―本当の意味で明日を切り開くのは― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、トロアスに下った。ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください』と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。」

使徒の働き16章6-10節

 

世の中には色んな考え方の人がいて、そうした中で私たちが生きているわけですから、やはり苦悩に尽きないこともあります。なんでこんなことが?と私たちの常識で考えると悩まされることも。ただそんな時思い起こしてほしいのです。この世はそうしたものが支配しているのではない。神様が治めてくださっているのです。神様はイエス様を遣わされ私たちの身近に来てくださった、そしてイエス様のいのちによって私たちに新しい命を与えてくださった。この神様の究極の愛が今日私たちを導いて下さっているのです。私たちはこのイエス様の愛に信頼し歩もうではありませんか。その愛をもって切り開かれるその道は確かにかがいているのだから。

 

さて、↑は神の御子イエス様がまさに人となって生まれ、多くの人を癒し、励まし、教え、私たちに生きてほしいと、惜しむことなく愛を注がれ続けた、たとえ裏切られようとも、私たちを見捨てず、私たちの重荷も痛みも、罪も全部身代わりに背負われ、十字架に架けられ、罰せられ、死なれ3日目によみがえられた後、約束の新しい助け主なる聖霊様が降られ、教会が誕生してからしばらくしてのことです。このイエス様の命がけの愛による救いを、一人でも多くの人に届けいのちを得てほしい、と全世界に届けるため、聖霊様が多くの人の内に働かれながら人々を遣わしていきました。

 

そんな中でパウロとバルナバがその第一次伝道旅行から戻り、報告会や会議の中で、世の教えや様々なもので囲む生き方ではなく、御子イエス様のいのちにあって与えられた命、このイエス様の愛が覆う中を生きよう、とまとまったところで、会議が終わり、パウロたちは再び伝道旅行、イエス様の愛を届けに聖霊様に導かれ出発します。

 

前回はパウロとバルナバで旅をしましたが、今回はパウロはシラス(預言者)と一緒に旅に出ます。バルナバとは行く道を別にしましたが、神様はそれぞれを通して神様の愛を届けようとしていたのでした。神様のご意思は変わらず、聖霊様を通して彼らの内に働き、それぞれを導き、また取り扱われる中でイエス様の救い、愛を届けながら、なお彼らを取り扱われながら彼らもまた整えられて成長していく事となるのでした

 

そして↑の前で若いテモテが旅のメンバーに加わって、今パウロたちは今でいうトルコの辺りになりますが、ルステラ(ここでテモテが加わる)、イコニオム、ピシデヤのアンテオケというところを通ってアジアに向かいこの御言葉を届けようとしたのですが、どういうわけかここで聖霊様に止められます。それならと、フルギヤ・ガラテヤの地方を通り、ムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしますが、今度はイエスの御霊がそれをお許しにならなかったというのです。いずれもなんで?と思うところですね。

 

 

ちなみにアジア方向を神様はこの時見捨てていたわけではないですよ?他の弟子でインドの方へ宣教に行った者もいましたし(そこで殉教します)、パウロ旅路の行程を見る限り向かおうとしていたのではないか、と思われる方向に現在のアルメニアがありますが、そこに遣わされた使徒たちの働きを通して、殉教者は出ますが、やがて変えられ、ここが世界で一番最初のキリスト教国になります(BC301年)。それにイエス様も、全世界に出ていき、福音を(イエス様の十字架と復活による罪の赦し、救い)届けるように、と仰られていましたし、そこには福音を届けてはいけない、というわけではなかったのではないか、と思うわけです。

 

神様の断固たる意志は変わらない、12弟子の一人だったヨハネがイエス様と歩んだ中で教えられた、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」という確固たる神様のご意思、愛は変わることはなかったのです。それは昔も今も変わらない。ただ、パウロが今このタイミングで担う役割ではなかったというだけの話なのです。むしろパウロは、後にわかるのですがローマの市民権を持っていましたし、その彼を通してこの後向かうヨーロッパ地方へ神様はその愛を届けようとしたのでした。

 

↑で「トロアスに下った。ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください』と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである」とある通りです。今海を渡った先のマケドニヤで求めている人、神様を必要としている人たちがいる、ヨーロッパ地方にはなおそうした人たちが多くいる、その彼らのために神様はパウロたちを遣わそうとされたのです。今偶像に満ち溢れた、またローマの支配するこの国々にまことの希望を届けに。そうしてその働きはやがてヨーロッパのキリスト教化を推し進める形となっていったわけです。

 

ちなみにこのタイミングで、ルカによる福音書の著者で、またこの使徒の働きの著者でもある医者で歴史家のルカが加わります。このルカを通しても神様は聖霊様の働き、その確固たる愛を広めていかれた。そういう意味でもこれは、禁じられた時にはわかりませんでしたが、まさに神様のご計画があったわけです。もちろんパウロ自身もルカに助けられた。「私たち」とありますが、それは今いるパウロとシラス、ルカだけではありません。↑の短い箇所の中で確固たる意志を働かせていた御霊様(イエス様の霊も、正確には聖霊様と言われている)が「私たち」の中にいて、その導きの中、その断固たる意志をもって今神様の愛、救い、グッドニュースが届けられていく。

 

パウロは、イエス様の霊の前に「何度も」自分の行きたい方へ行こうとしていたことが元のことばを見るとわかるのですが、私たちはこの神様の断固たる思いに立ち向かう、自分の思いはこうだ、と言って神様を退け我を通すものではなく、従う者でありたい。だって、↑を見ると聖霊様は断固たる意志をもって止めたわけでしょう?それならそこには理由があるわけです。それなら、私たちはその聖霊様を退けている場合ではないのです。聖霊様が切り開かれる方向に向かう、その中で「ある夜」を迎える、ある夜救いを受ける人たちがいる、光を照らされる人たちがいる、パウロたちやこれを見ている私たちが何で?と思う中に神様の愛が確かに現されるのです。この世の流れになんで?と思うことが私たちにもある中で、私たちが断固たる意志をもって神様に従う、信頼する時、私たちは神様が明けてくださる、切り開かれる驚くべき夜から朝・明日へと向かわせて下さるのです。

 

イエス様は私たちをご自身のいのちを持ってまでこの世の支配から、罪の中から救い出し、神様の本当のいのちへと招いて下さりました。断固たる意志をもって決断されたのです、あなたを救うことを。私たちの叫び、「助けてください」、という訴えにこたえ、いのちをもって救いに来られたのです。そして私たちはこのイエス様のいのちにあって取り戻された。そうして与えられた命、そこに働かれる神様の愛、聖霊様の働きの前にどうして私たちは立向かってなどいられましょう。むしろこの神様の御前に「助けてください、導いてください」と叫んでいいんです。そうして人の目には止められた、と思う先に導かれる明日へ、神様の素晴らしい計画へと導かれるから。あなたの旅路には、あなたのためにいのちさえ惜しまなかったイエス様がいる。この方が閉ざすのではなく切り開かれる道を、ただイエス様に信頼し歩もうではありませんか。

 

「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです」。今日私たちのために執り成し命をかけられたイエス様、そのイエス様が執り成しまた導かれる道に私たちはただ信頼し歩もうではありませんか。