「『…あなたがたは、【なぜ、その子は父の咎の罰を負わなくてよいのか】と言う。その子は、公義と正義とを行ない、わたしのすべてのおきてを守り行なったので、必ず生きる。罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行なった正しいことのために、彼は生きる。わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。―神である主の御告げ―彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。しかし、正しい人が、正しい行ないから遠ざかり、不正をし、悪者がするようなあらゆる忌みきらうべきことをするなら、彼は生きられるだろうか。彼が行なったどの正しいことも覚えられず、彼の不信の逆らいと、犯した罪のために、死ななければならない。あなたがたは、【主の態度は公正でない】と言っている。さあ、聞け。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。正しい人が自分の正しい行ないから遠ざかり、不正をし、そのために死ぬなら、彼は自分の行なった不正によって死ぬ。しかし、悪者でも、自分がしている悪事をやめ、公義と正義とを行なうなら、彼は自分のいのちを生かす。彼は反省して、自分のすべてのそむきの罪を悔い改めたのだから、彼は必ず生き、死ぬことはない。それでも、イスラエルの家は、【主の態度は公正でない】と言う。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。」
エゼキエル書18章19-29節
ここ数日、日本各地で大雪に見舞われていましたね。私のところも全国区のニュースで地名であがるほどの観測史上最高の記録がでました。私の家の前はその記録を超えて1.5mの積雪でした。外に出るにしても、仕事に行くにしてもまず玄関を出て10mほど雪はねをしなければ仕事にも買い物にも行けなかった。それでも予め買い物していた食料で食べ物は満たされ、また道なき道路も、なんとか進みながら守られ仕事にも行けた。ああ、私たちって気づかないだけで神様に守られているんだな、と改めて思う。宗教とかそういうのじゃない、確かな神様の愛によって私たちは支えられている、神様の造られた、大切な子として。だからこそ私たちはどんな場面にあろうと神様を求め続けよう。神様が成されることに大いに期待しよう。御子イエス様のいのちを身代わりにしてでもあなたを救わんとされた方が今日あなたに成そうとしていることに。
さて、↑は紀元前に起こったバビロン捕囚、その際バビロンに捕囚されていったイスラエルの民に向け、神様が預言者エゼキエルを通して語られた預言・ことばの続きになります。神様は、ここまで多くの幻や預言を通して民に、その御思い、ご愛を何度も訴えてきました。神様は、ご自身を捨てて離れていった民をそれでも見捨てていませんでした。↑の少し前の章で、へその緒さえ切ってもらえず、野に捨てられていた、血だらけの裸の赤ちゃんを神様は抱きしめ、生きよ、生きよ、と何度も励まし温め、ご自身の家族に招いてくださったその姿、思いについて語られていましたが、神様はそうして彼ら、私たちに、生きてほしい、生きよ!とご自身の戸、天の窓を閉ざすことなくその恵みを注ぎ続けていたのでした。傷つき倒れた彼らをそれでも愛し、抱きしめ、癒そうと。本当の意味で回復させようと招き続けるのでした。
そんな彼らに向けて神様は↑の前で、誰かのせいとか、あの人のせいとかそういうものに縛られるのではなく神様のおかげさまで生かされている、神様の義・愛を求める中に生きることを示されてきましたが、神様はさらに「あなたがたは、『なぜ、その子は父の咎の罰を負わなくてよいのか』と言う。その子は、公義と正義とを行ない、わたしのすべてのおきてを守り行なったので、必ず生きる。罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する」と語られます。
↑のように語られる前に神様はまず「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。わたしは誓って言う。―神である主の御告げ―あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ」と語られていましたね。お父さんの影響(両親の)、罪が子に影響をもたらす、と。確かに親にしても何にしても影響というのはどうしても受ける、神様も3代にまで及ぶ、と仰られた。でも、何代とかそういう問題ではなく、神様を求める人には千代にまで恵みを及ぼすとも語られています。
神様は、この千代の恵みに私たちを招かれているのです。↑で神様はだから、その子、私たちが公義と正義とを行ない、神様のすべてのおきてを守り行なうことを願い語られているのです。その中で神様が私たちの内に働き生きるんだ、と。そう、一番肝心なのは誰に繋がっているか、誰を求めているのか、なのです。
昨日も分かち合いましたが、義人は一人もいませんが、神様を求める中で神様はその義を現して下さります。イエス様も「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」と語られました。「神様が」私たちが求めるレベルではない、その恵みを加えてくださる、与えてくださる、明日を心配する必要がない十分な恵みを日々与えてくださる、と約束されています。だから神様の義を、神様の国を求めて良いんだ、神様ご支配、ご統治、神様の恵みが満ち溢れること、神様がこの地に、あなたの内に、あなたの家庭の内に、職場に…どこにおいても求めて良いんだ、そこに神様がその義を現される、と。
↑の話を見ていると、ただ親子関係の影響を教えているようですが、その本質は神様を求めることです。神様は、少し前の章でへその緒さえ切ってもらえず捨てられていた、血だらけの赤ちゃんを抱きしめ、生きよ、生きよ、と繰り返し語りかけ、食事を与え、食べさせ、養ってくださったと、私たちへの愛について語られていましたが、その慈愛といいますか愛は、今私たちにも訴えられているのです。その赤ちゃんは見捨てられ、誰にも身体を拭いてさえもらえずにいた、その子は抱きしめてくれた人に、いや神様に何かをしたから抱きしめられたわけではありません。ただ泣き叫んでいただけです。しかし、神様はその泣き叫びを、助けを求めるその声を聞いておられた。神様は私たちの泣き叫び、声を聞いておられるのです。どうにもならずにいる私たちの声を。神様は私たちに生きてほしい、生きよ!そう願い、その愛を現して下さる、神様の義を、神様の全ての愛をもって現して下さるのです。
このへその緒のたとえが語られてきてからずっと、このフレーズを使ってきましたが、考えてみてください。赤ちゃんをお母さんの胎内に宿すまでの過程を考えると不思議ではありませんか?その最初の形態からへその緒がお母さんの胎盤にくっつく?私、この話を聞きながら不思議でならなかった。私は医者ではありませんから詳しくは分かりませんが、胎盤は7週ごろから発生し、15週くらいで完成する、と言います。ということはもともとは体の中にあったわけではなく、これをつくられる神様がいて、その神様の造られた胎盤に、5週ごろから作られるというへその緒が繋げられ、生きるようにさせてくださる。そう、私たちはある意味神様によってつなげられ、生かされているのです。このへその緒の出発はすべて神様、お母さんにつながる前、私たちは神様につなげられ、生きていたわけです。私たちは神様に見えないへその緒でつなげられていた存在なのです。今も、目には見えませんが、その赤ちゃんにとって最も大切なへその緒、これが神様とつなげられている、この神様によって生きているのです。
このように私たちに体を形作られ、いのちを与えてくださった神様とのものすごく素敵な関係を私たちは忘れてはいけません。この神様につなげられ、生きるものとされている素晴らしさを。神様は、このへその緒を断ち切って捨てるのではなく、あなたに必ず生きる、神様の全てで必ず生きたものとしたい、と訴えるのです。
私たちの周りには様々なことがあって、因果応報論にとらわれてしまいます。しかしその前に、↑で神様が「その子は、公義と正義とを行ない、わたしのすべてのおきてを守り行なったので、必ず生きる。罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する」と仰るのは、むしろそうしたものと繋がって付きまとう様々な思い煩いや痛み、悲しみ、のろい、そうしたものにとらわれないように、神様の義を求めるよう仰られるのです。その中に神様の義が現されw、変えられる、と。それこそ父と子ということばから、家庭環境、私たちの置かれている状況や素性、環境や自分の属するもの、単体でも、民族でも、国でも、そうしたものの付きまとうすべてから解き放し、神様の恵みで覆い、癒して下さるのです。
私たちは神様につなげられている。これがいかに素晴らしい事か。私たちはこの神様に守られているのです。神様はこの愛に招いてくださっているのです。先程、神の国とその義とをまず第一とするようイエス様が教えられたことを紹介しましたが、私たちはこの神様の国、神様の国民として招かれている、私たちの国籍を天に神様の御もとに置かれている、刻まれている、そのあなたを神様は覚え、恵みを注ぎたいのです。
神様は今「しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行なった正しいことのために、彼は生きる。わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。―神である主の御告げ―彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか」と訴えられます(詳しくは明日分かち合います)。悪者の死を喜ぶのではなく、悲しまれる神様は、あなたが神様に立ち返り生きることを何より願われる。だから、神様は義の太陽を神様から離れているものにさえ昇らせる、新しい日を迎えさせるべく、御子イエス様に、私たちのこれらの咎や痛み、罪の呪い、一切を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせました。しかし3日目によみがえらせてくださる事によって、これらあなたをとらえる様々なもの、何より罪、その呪い、一切から解き放たれた、義の太陽、イエス様のいのちをもって、本物の救い、希望の太陽を昇らせた、かかげてくださったのです。
あなたが死ぬことがないよう、このイエス様の十字架と復活、イエス様のいのちによって神様と今日私たちは結ばれている。あなたはこの命がけの愛を受け取っていますか?あなたは今日どこに生きていますか?あなたを神様はイエス様のいのちによってご自身の家族、子として迎えてくださっているのです。この新しくされたいのち、日々はもはや何ものもあなたをとらえることはできない。私たちは何を恐れるのではなく神様の義を求め歩もうではありませんか。神様の義、神様の愛、神様の全てが今日注がれている、輝いているから。
