―豪華客船Ⅱ:そこに積まれていたもの、届けられたもの― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…タルシシュは、おまえがあらゆる財宝に豊かであったので、おまえと商いをし、銀、鉄、すず、鉛を、おまえの品物と交換した。ヤワン、トバル、メシェクはおまえと取り引きをし、人材と青銅の器具とをおまえの商品と交換した。ベテ・トガルマは馬、軍馬、騾馬を、おまえの品物と交換した。デダン人はおまえと取り引きをし、多くの島々はおまえの支配する市場であり、彼らは象牙と黒檀とをおまえにみつぎとして持って来た。アラムは、おまえの製品が豊かであったので、おまえと商いをし、トルコ玉、紫色の布、あや織り物、白亜麻布、さんご、ルビーを、おまえの品物と交換した。ユダとイスラエルの地もおまえと取り引きをし、ミニテの小麦、いちじく、蜜、香油、乳香を、おまえの商品と交換した。ダマスコも、おまえの製品が多く、あらゆる財宝が豊かなので、ヘルボンのぶどう酒と、ツァハルの羊毛でおまえと商いをした。ダンとヤワンもおまえの品物と交換した。その商品の中には、ウザルからの銑鉄、桂枝、菖蒲があった。デダンは鞍に敷く織り布でおまえと取り引きをした。アラビヤ人と、ケダルの君主たちもみな、おまえの御用商人であり、子羊、雄羊、やぎの商いをした。シェバとラマの商人たちはおまえと取り引きをし、あらゆる上等の香料、宝石、金を、おまえの品物と交換した。ハラン、カネ、エデン、それにシェバの商人たち、アッシリヤとキルマデはおまえと取り引きをした。彼らは豪華な衣服や、青色の着物、あや織り物、多彩な敷き物、堅く撚った綱とおまえの商品とをもっておまえと取り引きをした。タルシシュの船がおまえの品物を運んだ。おまえは海の真ん中で富み、大いに栄えた。」

エゼキエル書27章12-25節

 

私たちには様々なものが与えられていますね。このからだもそう、いのちもそう。偶然とかで片づけることは決してできないほど素晴らしい。そう、神様があなたをつくられたからあなたは素晴らしい。本当に良いもので満たされているはずなんです。何せ神様がご自身に似せて創られたのだから。本来は神様にある豪華と言いますか、神様の目に高価で尊い存在なのです。神様の霊で、神様の全てで私たちは満たされているのですから。私たちは状況を見て、あれが足りない、これが足りない、と色々考えますが、しかしそこに満たされているもの、またあなたと共におられるイエス様をもう一度思い起こそう。あなたのためにいのちを惜しまず与えてくださったイエス様が今日あなたと共におられるのだから。そこまでされてまで導かれるその道を、日々をただ信頼し歩もうではありませんか。

 

さて、↑は第2次バビロン捕囚によってイスラエルが捕囚されていった半年後、神様がエゼキエルを通して語られた預言・ことばの続きになります。神様は別にピンチになったから突然語り始めたわけではなく、バビロン捕囚前から多くの預言者を通して語り、また御業を現されていました。しかしそれでも神様に帰らない民は第一次バビロン捕囚にあいますが、その地にエゼキエルも神様は一緒に行かせることで彼を通して、捕囚地にいる民に、またエルサレムに向けて、また周辺国に向けて様々なことを語られてきました。もちろん捕囚前も、いやこの天地万物が始まる前から神様は彼ら、私たちと関わり続けて下さっていましたが。人の目に良い日も辛い日も、神様は語られ続けていた、何とか生きてほしい、生きよ!と。神様は彼ら・私たちを我が娘、我が子と呼び、何とか彼らが本当の愛、神様の恵みの内に帰ってほしい、と訴え続けていたのです。それこそ、赤ちゃんが生まれて、へその緒を離れた後でも、惜しみない愛を親が注ぐように、神様は彼らをそれでも愛することをやめませんでした。希望がない、そのような中でも神様は確かにいたのです。

 

その神様の思いは一部の人たちだけではない、イスラエル、そしてその周辺諸国への預言が語られていきます。↑の前からは、かつてダビデ王の時代からソロモン王の時代にかけて、友好関係をイスラエルと結んでいたツロ、その彼らに向けて神様は語られ、ここで滅びゆくツロに向けて、豪華客船に例えながら哀歌を唱えるようエゼキエルに語られました。↑はその続きになります。

 

なお神様はエゼキエルに、「タルシシュは、おまえがあらゆる財宝に豊かであったので、おまえと商いをし、銀、鉄、すず、鉛を、おまえの品物と交換した。ヤワン、トバル、メシェクはおまえと取り引きをし、人材と青銅の器具とをおまえの商品と交換した。ベテ・トガルマは馬、軍馬、騾馬を、おまえの品物と交換した」とうたうように告げます。神様の助けのもと、またダビデ・ソロモンと友好関係を結んだ中で、彼らは海洋都市としても栄え、そうして多くの富を得ます。タルシシュ、おそらくスペインにあったと言われている場所ですが、鉱物が多く取れる場所となっていました。そうしてツロと交易をおこなっていたわけですが、ここで彼らと取引する相手がなかなか面白いのです。

 

このヤワン、トバル、メシェクは、そしてトガルマも先ほどのタルシシュと並んで、ヤペテの息子として実はノアの子、あのノアの箱船で生き残ったセム、ハム、ヤペテ、そのヤペテの子孫として実は登場します。聖書の中では主にセムの息子の家系といいますかそのイスラエルの父祖、アブラハムに焦点が当てられますが、神様はヤペテの子孫も忘れていませんでした。数章前で、ハムの子孫についても触れましたが、神様はヤペテの子孫にまでツロを通して届けようとしていたわけです。ちなみにタルシシュにはヨナという預言者が、アッシリヤの首都ニネベに行く事を最初に恐れて、そこに向かう船に乗ろうとしていたことがありましたが、イスラエルとの交易は確かに結ばれていたわけですね。

 

神様は見捨ててなどいなかったのです。ヤペテたちが自分たちは目に留めてもらえていない、と神様以外のものに走っていった彼ら。おもにヨーロッパ諸国中心にヤペテの子孫は広がっていきますが、古代ギリシャやローマを含めてみてもいかに偶像が溢れているかを考えれば、彼らがいかに神様から離れていたかが見えるでしょう。同時にまことの神様はどこにいるのか、と彷徨っていた、その迷走が多くの偶像作成に見えていたようにも見えます。

 

しかしそんな彼らの不安や疑い、ないし本物の神様の愛はどこにあるのかと迷う彼らの内に神様はこのツロを通して神様の積み荷、愛を、神様の恵みを届け、彼らのそれらの積み荷を交換しようとした、そのような思いが神様にあったのではないか、とこの神様の「哀歌」の中に見えてきます。彼らの哀しみ、憂い、そうした哀歌を喜びの愛歌にかえようと神様の御手は伸ばされているのです。ただ、残念ながらこれを正しく受け取らなかった人たちは人材、奴隷商人となって、ツロはユダ・エルサレムにいる人たちをギリシャに売ったことで裁きが降される形となります。

 

神様から与えられているものを、彼らは何て使い方をしたのでしょう。彼らの持っているものがいかに素晴らしかったか、↑で見て取れますよね。「銀、鉄、すず、鉛、…人材と青銅の器具、…馬、軍馬、騾馬、…象牙と黒檀、…トルコ玉、紫色の布、あや織り物、白亜麻布、さんご、ルビー、…小麦、いちじく、蜜、香油、乳香、…ヘルボンのぶどう酒と、ツァハルの羊毛、…銑鉄、桂枝、菖蒲、…織り布、…子羊、雄羊、やぎ、…上等の香料、宝石、金、…豪華な衣服や、青色の着物、あや織り物、多彩な敷き物、堅く撚った綱…」など。神様はそれぞれにそれぞれの十分な必要を満たしておられたのです。神様がそれぞれに良いものを満たしていてくださっていた。↑の前ではツロを豪華客船とたとえられていましたが、この豪華客船、彼らの地、彼らのいのちはそれぞれ神様の良いもので満たされていたのです。神様は↑の最後にあるように「あなたは海の真ん中で富み、大いに栄えた」と言われるほどに栄えさせてくださったのです。

 

それなのにこれは何の価値もない、といってどうしましょう。彼らはそうして栄えていったのにもかかわらず、神様のくださった繁栄を、他のものと交換した。神様はその愛、恵み、神様の良きものを届けようとしていたのに、彼らは奴隷商人や苦しみなどを届けることによってかえって苦しめた。その彼らは、本来豪華だったはずの船は沈んでいくのです。前の章で見たように、この時はバビロンに、後には自分の交易相手だったギリシャのアレクサンダー大王に。なんというもったいないことを。神様と友好関係に招かれていたのに、神様のくださるものでは足りない、と自分で積み荷を増やして、ちょっと航海が厳しくなってきたら積み荷を降ろさないと、と言って何が不要なのか分からなくなり、神様の積んでくださっているものを降ろし、本来一番必要な物を捨ててしまった結果、彼らは沈没していく。なんという悲しい話だろう。神様はそれを哀しまれたのです、哀歌としてうたっているのです。

 

また彼らはこの航海旅路に神様のこの船は役に立たない、形を変えないと、とその交易方法、目的を変えてしまった。でも、ノアの箱船を思い出すと、え?こんな形?と思うような本当に箱型の船でした。そんな中に全ての動物一つがいずつ入れて大丈夫?と思う中で神様は安全に守られていました。もしよく世の中に見るような曲線上の、あの動物がはみ出たような完成図に、自分の考える形に変えてしまったらその船はどうなっていたか、と思う。

 

  

 

私たちのこのいのちは神様がデザインしてくださった。そしてこの船に神様はすべての良きもので満たして下さっているのです。昨日の分かち合いで見たように、最高の熟練の技師、いや神様が船長として載っておられ、導いて下さるのです。羅針盤となって導かれる。神様はその船をもってあなたを導き、またその積み荷をあらゆる人たちに届けるのです。もちろんあなたの所にも神様の愛を、全てを届けてくださるのです。そんな神様のやり方で何になる、と思う中で神様はそこに神様の十分な恵みを届け、帰られる。奴隷商人の話ではありませんが、何かの奴隷になる、させるのではない、あなたを自由なもの、神様の子、民として加えたいのです。

 

先程ヤペテの子孫がヨーロッパ方向に広がっていった話をしましたが、彼らはこのイエス様の愛によって変えられていきました。偶像に満ちたところに、本物の神様はどこにいるのか、と思う中に神様はその愛を、御子イエス様を通して届けられたのです。驚くべきその方法は、御子イエス様に私たちが捕らえられ、罪の奴隷になっている、この重荷も、積み荷も、何より罪、一切を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせるという方法を選ばれました。そうしてこのイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、3日目によみがえられたイエス様と同じ復活の恵みに私たちは与らせていただけるのです。この愛を受けた弟子たち、またパウロなどによって今使徒の働きの分かち合いで見ているように確かに届けられて変えられていきました。あのローマ帝国でさえ変えられたのです。

 

私たちがこのイエス様のいのちにあって神様との本当の友好関係・友情関係、いや親子関係が結ばれる、和解される時、本当の意味で私たちは「あなたは海の真ん中で富み、大いに栄えた」と言われるものとなり、またあなたの周りにもその神様の栄えに満ちた喜びが溢れ広がり全ては変えられるのです。私たちは神様を諦めてはいけません。あなたは本物の豪華客船なる神様の船に今日乗せていただきこの生涯を歩ませていただいているのですから。あなたの内に住まわれるイエス様、そのイエス様がいのちをかけて満ち溢れさせて下さった最高の恵みをいただき歩もうではありませんか。