「さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、『そら、エリヤを呼んでいる』と言った。すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。『エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。』それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『この方はまことに神の子であった』と言った。」
マルコによる福音書15章33-39節
最近はあまり聞かないですが、親から「縁を切る」と言われると本当にきつい。いや自分一人でやっていける、と思う人もいるでしょうが、いざ最後頼れるのって家族なんですよね。その帰るところがなくなるというのは本当につらい。それでも誰かが取り持って回復した時、赦された時、本当の意味で家族のありがたみを感じる、そんなことを、縁を切られたわけではなかったのですが、子どもの頃「出ていきなさい」と家から追い出された経験を思い出しました。ただ、この世界を治めてくださっている、私たちを愛し養い、支えてくださっている神様から見捨てられたら、縁を切られたらどうなるだろう。私たちは当たり前のように生きているかもしれませんが、この神様が私たちに命を与え、支え、こうして生きていられるのです。神様はその私たちを愛するがゆえに、ご自身のもとにもう一度取り戻し、回復させるため、御子イエス様のいのちを身代わりにしてでもあなたを取り戻された。私たちはこのイエス様の愛を受け取っていますか?離れていませんか?このイエス様にあって今日、まことの平安、いのちをいただこう。
さて、今週は受難週、神の御子イエス様が今から約2000年程前に人となって生まれてこられたのですが、その最後の1週間、私たちの、多くの人の身代わりにその重荷も、苦しみも引き受け、十字架にかかられた、その事を覚える時です。イエス様は多くの人々にその愛を惜しみなく注がれ、癒され、励まし、力づけられてきました。人々から見捨てられたような人たち、差別されていた人たち、病気で苦しむ人たち、神様を求めながらも偽宗教家たちに惑わされたりローマ帝国の支配によって、神様が分からなくなりさまよっている人たちをもう一度神様のもとに導こうとその愛を、道を示し続け、導かれてきました。
しかし、このイエス様をよく思わない宗教家たち、一応彼らも神様を信じているつもりでいたようですが、神様を思わず人を思い、自分の地位や名誉を求める、もう典型的な宗教家となっていた、その彼らがイエス様を殺害すべくユダを利用し、イエス様を逮捕したのです。イエス様はもちろん神の御子ですから、逃れようと思えば逃れられたのかもしれない。しかしそれをしなかったのです。イエス様はただ一時的に私たちを癒して終わり、とするのではなく、神様から与えられているはずの最高のいのち、失われた神様の恵み、いのちをもう一度回復させ、神様の家族として迎えたかった。私たちが好き勝手に生き、利用したい時だけ神様を利用して、後は好きに生きる(これ、クリスチャンもよくやりますから私たちも気を付けなければいけません、自分には関係ないということはありません)、そんな私たちを見捨てられなかったのです。この失われてしまった大切な我が子を取り戻すべく、私たちのこの重荷も、痛みも、罪も、身代わりに背負い、十字架の道、私たちが負わなければならない受難をその身に引き受けられたのでした。↑はそのイエス様が十字架に架けられた時の出来事です。
イエス様はすでに鞭を打たれ出血多量で死にそう。当時の鞭は貝殻や釘などがついていて、これで皮膚を引き裂くように打たれる。しかもツバキを吐き掛けられ、ばかにされ、茨の冠をかぶせられ、弟子には裏切られ、もうイエス様としては痛みと悲しみでいっぱいだったでしょう。しかも十字架の釘、あなたの手首を見たら2本の細い骨が見えませんか?その間をぶっとい釘を貫通させ、打ち付けられたのです。そして両足を重ね、脛の所をまた太い釘で。苦しくて呼吸もままならない。普通なら恨み言の一言でもいいそうなところ。しかしイエス様は↑の前の段階で、そんな彼らを見ながら「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と私たちの罪の赦しの懇願をされました。このイエス様の姿に自分の罪を悔い改めた、一緒に十字架に架けられている強盗の一人が罪を悔い改め、イエス様と共に明日パラダイスにいることを約束されました。
そして↑、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続き、イエス様は大声で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。イエス様にとっては天地創造の始めからずっと共にいて離れることのなかった神様から見捨てられる、それほど辛いことはありませんでした。神様からしたって大切な御子イエス様が苦しむ姿を黙って見過ごすのか、と思う方もいるでしょう。しかし神様はあなたを見捨てる事ができないゆえに、御子イエス様をお見捨てになられたのです。信じられない、ありえない。しかしそれでも、周りが言っているように誰かを助けに行かせて十字架から降ろすこともせず、ただイエス様を、あなたへの愛ゆえに十字架に架け続け、罰し死なせたのです。息を引き留めるまで最後まで。神様がどれだけ辛い思いをされたか。
本来神様と私たちの関係が引き裂かれ、罰せられ、死ぬべきところを御子イエス様のいのちを身代わりに罰し死なせたことで、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦してくださるのです。そうして神様とつなぎ合わされる、破られたはずの関係が、あのエゼキエル書の預言にあったように破れ口に立って縫い合わせ、回復させてくださった、今や私たちは神様の子へと招かれたのです。イエス様のこの命がけの愛、イエス様を見捨ててでもあなたを見捨てられない神様の愛によって今私たちは生かされているのです。これだけの愛を注がれた神様の愛が今日私たちに注がれているのです。父よ、彼らをお赦しください、○○(あなたの名前)は自分で何をしているのか分からないのです、と私たちが神様から離れている、その状態が霊的に死んでしまっている、それにさえ気づかずにいる私たちのために赦しを懇願された、このイエス様の愛ゆえに、私たちは生かされているのです。
これを目撃した百人隊長は「この方はまことに神の子であった」と告白しました。あなたはこのイエス様の十字架の愛を受けて今日、イエス様をだれと告白するでしょうか。あなたも目撃者であり、イエス様を十字架に架けた一人。この一人、あなたのためにいのちを引き裂かれ、ふさがれていた神様との幕が割かれ、今私たちはこの神の御子イエス様にあって、神様の子とされる特権に与ったのです。目撃して終わるのではなく、この赦しをいただいた今こそ神様のもとに帰ろう。そしてこの赦しと命をいただこう。イエス様の受けられた受難、打ち傷によって私たちは癒された。もうイエス様はあなたを見捨てない。このイエス様の十字架にかかられた日、受難日、イエス様の十字架を覚えつつ、もうイエス様の十字架を無駄にするような歩みではなく、私たちこそイエス様を捨て、神様のくださる恵みを捨てる歩みではなく、このイエス様の愛に、恵みに生かされ歩もうではありませんか。