―愛するということ― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と教えていた。そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。彼らは教会の人々に見送られ、フェニキヤとサマリヤを通る道々で、異邦人の改宗のことを詳しく話したので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行なわれたことを、みなに報告した。しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、『異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである』と言った。そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。『兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。』」

使徒の働き15章1-11節

 

世の中には様々な慣習があります。ずっと正しいと思われていた習慣、考え、主張が全く別なもの、間違っていたなんて事も結構ありますね。意外に何かの勘違いから始まって正しいと思われることも多いわけです。そうしたものに振り回されるのはなんともったいない事だろう、と思う。まあ現在の情報社会でもそうして振り回される傾向がかなり強いですが、そもそもそんなものに振り回されるなんて本当にもったいないと思う。神様はあなたに本物の愛を、本物を与えたい。偽物や曖昧な関係ではなく、御子イエス様のいのちを差し出してでも本物の関係に私たちを回復させてくださったのです。私たちはこの愛ゆえに今日生かされている。もう偽物に振り回されてはいけない。私たちはこの本物の関係の中に注がれるすべてに委ね歩もうではありませんか。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、多くの人と出会いに足を運ばれ、癒し、どんなに裏切られても、民・私たちを見捨てず、私たちの重荷も痛みも、罪も全部身代わりに背負われ、十字架に架けられ、罰せられ、死なれ3日目によみがえられた後、約束の新しい助け主なる聖霊様が降られ、教会が誕生してからしばらくしてのことです。神様は一時的に愛を注いで終わるのではなく、この救いを、一人でも多くの人に届けたい、いのちを得てほしい、と全世界に届けようと、聖霊様が多くの人の内に働かれながら人々を遣わしていきました。そうしてパウロとバルナバを聖霊様が遣わしてその愛を届けに行った第1次伝道旅行から帰ってきたところから↑が始まります。

 

実はこの15章、エルサレム会議と呼ばれる非常に大事な会議が開かれます。その始まりは「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と主張し始めた人たちが出てきたのです。どうも彼らは不信者であるユダヤ人ではなく、自称信者でエルサレムの教会から来た人たち、パリサイ人(当時の宗教家たちで、イエス様に散々反発していた)でクリスチャンになった人?という感じです。

 

で、彼らの問題提起がどこにあったのかと言いますと、神様はイスラエルの民に、その民族が始まる時から、割礼をしなければならない(男性のシンボルの皮・先端部分を切除する)と言った事から、神様を信じているというんだったら割礼を受けるべきだ、そうじゃないならクリスチャンとは言えない、救われてなんかいないんだ、というわけです。まあそれを言ったら女性は救われないじゃないか、と思うわけですが。

 

そもそもの話、神様は割礼をなぜ命じられたのか。神様に従う、神様のしるしとしてそれを命じられたわけですが、中東社会ですし、割礼をしない状態だと色々感染の問題があったのかもしれません。ただ、じゃあ割礼さえ受ければ何をしてもいいの?という問題があったのです。彼らパリサイ人たちは確かに割礼を受けていた、だから自分神様に救われている、愛されている、「だから自分は何をしていいんだ」的な感覚で、これまで旧約でも分かち合ってきましたが、偶像に走ったり、自分の都合のいいおしえを取り入れて神様を否定する、とり除いたりしていたわけです。自分たちは神様を信じている、といいながら。同じ状態ですね。

 

神様は割礼について「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる」と仰られていました。そう、肝心なのは心の包皮なのです。どんなに私は割礼を受けたんだ、といっても「心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛」さなければ意味がない。そうして神様が私たちを生きるようにされるのです。自分を包み込もうとしている様々な思い煩いもそうですが、罪、これから離れ神様の恵みが覆い、私たちは生きるものとなるのです。

 

彼らはこの根本的な部分が欠けていた。もちろん神様が割礼を教えたわけですから、割礼をすること自体は別に否定しません。ただ、その割礼という行い、教えにとらわれ過ぎて、こだわりすぎて、イエス様の十字架が見えなくなっていた。

 

パウロたちが伝道旅行に出ていた地域は無割礼の人たちの地域でした。しかし彼らはイエス様の十字架と復活、私たちの罪の身代わりに何の罪もないイエス様が十字架に架けられ罰せられ、死なれた、そのイエス様の十字架にあって私たちが悔い改め立ち返る時に、神様と和解させていただける。このイエス様の命がけの愛によって取り戻された最高の、新しい命に変えられ、神様の霊が、聖霊様が注がれている、注がれるのです。何か行いによって救われたのではない。ただ神様の憐れみ、イエス様の十字架の恵みによって救われたのです。それに何を間に挟むことができるでしょう。

 

ここでは割礼を議論に乗せていますが、割礼だけではない、こうしなければ神様は救ってくれない、そういう自分の考える行いや慣習、教え、こうしないと神様の恵みはない、信仰が弱い、とか変な教えに縛り付けることは、神様より自分の教えや習慣を愛していませんか?神様はその律法をイエス様の十字架によって成就、解放し、本来の神様との関係に引き戻して下さったのです。それなのにどうしていやいや神様はそんなことは言っていない、と否定できるでしょう。神様によって聖められる関係を否定できるでしょう。神様より自分の習慣や教え、行いを大事にする、それじゃなければ神様は愛さないと言って縛り付けることは、本当に神様を愛することですか?それが偶像化していませんか?そんなものにひれ伏すのではなく、イエス様の十字架によって解放され、その霊が注がれた新しいいのちへせっかく招いてくださった、この新しい世界をどうして求めずにいられましょう、それを否定できましょう。そんなことで神様を試みてどうしますか。

 

じゃあイエス様の救いを信じたら何をしてもいいの?と言ったらそれはもちろん違います。私たちが神様の愛を受け取り聖められる時、私たちはその愛する神様を悲しませることをしたいとは考えないでしょう。自分のためにいのちをかけて愛された方に。そうした私たちの問題、内側にあるもの、罪も、一切を神様に委ねて良いんです。神様がそのあなたの思いを受け止め、聖め、変えてくださる、新しい心を与えてくださるのです。

 

今日私たちは神様のこの圧倒的な愛、何にも代えがたい本物の恵みに招かれていることをあらためて感謝しよう。あれをしなければいけない、これをしなければいけない、と自分の考えや習慣によってに塗り固める日々、いのちではなく、神様が招かれた関係を否定するのではなく、このいのちのうちに、神様の栄光が、神様の御心が、神様の愛が、力が、神様の全てが現わされることを祈り求めようではありませんか。心の包皮を捨てて、ただ神様の恵みがあなたを、あなたの周りを、覆うことを願い。