「次のような主のことばが私にあった。『人の子よ。イスラエルの家はわたしにとってかなかすとなった。彼らはみな、炉の中の青銅、すず、鉄、鉛であって、銀のかなかすとなった。それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたはみな、かなかすとなったから、今、わたしはあなたがたをエルサレムの中に集める。銀、青銅、鉄、鉛、すずが炉の中に集められるのは、火を吹きつけて溶かすためだ。そのように、わたしは怒りと憤りをもってあなたがたを集め、そこに入れて溶かす。わたしはあなたがたをかり集め、あなたがたに向かって激しい怒りの火を吹きつけ、あなたがたを町の中で溶かす。銀が炉の中で溶かされるように、あなたがたも町の中で溶かされる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがあなたがたの上に憤りを注いだことを知ろう。』」
エゼキエル書22章17-22節
精錬ということばがあります。それは電気分解や化学処理により金属の純度を高めることをこのことばは現すようです。火を通して(溶鉱炉にいれるというくらいですから、相当な熱さです)、不純物を取り除き、最高のものを抽出する、といったところでしょうか。神様は私たちの不純物を取り除いた最高のあなたにしたい。時に私たちは神様の愛はどこにあるんだ、と思うことがあります。ただその中に神様はおられるのです。いや、そもそも私たちは神様の造られた世界、神様から与えられた命の中を生きているのだから、そこに神様はいない、というのは変な話ですよね。何もないと思う様々な中に、神様の愛は確かに注がれている。熱い私たちへの愛ゆえに御子イエス様のいのちを身代わりに罰して死なせてでもあなたの罪を取り除いて最高のあなたへとされた。このイエス様のいのちにあって注ぎだされた神様の最高の愛を受け取り、この与えられた命、心から喜び歩もうではありませんか。
さて、↑は紀元前に起あったバビロン捕囚の際に捕囚されていったイスラエルの民に向け、神様が預言者エゼキエルを通して語られた預言・ことばの続きになります。↑のことばが語られたのはBC591年、第2次バビロン捕囚によって完全にイスラエルが崩壊するその時まで5年と迫り、イスラエル王国の危機、滅亡の時が近づいていました。そのような誰もが希望を失っている中で神様は彼らを諦めず、神様ご自身が彼ら・私たちと共におられることを、幻やなぞかけ、直接的な訴えなど、様々な形を通して語られてきました。この愛を受け取ってほしい、そして何とか彼らに生きてほしい、と切に訴えて。神様は、愛する我が子を捨てていない、お腹を痛めて赤ちゃんを産んだお母さんが赤ちゃんに惜しむことのない愛を注ぐように、たとえへその緒から離れてもやはり大切な子。神様は私たちを軽んじるのではなく、全面的に回復していく、ご自身の恵みに溢れることを願い語るのでした。何もないと思う中に確かにあった最高の愛があることを。
なお神様はエゼキエルに「人の子よ。イスラエルの家はわたしにとってかなかすとなった。彼らはみな、炉の中の青銅、すず、鉄、鉛であって、銀のかなかすとなった」と語られます。序論で精錬について申し上げましたが、普通は精錬すると、不純物が取り除かれて純度の高い良いものが抽出されるわけです。ところが、今彼らはこの危機の中、かなかすとなってしまった、何も良いものは残らなかった、というのです。彼らは自分たちは良いものだから、そんな試練、問題があろうとも大丈夫、と思っていましたが、その過信の先には何も残っていなかった。その過信、自分の考えは何も保証がなかったのです。
自分の考えを持ってはいけません、というわけではありません。ロボットのようになれ、と神様は言うわけではありません。それなら神様は何でも言うことを聞くようなロボットのように私たちをつくったでしょうから。ただ神様は意思のある、心と心の関係と言いましょうか、心から愛し合う、愛を注がれ、愛を受け、また愛する、その中に神様の愛が溢れる、そのような関係を願い人をつくられたのではないかと思う。神様はただ形だけ作るだけではなく、ご自身の霊を吹き込んで生きたものとされ、神様のイメージに似せて造られた最高のあなたにされたのだから、最高の関係を持ちたいのです。
そう、私たちを支え、保証するのは神様なのです。私たちをつくられた方が、つくって終わりではなく、その最高の愛、ご自身の霊を注がれ支えられている、その中で私たちは生きているのです。本当の意味で生きたものとなっているのです。私たちの内にあるのは世の中の様々な霊、価値観、そうしたものではなく、本物の神様の愛、何にも勝る神様の霊、神様の全てが私たちの内に生き、生かして下さっている。どんなに、それこそたとえ火の中水の中であろうと、そこに神様の愛が残っている、この神様の愛が私たちを生かして下さるのです。かなかすではない、神様にある最高のあなたにしてくださるのです。
かつてアッシリヤ帝国に国を囲まれ絶体絶命の状態に陥った時、神様が救い出されたことを経験したヒゼキヤ王は「神は、私たちを、いのちのうちに保ち、私たちの足をよろけさせない。神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精錬するように、私たちを練られました。あなたは私たちを網に引き入れ、私たちの腰に重荷をつけられました。あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました」と詩に残しました。
神様は銀を精錬するように、私たちを練り上げてくださる、なんと幸いなことでしょう。アッシリヤの脅威、絶望下にあって、火の中にあって神様は救い出して下さったのです。ヒゼキヤが預言者イザヤにお祈りしてください、とお願いすると、神様はアッシリヤの王を国に引き返させ、そこで彼は殺されるのでした。そうしてヒゼキヤは神様がご自身の御住まい、私たちの思う豊かさとは別のところに私たちを導いて下されたのです。神様が保たれるいのち、神様が足を支えてくださり導かれる日々、私たちの目には何もない、と思う中に確かに絞り出された、凝縮された神様の最高の恵みが満ち溢れるのです。ヒゼキヤはまさにこれを体験したのです。私たちにも神様は何も残っていない、と思う中で神様の最高の恵みが、命が、神様の全てが確かに注がれている、あなたはこれを求めているでしょうか。
イスラエルの民はこの後確かにバビロンによって捕囚されていきます。しかし、神様は彼らを決して見捨てていたわけではなく、捕囚されていく民と共におられました。そしてバビロンの地で神様がエゼキエルに様々な幻、栄光を現して下さっていたように、神様がそこに驚くべき御業をなし続けて下さるのです。バビロンがすべて支配しているように見えて、神様がそこを支配している。神様がこのバビロンの中枢に宦官として神様を慕い求める人を置くことで、イスラエルの民を守られ、かのネブカデネザル王も神様の御前にひれ伏さざるを得なくなりました。また、人となって生まれる前のイエス様が直接的に救いに来られたこともありました。
私たちの目に、自分たちが神様の御前に何もないはずの者なのにもかかわらず、神様をかなかす、何も役に立たない、と言い放つ、そんな私たちですが、しかし神様はかなかすでもなんでもありません。むしろ金よりも銀よりも心を満たす、湧きあがる喜びで満たして下さるのです。栄えに満ちた喜びに満ち溢れるものとしてくださるのです。そう、神様は、私たちが無価値に燃やされるかなかすのようになることを悲しまれる、そんなことがあってはいけない、とここで必死に訴えるのです。しかしそのような中で神様に絞り出すように祈る中で、私たちは神様の恵みを、救いを知るのです。
私たちは忘れていませんか?この世界は神様によってつくられた、そしてこのいのちも神様が与えてくださったんですよ?この神様が満ち溢れたところがかなかす?このいのちがかなかす?とんでもない。むしろ世の中に焼かれて大切な命を失ってどうしますか。
イエス様はその弟子ヨハネに「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」と黙示録の中で示されました。
その彼らは自分には神様の援助などいらない、自分は自分で十分だ、と言って神様が本来与えてくださっている最高の命が失われる、貧しくなっていった、その事について指摘されたのです。しかしイエス様は私たちが豊かなものとなるために、「火で精錬された金を」買うように仰られる。え?お金を取るの?そういうわけではありません。私たちは心を注ぎだし、神様により頼むその心によって私たちは与えられるのです。お金が、ではありませんよ?私たちの命が変えられるのです。かなかすだらけのものだった私たちが、イエス様の衣、愛で、いのちで、その全てで覆われ、イエス様にある希望を見るものになる、何よりイエス様の溢れんばかりの愛が満ち溢れたものとなるのです。
もっというなら、この金をあなたに与えるため、神様は御子イエス様を私たちに与えてくださったのです。本来神様をかなかすと考え、役に立たないと考え離れてしまった私たちを見捨てるのではなく、先ほど見たヒゼキヤの詩で歌われていたように、私たちを連れ帰るため、もう一度神様の家族に集めてくださる、迎えに来てくださったのです。さ迷い歩く、神様の道が見えなくなって見失ってしまった私たちの目を開くためにその目薬を塗り、悲しみの衣、心も魂も死に向かっていくその衣を脱がせ、生きたものとするため、御子イエス様は私たちのこれらの痛みも悲しみも、罪の衣も身代わりに負ってくださり、十字架にかかられ、身代わりに罰せられ、死なれたのです。このイエス様のいのちという代価をもって私たちはこの神様の本物の愛、金をいただくのです。私たちがこのイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る時、そのイエス様のいのちをもって精錬、絞り出された金、命によって私たちは生きるものとされる、神様の子とされるのです。このいのちがどうして無価値なかなかすなどと言えましょう。
「まことに、銀には鉱山があり、金には精錬する所がある」。私たちはこのイエス様のもとに金、まことのいのちを見出すものであろう。どんな日の中水の中にあっても、命をかけてでもあなたを救おうとされたイエス様がおられる。このイエス様の内に希望を見出そう。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」と、いのちをかけて私たちに良いものを与えようと私たちを今日イエス様は招かれたのですから、私たちはこの方の内に本物の良いものを求め続けようではありませんか。愛するあなたのために命がけで与えられた、イエス様を死・火の中に通して注ぎだされた大いなる恵みに希望を抱き。