「見よ。イスラエルの君主たちはみな、おまえの中で暴力をふるって血を流している。おまえの中では、父や母は軽んじられ、おまえのところにいる在留異国人は虐待され、おまえの中にいるみなしごや、やもめはしいたげられている。おまえはわたしの聖なるものをさげすみ、わたしの安息日を汚した。おまえのうちのある者たちは、血を流そうと他人を中傷し、ある者は丘の上で食事をし、おまえの中でみだらなことをした。おまえの中では父が裸をあらわされ、おまえの中では、さわりのある女が犯された。ある者は隣人の妻と忌みきらうべきことをし、またある者は嫁とみだらなことをして身を汚し、ある者はおまえの中で、自分の父の娘である自分の姉妹をはずかしめた。おまえの中では、血を流すためにわいろが使われ、おまえは利息と高利を取り、隣人を虐待して利得をむさぼった。おまえはわたしを忘れた。―神である主の御告げ―見よ。おまえが得た不正な利得と、おまえの中に流された血のために、わたしは手を打ち鳴らす。わたしがおまえを罰する日に、おまえの心は耐えられようか。おまえの手は強くありえようか。主であるわたしがこれを語り、これをする。わたしはおまえを諸国の民の中に散らし、国々に追い散らし、おまえの汚れを全く取り除き、諸国の民が見ている前でおまえにゆずりの地を与える。このとき、おまえは、わたしが主であることを知ろう。』」
エゼキエル書22章6-16節
私たちの周りには色んな人がいます。みんな仲良くやればいいじゃない、と思うのですが、なかなかこれがどうして、うまくいかない。多分それは考え方の違いだったり、立場の違いだったりで、全ての人がみんな仲良く、と行かないのかもしれない。まあ今の時代特にその辺がはっきりしているような気もしますが。だからと言ってばっさり切り捨てるのもまた違う。誰も軽んじられていい人なんていない。だってそうでしょう?あなたもあなたの隣人も、神様によってつくられた大切な人。イエス様も、罪人を食事に招いて、またご自身を逮捕しに来た人を癒されたこともあった。本当に大切なのはこの神様の愛にあって互いに愛し合う。妥協をするとかそういう意味ではなく、自分が主ではなく、神様が主であるその関係に互いに遜る中で、神様の愛がそこに現れるのではないか。私たちはイエス様のいのちをもってまで神様と和解させていただいたものであること、愛を受けていることを覚え、この愛にへりくだり、神様の愛が溢れることを祈ろうではありませんか。
さて、↑は紀元前に起あったバビロン捕囚その際に捕囚されていったイスラエルの民に向けて、神様が預言者エゼキエルを通して語られた預言・ことばの続きになります。↑のことばが語られたのはBC591年、第2次バビロン捕囚によって完全にイスラエルが崩壊するその時まで5年と迫り、彼らの危機、終わりの足音が近づいていました。そのような誰しもが希望を失っている中で神様は諦めず、ご自身が彼ら・私たちと共におられることを、幻やなぞかけ、直接的な訴えなど、様々な形を通して語られるのです。神様ご自身のご意思を彼らの内に現そうと、この愛を受け取ってほしい、そして何とか彼らに生きてほし、と切に。神様は、愛する我が子を捨てていない、お腹を痛めて赤ちゃんを産んだお母さんが赤ちゃんに惜しむことのない愛を注いでいたように、たとえへその緒から離れてもやはり大切な子なのです。私たちを軽んじるのではなく、全面的に回復していく、神様の恵みに溢れることを願い語るのでした。
↑の前からは「流血の罪」の問題を神様は彼ら、私たちに語られ始めます。彼らの問題を残らず告げ、その全てが神様の全て、神様の血潮によって洗い聖められ、回復されること、偶像という偽の何かによる支配から解放して、神様の恵みに生きてほしいと訴えていました。
なお神様はエゼキエルに続けて「見よ。イスラエルの君主たちはみな、おまえの中で暴力をふるって血を流している。おまえの中では、父や母は軽んじられ、おまえのところにいる在留異国人は虐待され、おまえの中にいるみなしごや、やもめはしいたげられている」と語られます。君主、と言いますが、たぶん王たちだけではないでしょう、民の間でも両親を軽んじたり、国の中にいる他国人を虐待、みなしごややもめが虐げられるということがありました。
そもそも神様はあなたの父と母を敬うことを十戒の中で教えています、「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである」と。在留異国人やみなしご、やもめについては「在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである。すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない」とも教えています。他にも「あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない」とか、「貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない」とも教えられています。
律法、神様の教えというと、そんなものは自分には関係ない、かたい、とか色々言われることがあるのですが、下手をすればイエス様が人として生まれて来て歩まれていた頃にいた律法学者たちのようだ、と言われてしまうこともあるのですが、そもそもの話、今取りあげたのはほんの一部でしかないのですが、そんなことを言ったって物事うまくいくわけではないし、親子、家族関係だって難しいんだ、と思われるかもしれません。
ただ、イエス様は律法の中で何が大切なのか尋ねられた時、「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」と語られました。結局ここなんです。それは色々あるかもしれませんが、もしあなたが隣人を愛することを選ぶなら、あなたの家族を諦めるのではなく愛することを選ぶなら、その中に神様を求めるならどうなるか。神様の愛が溢れ、律法の語られる目的として神様が語られていた、私たちが幸せになる、私たちの齢、神様の恵みが溢れる月日が長くなる、神様の恵みを、神様のすばらしさを見させていただく、体験させていただけるのです。
それは家族の中で色々あることも知っていますし、色んな難しい問題の中にいる人もいることもわかります。私自身もそうでした。でも神様がいのちを与え、その家庭、その場所に置かれたなら、神様も目的がある、だから私たちは神様を求めてみませんか?
↑で神様は「おまえはわたしの聖なるものをさげすみ、わたしの安息日を汚した。おまえのうちのある者たちは、血を流そうと他人を中傷し、ある者は丘の上で食事をし、おまえの中でみだらなことをした。おまえの中では父が裸をあらわされ、おまえの中では、さわりのある女が犯された。ある者は隣人の妻と忌みきらうべきことをし、またある者は嫁とみだらなことをして身を汚し、ある者はおまえの中で、自分の父の娘である自分の姉妹をはずかしめた。おまえの中では、血を流すためにわいろが使われ、おまえは利息と高利を取り、隣人を虐待して利得をむさぼった。おまえはわたしを忘れた。―神である主の御告げ―」と語られています。
神様は、聖なるものを現したいのです。神様は家族にしても、コミュニティにしても神様の本物の安息を現したい、神様のご臨在を現され、神様の命で溢れさせたいのです。ここで様々な罪、前半でも弱いものを虐げるなど様々な問題が発生しています。神様の聖なるいことを、神様ご自身をさげすむ、そんなことは信じられない、信じて何になる、私の考え、やり方の方が正しいんだ、と神様を追い出した結果、様々な罪が私たちのうち、周り、いのち、様々なものを汚してしまう、いや汚されてしまうのです。もったいないじゃないですか、神様は聖なることを現したい、それなのに私たちがそれを拒否して神様が流そうとしている愛、ご計画を崩して何になるでしょう。まあ、神様を信じているよ、と言いながらここは譲れない、といって形は違えど同じようなことをされている方もいますが。文化、時代が合わないとかいろいろ言って。でもそれで世の影響で神様が与えようとしている事を否定し奪ってしまい崩してしまう。
でも、神様がみだらな状態だったり、辱める、血を流す、困っている人を虐げるようなことを望まれるか、そんな事をなさるだろうか、むしろ神様は隣人を愛する、その中に神様の愛が溢れることを願われているわけです。神様がなさる事にあなたは勝ることができますか?神様のなさることはそんなにダメなことなんですか?むしろ神様を蔑ろにしていませんか?神様は私たちが神様を忘れた、と仰られますが、その前に私たちは神様がいかに素晴らしい方なのかを忘れていませんか?↑で語られているように、君主は君主でも、自分が神様の君主になっていませんか?
神様を私たちは軽んじてはいけません。神様はあなたを軽んじない大切なものとして造られた、その神様があなたの内に現そうとされている事を、どれだけ期待していますか。神様は君主、主、神様ですけど、暴君ではありません。あなたを愛する方です。あなたをつくられ、最高傑作に造られ、神様の目には高価で尊い、愛するものとして見てくださっているんですよ?これがどれだけすばらしいことか。神様の手で、神様のイメージに似せて造られた、神様の霊を注がれた、神様の全てを注ごうとされた、神様の心血、血を注ぎ、あなたを生かそうとしてくださったのです。神様はあなたを断ち切るのではなく、それこそ数章前で見たように、へその緒が切られず見捨てられた赤ちゃんのようにではない、私たちを抱きしめ、救いあげようとしてくださったのです。
神様はそれでも神様から離れてしまった私たち、希望を失って様々なものに傷つけられ倒れてしまう私たち、何より罪によって神様の下さっている恵み、いのちを汚され失っている私たちをもう一度取り戻すため、ご自身の最高の関係に招くため、私たちのこれらの重荷、思い煩い、罪、一切を御子イエス様に背負わせ、十字架に架け、罰し、死なせたのです。そうしてあなたをこの罪の呪い、死から解き放ち永遠のいのちを与えるため、あなたを聖なるものにするため、聖なる関係に招くため、神様は最も大切な、欠かせない御子イエス様を差し出されたのです。あなたのいのちを望むがために最も大切なものを身代わりにされた、御子イエス様のいのちを代価として支払われたのです。
そこまでして取り戻された、神様があなたの内に注がれようとしている事に今日、私たちは目を留めこの神様を求めよう。神様は↑の父と母を敬え、という話の中で「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」とも語られています。神様が聖なる方、その聖を注がれ、あなたを聖なるものにしてくださるのです。御子イエス様のいのちという最も聖なるものをもって取り戻されたこの命に、神様が聖なるものを現して下さる、神様の心血が注がれる、その霊が、神様の全てが溢れることを切に祈り願おうではありませんか。何よりも、あなたの父と母を敬え、以上に、神様、御子イエス様のいのちをもって私たちを我が子としてくださった、父なる神様となってくださったこの神様の御前にへりくだり、敬う、愛し従う者でありたい。そこに神様の聖なる命、愛が溢れる事を祈り願い。神様はあなたを軽んじる事なく最高の愛を今日も現されるから。