―振り返ると見えた愛― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ふたりはピシデヤを通ってパンフリヤに着き、ペルガでみことばを語ってから、アタリヤに下り、そこから船でアンテオケに帰った。そこは、彼らがいま成し遂げた働きのために、以前神の恵みにゆだねられて送り出された所であった。そこに着くと、教会の人々を集め、神が彼らとともにいて行なわれたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した。」

使徒の働き14章24-28節

 

なかなか客観的な目で物事をとらえる、見るのは大変です。特に自分がかかわることとなると余計に。でも、それは仕方ないんです、だって何が正しいのかなんて人には分からないのですから。もしかしたらそれは誰かの手に委ねるべきことなのかもしれませんし、時間が立たなければ分からないことだってあるわけですから。そのような中で一つ大事なことを私たちは忘れてはいけません。私たちは神様の御手の内に守られているということを。あなたにいのちをくださった神様が今日あなたと共にいてご自身の恵みを注いでくださっていること、神様ご自身が共にいてくださっていることを。神様はあなたを丸ごと愛してくださっている。なら私たちも神様に丸ごと委ねてみませんか?神様はあなたのためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどにあなたを愛されているのだから。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、多くの人と出会い、また癒し、どんなに裏切られても、民を、私たちを見捨てず、私たちの重荷も痛みも、罪も全部身代わりに背負われ、十字架に架けられ、罰せられ、死なれ3日目によみがえられた後、約束の新しい助け主なる聖霊様が降られ、教会が誕生してからしばらくしてのことです。神様は一時的に愛を注いで終わるのではなく、この救いを、一人でも多くの人に届けたい、いのちを得てほしい、と全世界に届けようと、聖霊様が多くの人の内に働かれながら人々を遣わしていきました。

 

そんな第一次伝道旅行もここで終わりを迎えます。ここまで色んな所に生きました。まずパウロとバルナバは聖霊様に導かれキプロス島に向かいました。そこを支配していた魔術師エルマを聖霊様の働きによって追い出し、また彼らにイエス様の十字架と復活による救いを届けました。イコニオム、ルステラなど様々な場所に向かいました。様々な人と出会い、彼らに最も大切な贈り物、いや神様からの贈り物であるイエス様の十字架と復活による救い、永遠のいのちを、福音を、愛を届けました。時には生まれつき足の萎えた人もいました。その彼も神様と出会い、足だけではなく彼の全てが神様によって新しくされたのでした。

 

ただ、彼らは何度も迫害にあい、石を投げられ殺されそうになったこともしばしば。しかしパウロたちは「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と告白しました。多くの苦しみの中にあってそれでも神様は彼らを諦めていない、その彼らの内に神様が働かれる、その愛を現して下さる中で神の国は、神様の恵みは、神様の愛は広がっていくんだ、と告白し、旅をつづけました。そして今↑、「ふたり(パウロとバルナバ)はピシデヤを通ってパンフリヤに着き、ペルガでみことばを語ってから、アタリヤに下り、そこから船でアンテオケに帰った。そこは、彼らがいま成し遂げた働きのために、以前神の恵みにゆだねられて送り出された所であった。そこに着くと、教会の人々を集め、神が彼らとともにいて行なわれたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した」のでした。

 

(黄緑のルートで帰ります。ほぼ同じルートです)

 

彼らは元の道を通って帰ります。彼らはこれまでさまざまな苦しみにもあった、しかし神様が成されたこと、良いことは何一つたがわなかったことを知るのです。今第1次伝道旅行で回った地域に多くの教会が誕生します。この時神様がパウロたちを通してまかれた種は確かに順調に育って芽を出し、花を咲かせ、実を結ばせていった、行くのです。神様が異邦人に信仰の門を開いてくださっていた、神様は確かにその門を閉ざすことなく誰しもにその門を開き、恵みを注いでおられたのです。人の目にはこんなところに種を蒔いて何になる?と思う中で、確かに神様がその実を結ばせてくださるのです。パウロたち人間が優れたことを言って、その主張が彼らを育てたりしたのではない、その彼らが語るまことの神様の愛が、言葉だけではなく現実に彼らの内に満ち溢れていたのです。

 

神様の働きはまだ終わっていない。人の目には諦めたくなることでも、私たちは祈り続けよう。神様が成し遂げてくださる。成し遂げ続けるその働きに私たちは委ねよう。自分の思いを実現させようとしても出る実は限界があります。それはいつかは終わりを迎えますし、雨風が来れば倒れるだけです。しかし、神様がそこに結ばせて下さる実はいかばかりか。この天地万物をつくられた神様、あなたにもその恵みを注ぎ支え、守り、導いて下さっている神様が成し遂げ「続ける」その働きはどれだけ豊かに広がることか。ほんの小さなからし種(0.5mm)でも、鳥がとまり羽を休めるほどの木に成長するのです。私たちが神様の御もとに憩わせてくださる、その神様の御もとに住まわせ、安らがせていただけるのです。

 

私たちは自分の思いに留まるのではなく、神様の計画に信頼しよう。自分の報告ではなく、神様が成し遂げてくださる報告は私たちの想像をはるかに超えたものとなるでしょう。自分の自慢ではなく神様の御名がとどろき渡る。その時、私たちは神様の恵みが確かにここに留まっていることを知るのです。

 

私たちは忘れてはいけません。神様は御子イエス様のいのちをもって私たちの思い煩いも、痛みも、罪も一切身代わりにされ、十字架上で罰し、死なせたことを。そして3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子とされるということを。それはもはや私たちが生きているのではなく、復活のイエス様が私たちの内に住まわれ、生きて働かれているのです。そこまでされた神様のなされることがどれだけのことか。自分が自分が、と自分が神のようにふるまう歩みに帰って何になるでしょう。それを神様は回復させるためにイエス様のいのちを与えた、その愛をパウロたちの危険をも顧みず届けた。この神様の愛を無駄にしてどうしましょう。むしろもっともっとこの神様の愛が溢れ広がることを願わずしてどうしましょう。

 

私たちはこの主の前に跪こう。口先でそういうだけではなく、パウロたちのようにその手も足も、口も、全てを委ねる時、それは驚くべき広がり、回復、いのちをもたらすから。このパウロたちの伝道旅行を通して神様の種が蒔かれ花が咲き、実を結んでいったように、今日も主があなたの内に働かれる。私たちは自分の手を置いて、主に委ねようではありませんか。あなたの国、世の国ではなく、神様の国が広がることを祈り願い。