―私は、あなたは、誰?― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「次のような主のことばが私にあった。『人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、【私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている】と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。あなたはダニエルよりも知恵があり、どんな秘密もあなたに隠されていない。あなたは自分の知恵と英知によって財宝を積み、金や銀を宝物倉にたくわえた。商いに多くの知恵を使って財宝をふやし、あなたの心は、財宝で高ぶった。それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたは自分の心を神の心のようにみなした。それゆえ、他国人、最も横暴な異邦の民を連れて来て、あなたを攻めさせる。彼らはあなたの美しい知恵に向かって剣を抜き、あなたの輝きを汚し、あなたを穴に投げ入れる。あなたは海の真ん中で、刺し殺される者の死を遂げる。それでもあなたは、自分を殺す者の前で、【私は神だ】と言うのか。あなたは人であって、神ではない。あなたはあなたを刺し殺す者たちの手の中にある。あなたは異邦人の手によって割礼を受けていない者の死を遂げる。わたしがこれを語ったからだ。―神である主の御告げ―』」

エゼキエル書28章1-10節

 

日本では、昔はその出自を名乗るなんてことが戦国時代などは見受けられていましたね。自分はどこの誰なのか。そこに誇りをもって名乗るんでしょうね。今も自己紹介をするときはどこどこのだれだれ、と名乗ります。多分苗字を名乗ることでその家系がどこなのかを表現しているのか、と思いますが。では、私たちは何もなのでしょう。あなたは自分をだれ、と表現しますか?私たちは、あなたは、神様の子、神様によってつくられた大切な存在。なんて誇らしい、素晴らしい話。私たちは自身をもってこれを言えますか?あなたは神様の最高作品であり、御子イエス様のいのちを持ってまで取り戻され、神様の子とされた。この素晴らしい命に感謝、このイエス様に生かされ歩もうではありませんか。

 

さて、↑はBC586年にあった第2次バビロン捕囚により、イスラエルが捕囚されていった半年後、神様がエゼキエルを通して語られた預言・ことばの続きになります。イスラエルの民からしたらどうしてこんなことに、神様は何もしてくれないの?と考えたくなるところだったでしょう。ただ神様はバビロン捕囚前から多くの預言者を通してずっと語り続けていた、また御業を現されていたのです。いや、それこそ天地万物が造られ、人が創られてからずっと神様は彼ら、私たちと関わり続けて下さっていたのです。いい時も悪い時も、神様は彼らに愛を示し、ご自身を現し、語り続けたのです、何とか生きてほしい、生きよ!と。神様は彼ら・私たちを我が娘、我が子と呼んでくださり、何とか彼らが本当の愛、神様の恵みの内に帰ってほしい、と訴え続けていたのです。それこそ、赤ちゃんが生まれて、へその緒を離れた後でも、何があっても惜しみない愛を親が注ぐように、神様は彼らをそれでも愛すること、希望の光を照らす事をやめませんでした。

 

その神様の思いは一部の人たちだけではなくイスラエル、また周辺諸国への預言が語られます。↑の前からは、ダビデ王の時代からソロモン王の時代にかけて、友好関係をイスラエルと結んでいたツロに向けて神様は語られ、これから滅びゆくツロに向けて、豪華客船に例えながら哀歌をエゼキエルの口を通して歌われてきましたが、↑で彼らがなぜ破局したのかを示しながらもう一度自分たちが何ものであるのかを思い出させるように語っていきます。

 

まず神様は「人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない」と語られます。

 

この君主というのは、歴史から見るに、これはエテバアル三世と考えられます。ただここで君主、という言葉が出てきていますが、単純に王を指す言葉ではないようで、英語で見ますと、これはprinceになっています。そう、王子です。これ、色んな意味で大事なことが語られています。

 

まず、ツロの王エテバアル三世ですが、バアルと名乗ること自体も問題で、異教の神を指す言葉なんです。~世とつけていることから自ら名乗っていると言っても間違いではないと思うのですが、自分を豊穣の(偽)神バアルと名乗り、全てをつかさどっているつもりだったのでしょう。豊穣のためと称して子どもを生きたまま全焼のいけにえとして捧げさせたり、姦淫を伴う祭りをさせたり。その代理者とでも自分は言いたいのか。神様は彼に対し、心高ぶっている、と言っていますが、まさにこの辺りにそれが現れてきています。それと同時に、そんな偽神の笠の下にいなければいけないとでもいうのか、そんなものの王子でいいのか?

 

エテバアル三世は「私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている」と言っていますが、バアルというものにすがらなければいけない弱さを彼は抱えている、もっと言うならその背後にいる霊的な支配者サタン(28章でそれが明かされていきます)の支配下に置かれてしまっている。

 

それは実は大きな問題で、サタンは神様の恵みから、神様の愛から、神様ご自身から私たちを引き離そうとしてきます。神になろうとしたサタンは神様から追放されるのですが、その後なんと感じ分と一緒に滅ぶものを増やそうとしている。それはアダムとエヴァの時からずっとです。本当に神様はそんなことを言っているの?とか、神様は何もしないじゃないか、とかむしろ神様の素晴らしさではなくこの世の富を見せて、サタンにひれ伏せばこれを与えようと誘惑してくる。そうして神様から引き離すわけですが、サタンがあなたに何を与えることができるでしょう。サタンは自分が望むとおりのことをしない神様に反旗を翻し、なら自分が神になろうとした。

 

これ、聞いていて気付きます?私たち人間も似たようなことを考えるんです。その弱さにサタンは漬け込んできて、神様の主権を、愛を、神様のなそうとする計画、あなたに注がれる者を奪い取っていこうとするのです。しかしそうやって、せっかく神様が最高の場所に、ご自身のもとに招いてくださっているのに、そこから堕ちていったサタンのもとにいて、彼らと同じような考えをして何になるでしょう。なんともったいない話ではありませんか。

 

↑で神様は、あなたは神ではない、とはっきりと語られていますがその通りです。そうですよね。あなたがこの天地万物を創ったわけでもなければ支配者でもない。あなたが自分この身で建てあげていくわけでもない。むしろ神様は最高傑作としてこの世界を創られ、あなたを創られた。いわゆる支配者としてよりも、あなたを愛し、その全てを注がれるかた。日々あなたを、支え守られ導かれている、神様の良いものをたて上げようとしてくださっているのです。この方以外に神様などいない。希望的な観測、どこにいるかもわからないものではなく、確かに正しい神様の座につかれ、全てを治めてくださっているのです。

 

その方を退けて何になるでしょう。いや、私たちはこの神様の家族としてくださっているんです。私たちは、あなたは神様が創られたんですよ?その子なんです。聖書の中で、~の子、だれだれ、と系図(家系図のようなものをイメージすればいいと思います)が書かれているのですが、これをずっとたどっていったら、私たちはサタンや誰かの子ではない、神様の所に繋がるのです。なんと幸いな事。この方の中にあって私たちは生かされているのです。私たちは神様ではありませんが、神様になる必要はありません。神様はあなたを突き放して、あなたは神ではない、と言っているのではない、むしろこの神様の内に、神様の愛に、神様の全てにあって守られ生かされている。神である必要なんてない、全能の神様があなたと共におられるのだから、あなたを建て上げてくださる、あなたに全てを注がれているのだから。だから不安になって別な神を求めて、その笠の下にいる必要もないのです。

 

いや、でも自分の方が優れている、自分の方が何でもできる、と人はそれでも考えてしまいます。もしくは自分は自分だって。でもそれで神様が本来与えてくださっている最高の恵みを失ってどうしましょう。

 

イエス様がある時、ご自身がこれから自分は十字架につけられ、三日目によみがえると言われたことがあったのですが、その時これを聞いたペテロは、「主よ。とんでもないことです。そんなことが、あなたにあるはずがありません」とイエス様をいさめます。するとイエス様は、「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とペテロに厳しく叱責します。サタンの思いに縛られ、またそれによってイエス様の言葉や思いよりも、自分の判断のほうが優れているというその高慢を厳しき叱責されたのです。

 

そのあとイエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。…」と語られました。

 

神様は滅びゆくサタンのようにあなたが失われていく事を良しとされない。それは↑の前の哀歌の中で語られていた豪華客船とたとえられていたツロの姿、その彼らが沈みゆくことを悲しまれていた哀歌にはっきりと現されていましたね。あなたが失われていくものにとらわれるのではなく、御子イエス様のいのちによって交換された、本来負うべき十字架、このイエス様の十字架の交換によって与えられた命によって与えられた新しいいのち、これに生きてほしい、その思いがのべられているのです。この世界が与えるものではない、この天地万物をつくられた、神様が、あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えた神様が、あなたの重荷も痛みも、何より罪も一切何の罪もない御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し死なせてでもあなたを取り戻された神様が、あなたに本物のいのちを与えたい、終わることのないとこしえの命、神様との関係に招かれたのです。

 

あなたのいのちを御子イエス様のいのちをもって買い戻された。このイエス様の救いに何が勝る事ができるでしょう。あなたをそこまでしてでも、罪の奴隷、サタンの手から、この世の子から取り戻して神様の子として迎え入れてくださった、これがどれだけ素晴らしいことか。このイエス様の十字架と復活による報いが私たちに注がれているのです。

 

↑の最後にあることば、あなたはあなたを刺し殺す者たちの手の中に自分を置いてはいけない。あなたを神様の与えて下さった命から引き離し、奪うものに委ねてはいけない。あなたの身代わりに刺殺され手まであなたを取り戻されたイエス様の御手の内に私たちがある事を、私たちがこのイエス様のいのちにあって神様の子としてもう一度迎え入れられたことを覚えよう。このイエス様が世の終わりまであなたと共にいてくださる、このイエス様のいのちにあって切り開かれた一日一日のうちにイエス様の愛が、御力が、その全てを今日もあなたの内に溢れ流れさせようとイエス様はあなたを待っておられるから。今日私たちはこのイエス様に帰り、このイエス様の愛が溢れることを祈ろうではありませんか。