「こうして、わたしはエジプトの地から彼らを連れ出し、荒野に導き入れ、わたしのおきてを彼らに与え、それを実行すれば生きることのできるそのわたしの定めを彼らに教えた。わたしはまた、彼らにわたしの安息日を与えてわたしと彼らとの間のしるしとし、わたしが彼らを聖別する主であることを彼らが知るようにした。それなのに、イスラエルの家は荒野でわたしに逆らい、わたしのおきてに従って歩まず、それを行なえば生きることのできるそのわたしの定めをもないがしろにし、わたしの安息日をひどく汚した。だから、わたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らを絶ち滅ぼそうと考えた。しかし、わたしはわたしの名のために、彼らを連れ出すのを見ていた諸国の民の目の前でわたしの名を汚そうとはしなかった。だが、わたしは、わたしが与えた、乳と蜜の流れる地、どの地よりも麗しい地に彼らを導き入れないと荒野で彼らに誓った。それは、彼らがわたしの定めをないがしろにし、わたしのおきてを踏み行なわず、わたしの安息日を汚したからだ。それほど彼らの心は偶像を慕っていた。それでも、わたしは彼らを惜しんで、滅ぼさず、わたしは荒野で彼らを絶やさなかった。」
エゼキエル書20章10-17節
私たちは一人になるとどうしても不安になります。どうしたらいいのか分からなくなって不安になって。そして何かに頼ります。もちろん誰かに頼ることは間違いではありません、誰かにより頼むのも間違いではありません。ただ、誰に頼むかによってその道はまったく別なものになります。それはそうですいよね、ガイドが道を知らなかったり、何か目論んでいれば大変なことになります。あなたという人生、いのちだってそう、あなたのことをよく知って、あなたを真剣に考える方じゃやないと。私たちは忘れてはいけません。あなたを愛し、あなたのいのちを良いもので満たそうとされる方がいることを、神様がいることを。神様はあなたをいのちの道へもう一度連れ戻すため、御子イエス様をあなたのもとに遣わされた、いやそれだけではなくあなたの重荷も罪も、一切身代わりに背負われ、罰せられ、死なれてでもあなたを取り戻そうとされたのです。このイエス様が今日あなたと共にいる、この方から離れず今日も歩もうではありませんか。
さて、↑は紀元前に起こったバビロン捕囚の際に、そのバビロン帝国に捕囚されたイスラエルの民に向けて、神様が預言者エゼキエルを通して語られた預言・ことばの続きです。↑ではBC591年、第2次バビロン捕囚により完全に国が崩壊するまで5年と迫っている段階でした。すでに危機は迎えている中で神様は、それでもご自身がおられること、ご自身を現し、彼らに生きてほしい、と願いその御手を伸ばされていることを幻やなぞかけ、直接的な訴えなど、様々な形で語られてきました。ここまでで特にその思いが現れていたのが、↑の少し前の章で語られていた、へその緒さえ切ってもらえず、野に捨てられていた、血だらけの裸の赤ちゃんを神様は抱きしめ、生きよ、生きよ、と何度も励まし温め、ご自身の家族に招いてくださったその姿、思いを示されました。神様はそうして彼ら、私たちに、生きてほしい、生きよ!とご自身の戸、天の窓を閉ざすことなくその恵みを注ごうとされていたこと。また、「新しい心と新しい霊を得よ。…わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。―神である主の御告げ―だから、悔い改めて、生きよと」、語られ、神様の霊によってもう一度生きたものになってほしい、あなたが死にゆくことは悲しい事なんだ、だから生きてほしいとその愛を現そうという思いが語られていました。
そして今、↑で神様はイスラエルの民に向け、また私たちに向け、自分たちが何者であるのか、昨日の箇所までは400年渡りイスラエルの民がエジプトに捕らえられていた、そのことについて神様が彼らを選ばれていた、祝福されていたのに、彼らは偶像を拝んでいた、それでも神様はその御名のゆえに、彼らを愛することを選ばれたことを語られていました。
昨日も見ましたが、神様は彼らを選ばれた。それは彼らイスラエルが特別だったからではありません。差別しようとしたわけでもありません。むしろもっとも小さなもの、神様などどこにいるのだろう、と暗闇の底にいてさまよう彼らの父祖にあたるアブラハムを愛することを選ばれたのでした。神様から離れているから捨てるのではなく、むしろ彼の心の叫びを聞いて。そして神様の祝福の内に、神様の供えられた場所に住まわせてくださったのでした(現在のイスラエルのあたり)。
↑の箇所にも、また私たちにも共通する話ですが、私たちは「神様が造られたこの世界に住まわせていただいている」ということを忘れてはいけません。どこかに行ったら神様はいないとか、時々神様がいない時があるとか、そういうことはないのです。だって、この世界は神様が造られたのだから神様がいない、ということ自体がおかしな話で、むしろ家主といいますか、つくり主なる神様が私たちを住まわせ守られているのです。神様が与えてくださったこのいのち、この時間、そういう意味でも神様が不在になる、ということはありません。
↑で400年近くの間イスラエルの民がエジプトの奴隷として捕えられていた後に神様は救い出して下さったことが語られていますが、そんなどん底下にあって神様は彼らを守られ、当時のエジプトの王ファラオさえ、イスラエルの内に働かれる神様を恐れていたほどでした。そしてイスラエルは苦難の中にあっても増やされていました。そして神様はモーセという人をリーダーとしてたて、神様は多くのわざをもってエジプトからイスラエルを救い出したのです。
ちなみにエジプトは?差別では?と思う方もいるかもしれませんが、彼らにだって神様はその御業を見せながら神様に立ち返る機会は与えていたのですが、その神様に反発し、大ダメージを受けることとなります。またその中で神様を見て、この神様についていきたいと言って、イスラエルと一緒に救い出された外国人の人たちも実はいた。確かに神様は神様を求める人を救われる。
話を↑に戻し、神様は彼らをエジプトから救い出し、荒野の道を進ませます。え?せっかく救われたのに何でそんな道をわざわざ進ませるの?と思いますか?私もこれを書きながらなんで神様は荒野の道を進ませたんだろう、と思ったのですが、しかしそうではないのです。実はイスラエルの民の旅路は最短ルートを進ませません。
なぜかというと、今でいうガザの辺りには当時ペリシテがいたため、まだ旅に慣れていない、戦いにも慣れていない彼らがそこで心が萎え、また殺されることを避けさせたのです。神様は彼らのゆく道、全工程を守られていたのです。食べ物がない彼らに毎日食べ物を神様ご自身が運ばれ、水のないところに水を起こされた、途中避けられない戦いもありましたが、神様は彼らを守り勝利を治めさせてくださりました。
見えてきたでしょうか、この世的にはその道は荒野に見えるかもしれない(実際彼らが進んだ土地は、中東エリアを考えればわかると思いますが荒れた土地の地域ですしね)、しかし神様がそこに恵みを施される時、そこは人の目には荒野でも、神様のいのちが溢れるところへと変えられるのです。この世が支配する場所ではない、神様のすべてが覆う場所と変えられるのです。いや、もともとそうなのですが、私たちが罪や、様々なものを持ち込んでこの世的なものに変えてしまっているだけの話で。
神様は「わたしのおきてを彼らに与え、それを実行すれば生きることのできるそのわたしの定めを彼らに教えた。わたしはまた、彼らにわたしの安息日を与えてわたしと彼らとの間のしるしとし、わたしが彼らを聖別する主であることを彼らが知るようにした」と仰られていますよね。おきてというのは、彼らや私たちを縛り付けるためのものではありません。神様は「きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。…どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。…イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう」と、彼らが幸せになってほしい、そのための道を神様は示されていたのです。
実際世の中生きていると、どこに幸せがあるんだろう、と探し求めますがなかなか見出すことはできません。見出しても儚く終わったり。しかし神様が私たちを幸せにしてくださるのです。何も聞こえない、見えないと思う中で人の目、耳には小さく見え、聞こえるかもしれない神様の御業、導きが確かにあるのです。その神様の御業が、御声が、導きがイスラエルの民を荒野にあって支え守られ、導かれたのです。神様の安息に、神様の聖さの内に招き入れたのです。
「それなのに、イスラエルの家は荒野でわたしに逆らい、わたしのおきてに従って歩まず、それを行なえば生きることのできるそのわたしの定めをもないがしろにし、わたしの安息日をひどく汚した。だから、わたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らを絶ち滅ぼそうと考えた。しかし、わたしはわたしの名のために、彼らを連れ出すのを見ていた諸国の民の目の前でわたしの名を汚そうとはしなかった」と神様は告げられます。神様は幸せを願い、何もない荒野にご自身の御業を現し、養い、支え、導いてこられたのに、彼らは逆らって、むしろ逆の道を進んでしまったのです。このあたりの詳しい話はまた明後日分かち合いますが、私たちは神様の御名のゆえに、愛ゆえに今日この荒れ地のような道、いのちの中にそれでも滅ぼしつくされず、むしろ救い出そうとされている神様にもう一度目を留めましょう。
神様は私たちをそれでも見捨てる、のろうのではなく、祝福、愛することを選ばれたのです。私たちが本来神様から離れ好き勝手に生き、神様の与えてくださっている命、日々を汚している、そんな私たちをもう一度聖いものに回復させよう、安息に招き入れようと、神様は私たちのこれらの痛みや悲しみ、思い煩い、何より罪を取り除くため、御子イエス様に私たちのこれら一切を背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦され、神様の子として迎え入れてくださるのです。本当の幸せの中に、安息の中に、神様のうち・家族に招き入れてくださるのです。
私たちは今日、これほどに神様に愛されているということを忘れてはいけません。神様があなたのために成されたこの御子イエス様の十字架の愛に何が勝ることができるでしょう。これ以上あなたに何を与えることができるでしょう。むしろこれ以上ない愛をあなたに与えてまであなたを愛され救い出された、その先に神様が用意されている、備えられているものはいかばかりか。私たちはこのイエス様のいのちにあって新しい命が与えられているのです。本来数章前で見たような、へその緒さえ切ってもらえず見捨てられてもおかしくなかった私たちを、命をかけて救い出された神様がおられるのです。ここに神様の全てが備えられている。このイエス様があなたと共に世の終わりまで進まれるのです、守られ、導かれるのです。今日私たちはこのイエス様の愛にもう一度帰ろう。このいのちをもう汚してはいけない、神様の聖さ、御業、神様ご自身が覆ってくださりいのち溢れるものとして下ださるよう祈り求めようではありませんか。

