのは国でもあなたでも家族でもない、神様がつくられ、そこに私たちは住まわせていただいている。神様はこの大地をつくられ、それだけではなくそこにあらゆる植物、また実をなる木をならせ、太陽の光を注がれ、そしてそこに全ての動物、そして人を置かれた、住まわせてくださったのです。こんな素晴らしい土地が、あなたのいのちの内に与えられている。このあなたの住まう場所にあって、このいのちにあってあなたは何を求めるだろう。神様が豊かに実を実らせてくださる、あなたに御子イエス様のいのちを持ってまで死ではない、いのちを、永遠のいのちを実らせると言いますか与えてくださった神様が、今日あなたに光を照らし、守られている、恵まれ、祝福されている。今日私たちはこの神様に何を求め生きるだろうか。
さて、↑は紀元前に覇権を握り多くの国を支配していたバビロン帝国によってイスラエル・南ユダ王国が捕囚されて後、神様が預言者エゼキエルを通して語られた(BC585年1月9日)ことば・預言の続きになります。すでに第一次バビロン捕囚で連れてこられていたエゼキエルやイスラエルの民のもとに悲しみのニュースが届きました。いつかはきっと帰れる!そんなことを願っていた彼らの元に届いたのはエルサレム陥落。どれだけ彼らは悲しみに包まれた事だろう。かつての栄光輝くエルサレムは失われてしまった。自分たちはいったいこれからどこに住まい、どうやって生きたらいいのか、そんな思いがあったかもしれない。
しかし神様は彼らを見捨てず、希望は失われていませんでした。それでも神様は、その御顔を彼らから背けることはなく、神様はご自身を現し支え続けてておられたのです。民族滅亡の危機にあった時にも驚くべき御業を現されたり、助け人を置かれたり、時には直接的に人となって生まれる前のイエス様が来られ、助けられたこともありました。それはひとえに彼らへの愛ゆえでしょう。神様にとって民は、また私たちは我が子なのです。両親が我が子・赤ちゃんがへその緒から離れた後も惜しむことなく抱きしめ、顔を背けることなく愛し、養い、守り、共にいるように、今神様はそれ以上に、ご自身がつくられた大切な私たちを我が子と呼び、その愛を現されているのです。彼ら、私たちを抱きしめ、神様ご自身が、見張り人・また羊飼いとして彼らをいのちをかけて、血の責任を負ってでも守られる、とそうして語られてきました。
なお神様はエゼキエルを通して「それゆえ、―わたしは生きている。神である主の御告げ―わたしは必ずおまえを血に渡す。血はおまえを追う。おまえは血を憎んだが、血はおまえを追いかける。わたしはセイルの山を荒れ果てさせ、廃墟とし、そこを行き来する者を断ち滅ぼす。わたしはその山々を死体で満たし、剣で刺し殺された者たちがおまえの丘や谷や、すべての谷川に倒れる。わたしはおまえを永遠に荒れ果てさせる。おまえの町々は回復しない。おまえたちは、わたしが主であることを知ろう」と語られます。↑の前の預言に引き続いて、イスラエルの兄弟国、セイル=エドムに向けて神様は語られています。
彼らについては昨日細かく見たので、今日は軽く触れる程度の紹介になりますが、イスラエルとエドム、そのもともとはイスラエルの父祖アブラハムの息子、イサクの息子たちになります。弟ヤコブは何が何でも神様の祝福が欲しい、と願い、兄エサウは「そんなものが何になる」とないがしろにしていたのですが、この祝福・彼らが求めていた長子の権利、これが大きな問題となりました。長子の権利は日本的には家督を継ぐ・イスラエルの一族を継いでいく役割があったのですが、それに加えて他の兄弟の2倍の相続がもらえる事、何より神様の祝福そのものだったのです。一族への神様の祝福、彼らの生活、いのちの内に溢れる神様の祝福…挙げたらきりがない。ただ、いざ相続となる時、神様の計画からヤコブが祝福を受けることとなり、エサウはこれに腹を立て(だまし討ちをヤコブから食らった側面もあるので)、ヤコブの命を狙い始めました。その後一度は和解するものの、自分に従わせたいエサウにヤコブがついてこないことに腹を立て、またイスラエルが祝福されているのを見て執拗なまでにイスラエルを攻撃するようになりました。↑で厳しいさばきが語られていますが、エドムだって祝福されていた、それに気づかず神様は間違っていると排除し、いつまでも赦さない、神様を求めない、その成れの果てが↑の廃墟と破壊をもたらしたのでした。
実際、歴史を見ますとエサウの子孫からできた王国エドムは、エルサレムがバビロンによって破壊されるときに、その虐殺と略奪をエドム人は手助けしました。しかし、バビロンによってエドムも攻められます。またメド・ペルシヤからも攻められ、そして彼らはユダヤ地方に動きましたが、イドマヤ人と呼ばれます。マカバイ家のヨハネ・ヒュルカノスによって、紀元前162年に強制的にユダヤ教に改宗させられました。そして、そのエドムのセイルは、ナバテヤ
人がやってきて移り住み、歴史の中から姿を消していきました。そして、将来においても荒廃した地になるのでした。まさに神様の仰られた預言が成就したのです。ちなみに、赤ちゃんとなって生まれてこられたイエス様を殺害しようと、当時2歳以下の子供を殺害したのはこのイドマヤ人のヘロデ王。自らの地位を奪われることを恐れて蛮行に走るも、結局滅んでいくのでした。
考えてみますと、悔い改めの機会がBC162年だけを取ってみても500年近くあった。他の預言者たちも何度も警告していたのに。どうして彼らは悔い改めなかったのだろう。彼らが悔い改めていたらどうなっていたか、それは書いていませんが、ただかつてアッシリヤ帝国に悔い改めのメッセージを預言者ヨナという人を遣わし届け、彼らは100年ほど、ちょうど一生分くらいでしょうか、彼らは神様の恵みを受け生きた、その事を考えると結果は別なものになっていたのではないか、と思う。だからこそ、神様は↑の最初の出だしにあったように、セイル・エドムに顔を向けられたのです。私の思いはあなたに向けられているんだ、と。
ただ、エドムは「これら二つの民、二つの国は、われわれのものだ。われわれはそれを占領しよう」と言っています。この2つの民、国というのは北イスラエル・南ユダを指すのですが、それらは自分たちのものなんだ、だから我々がこれを占領しよう、というのです。まあ自分たちは被害者、憎むのは当然だ、と言うのですが、とんでもない話なのです。そもそもイスラエル云々の前に、神様がエドムも祝福され、その土地を豊かなものとしてくださっていた。農耕、通商、貿易などでかなりの利益を得ていましたが、その彼らを豊かにしてくださっていたのは神様なのです。
神様は彼らを高慢だ、と言われましたが、そもそもの話が、すべての土地も国も、私たちもみな誰かのものではない、神様のものなのです。だってそうでしょう?この世界をつくられたのは神様なんですよ?この土地、大地に全ての草木を、「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ」と命じて、それらを生えさせ、食べ物を実らせた、それを良いと仰るほどに最高のものを生えさせてくださった。そして私たちを住まわせてくださっているのです。
その時神様は「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える」と仰られていました。神様が私たちの住む土地に良いものを生えさせてくださり実らせてくださる、その神様によって与えられるすべてのものによって、私たちは生きさせていただけているのです。エドムは自分たちの土地、いのちを、自分のものだと言って憎しみや怒り、許せない思いに支配させ、結局彼らに神様が与えようとしていた最高の土地、いのちが荒廃していったのです。しかし、神様は本来その地をつくられた目的からも見えるように平和、いのち、愛で満たしたい、良いもので満たしたい、満たそうとしてくださっているのです。その神様を今こそ求めよう、立ち返ろう、とこれを同時に聞いているイスラエルにも訴えるのです。あなたの土地を、いのちを神様にお返しし、もう一度いのちあるものへ。
神様はこうして今崩壊してしまったエルサレム、またエドム、私たちを見捨てているわけではないのです。神様はもう一度これを回復させるため、招かれました。御子イエス様を人として生まれさせ、その間に住まわせてくださり、いのちの道へと招かれたのです。癒し、慰め、力づけ、また悔い改めに導きながら、神様に立ち返るように。いや一時的な回復ではない、永遠のいのちをあたえるべく、私たちを支配する根本の問題、思い煩いや痛み、悲しみ、そうしたものだけではなく、私たちの罪を取り除くため、罪の呪い、支配から解放するため、私たちのこれらのもの、何より罪の刑罰を神様は御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。
私たちはこの土地、いのちに今日何を求めるだろうか。あなたの兄弟国と言いますか、周りの国・人に何を求めるだろうか。神様など何の役にも立たないと自分の思いで満たすのではなく、神様の平和がここになることを祈り願おうではありませんか。この地は主のもの、全てを息吹かせいのちを注がれる、神様の良いもので。どうか、望みの神様が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。