―はげと、つのと、いのちの回復と― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「第二十七年の第一の月の一日、私に次のような主のことばがあった。『人の子よ。バビロンの王ネブカデレザルはツロ攻撃に自分の軍隊を大いに働かせた。それで、みなの頭ははげ、みなの肩はすりむけた。それなのに、彼にも彼の軍隊にも、ツロ攻撃に働いた報いは何もなかった。それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはバビロンの王ネブカデレザルにエジプトの地を与えよう。彼はその富を取り上げ、物を分捕り、獲物をかすめ奪う。それが彼の軍隊への報いとなる。彼が働いた報酬として、わたしは彼にエジプトの地を与える。彼らがわたしのために働いたからだ。―神である主の御告げ―その日、わたしはイスラエルの家のために、一つの角を生えさせ、彼らの間であなたに口を開かせる。このとき彼らは、わたしが主であることを知ろう。』」

エゼキエル書29章17-21節

 

今回のタイトルに「はげ」ということばを入れて、頭の毛の薄い方に申し訳ない思いがあるのですが、安心してください、聖書にははげは聖い、という言葉があるんです。私の頭の毛も薄いですし。それは別として、私たちは自分の日々・いのち、人生が何かの問題、自身だったり、周りからの問題によってそれこそはげてしまうことがあります。しかし、それこそもう、何も生えてこないのではないか、と思うことが。ただ、もしそこに神様の愛が、力が加わったらどうなるだろう。それこそ、今何気なく書きました、聖さがそこに加えられたら。そこに神様の驚くべき回復が現わされるのではないか。私たちは自分の力を誇り、これが自分を覆うことより、神様のこの愛が、御力が、その全てが私たちを覆うことを求めよう。神様はあなたの日々、いやいのちそのものを取り戻すため、回復させるため、御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった、そこまでされた神様が今日あなたの内に現そうとされる最善が今日私たちを覆うことを祈ろうではありませんか。

 

さて、↑は紀元前に当時圧倒的な力を持っていたバビロン帝国がイスラエル(南ユダ)を捕囚していった、第1次バビロン捕囚~第2次バビロン捕囚、そして捕囚期間中に語られた神様のことば・預言になります。↑の段階では、紀元前571年の4月26日と、すでに第2次バビロン捕囚によってエルサレムが陥落し、イスラエル・南ユダ王国が捕囚されて15年の時間が経過しています。↑の前で預言されていた海による自然要塞に守られていたツロとシドンも降伏したばかりです。そして今エジプトについて神様は語られていきます。ここではエジプトへの7つの預言の第2番目になります。

 

そもそもの話が私たちは神様という最高の要塞といいますか、この方の愛の中に生かされているんですよね。神様は私たちを神様の子と呼んでくださっていた(ここまでの預言の中でも語られていましたね)、神様によってつくられた大切な子なのです。神様としてはご自身の手で大切につくられ、ご自身に似せてつくられ、その霊を吹き込んで、ご自身の全てをもって私たちを生きたものとしてくださった、我が子そのものなのです。それゆえに私たちに生きてほしい、と願われ語られ、その愛を現し続けました。イスラエルの民にしても周辺国にしても、神様から離れ好き勝手に生き、神様から見捨てられてもおかしくない、その中で、赤ちゃんが生まれて、へその緒を離れた後でも、何があっても惜しみない愛を親が注ぐように、神様は彼らをそれでも愛し、希望の光を照らし続けていたのです。神様の御手が自分たちに、またその周りにも注がれていることを示しながらすべ治める神様に心を向けるよう今語られるのでした。

 

そのエジプトは当時バビロンと並び強国とされ、また↑の前の預言でも見ましたが、王ホフラは自分を神(竜・レビヤタン=リバイアサンというサタンの象徴の名を名乗っていた、と神様に言われている)とし、反バビロンの勢力を取りながら、ひそかに覇権を握ろうとしていました。一見すると困っている国を助けようと軍を派遣するのですが、そうして自分たちが結局頭なんだ、神なんだ、と言わんばかりにふるまいましたが、結局派遣していった先のエルサレムも陥落してしまった。そんな本来神様から与えられた恵みの中に生きるはずだった彼らを、その恵みを奪っていったエジプトにいよいよ裁きの宣告がされます(この箇所ではホフラ王に対し)。

 

まず神様はこの第2の預言で「人の子よ。バビロンの王ネブカデレザルはツロ攻撃に自分の軍隊を大いに働かせた。それで、みなの頭ははげ、みなの肩はすりむけた。それなのに、彼にも彼の軍隊にも、ツロ攻撃に働いた報いは何もなかった」と語られます。ツロの町はバビロンの包囲の間に陸から島に動いたのですが、城壁が破れた後に、陸のツロの中に残っている略奪品がなかったというのです。当時はどうもその戦利品や略奪物を報酬としていたようですが、バビロンは兜をずっとかぶっていたことで「頭がはげ」るほど、城壁崩しのために木や石を肩に担いで運ぶ事によって「肩がすりむけた」というほどに労苦したのですが、彼らはなんら報酬を見い出す事はできませんでした。

 

そもそもツロはイスラエルと交易関係を結び、また多くの富を得ていました。様々な国と関係を結びながら多くの富を得ていました。それなのにもかかわらず、バビロンは何も報酬を見いだせない、はげるほど、肩をすりむくほどに探し回っても彼らが持っていたはずの巨万の富を見いだせなかったとは。ツロはこれまで見てきたように、ダビデとソロモン王の時代に友好関係を結んでいた、神様が彼らをその関係、神様にある富の中に、いのちの中に招いてくださっていたのです。しかし、エテバアルと自らを神と名乗っていたように神様から離れていき、ついには彼らはある意味ではげ山となってしまったのです。何もかも失ってしまっていた。他の国と交易をし、富を築き上げていたその山はなくなってしまったのです。

 

エジプトへの裁きもそうですが、神様の御前に人は何を誇ることができるのだろう。知恵、知識、経験、自分で成し遂げたと言わんばかりの自慢。しかしそれらが神様からくるものでなければそれこそいつかは失われ、何の価値もなくなってしまう。なんとむなしい話。自分が正しいと築き上げてきた城壁も崩れ去り、バビロンの前に降参せざるを得なくなった、エジプトの王ホフラも自らを神とし、覇権を神様から奪おうとしても結局はそれは失われていったのです。BC567年にクーデターにあい、彼はいのちを失うのでした。自らを神としていたツロの王も、エジプトの王もそれぞれすべてを失ってしまった。

 

愛する我が子に与えた最高のいのちが失われていく事を神様がどうして悲しまないでいられましょうか。はげ山のままに神様はされるのだろうか。私たちは何もない、と考えて頭がはげるほど、肩が擦り切れるほどに自分の知恵や知識で報酬を求めていないだろうか、この世的な報酬を。しかしそれはまたいつかは失われて行ってしまうのです。しかし神様にある富はそのようなものではありません。神様があなたの内に与えたかった、あなたのいのちの内に与えたかった富はそのような失われていくもの、誰かによって奪われてしまうようなものではありません。神様から覇権を奪い取って自分のやり方でき生きる、それは自由だ、と言われるかもしれませんが、しかしあなたの知恵や知識が神様の何に勝るでしょう。

 

神様は今イスラエルの民に向け、周辺国の状況を知らせながら「―神である主の御告げ―その日、わたしはイスラエルの家のために、一つの角を生えさせ、彼らの間であなたに口を開かせる。このとき彼らは、わたしが主であることを知ろう」と告げられます。今こそ、本物の角、力と権威の源なる神様が生えさせてくださるいのち、そこに広がる神様の愛、御力、回復に目を留めようと訴えるのです。神様こそ主であることを、神様ご自身が示して下さる、現して下さるのです。角、というと動物の角をイメージされるかもしれませんが、これは神様の力、権威を現すものとして描かれます。神様の祭壇の四隅にも角がありましたが。何もない、何もかもが失われてしまった、と思うその四隅、あなたを囲う角、神様の御力が、権威が覆う時、私たちは回復していくのです。序論でも少し書きましたが、それこそ神様の聖さが覆う新しい地へと変えられるのです。

 

人の知恵や知識、経験、神様よりも上にそれらを持ってこようとするとき、その地はそれらに権威が取られてしまう。自分の好きなように出来ると思って結局それらに、サタンに奪われてしまうのです。しかし、この天地万物を創られた方、あなたにいのちを与えてくださった神様があなたの内に現される御力、権威、愛、聖さ、神様の全てが注がれたそのいのちは何ものも奪うこともできなければ、それに勝るものなどどこにもないのです。私たちは神様から与えられたこの素晴らしい命を自らの手ではげ山にしてはいけないのです。

 

イエス様は、終わりの時にこれらの支配者(やがて来る偽キリスト勢力を含めた「バビロン」)による支配が終わり、イエス様の都が来ること、完全な都が来ることを宣言し、「おお、天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都のことで喜びなさい」と仰られます。私たちが目を留めるべきはこのイエス様によって建て上げられる御国です。災いが取り除かれ、打ち砕かれ、イエス様の勝利がこの地を覆う、あなたのいのちを覆うのです。滅びることのない永遠の都がやがて来る、そこへ私たちを今日も神様は導いて下さるのです。

 

また、ある意味で多くの知恵があったように見えるパウロは「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」と言います。決して神様の御前に高ぶることなく、すべてのものを豊かに与え楽しませてくださる神様がいるのだから、この方にのぞみを置こう、その望みは失望に終わることはないことを伝えるのです。イエス様にあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくだる神様に。

 

私たちは今日、この本来神様から離れ好き勝手に生き、神様を神様とせず歩み、そのいのちを枯れ果てさせてしまった私たちをそれでも取り戻すため、回復させるため、私たちのこの思い煩いも痛みも、何より罪の一切を身代わりに背負われ十字架にかかられ、罰せられ死なれた御子イエス様の愛、十字架による救いに目を留めよう。このイエス様の十字架の復活によって、死の、はげたか山に生えだした神様の本物の角・御力、権威があなたのいのちを覆うことを待ち望もうではありませんか。あなたにこのイエス様のいのちにあって与えられたいのちを、「この世の心づかいや、富や、快楽によってふさが」せてはいけません。私たちは御言葉の約束を、そのイエス様のいのちにあって実現された、される神様から今日目を離さず歩もうではありませんか。

 

バビロン捕囚にあったその姿を見ていた預言者エレミヤは「それゆえ、私は待ち望む。私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに…」と哀歌をもって告白しました。神様の憐れみ、イエス様のいのちにあって今日私たちは滅びるのではなく生かされているのです。今日私たちはこのイエス様が日ごとに、朝毎に注がれる恵み、慈しみを待ち望もう。神様の希望が今日あなたの地、あなたの周り、いやあなた自身の内を覆うことを祈り。