―それでも愛していた― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イコニオムでも、ふたりは連れ立ってユダヤ人の会堂に入り、話をすると、ユダヤ人もギリシヤ人も大ぜいの人々が信仰に入った。しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対し悪意を抱かせた。それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行なわせ、御恵みのことばの証明をされた。ところが、町の人々は二派に分かれ、ある者はユダヤ人の側につき、ある者は使徒たちの側についた。異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちといっしょになって、使徒たちをはずかしめて、石打ちにしようと企てたとき、ふたりはそれを知って、ルカオニヤの町であるルステラとデルベ、およびその付近の地方に難を避け、そこで福音の宣教を続けた。」

使徒の働き14章1-7節

 

どっちつかずの態度、これはあまり信用されない。でも何でどっちつかずの態度になるのか、それは色々あって、自分でいいところどりをしたい、というのと、もう一つはその相手を信頼しきれていないから、というのがあるでしょう。ただ私たちが忘れてはいけないのは、私たちのために完全な愛を、御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどに愛される方がいるということを忘れないでください。この方がその神様があなたを思う愛、あなたに注ごうとされていることが何に比べることができましょう。私たちはこの神様を求めよう。このお神様に心を定めよう。神様が今日あなたと共におられ、導かれるのだから。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、公生涯を歩みながら、溢れんばかりの愛を注がれ、どんなに裏切られても、私たちを見捨てず、私たちの重荷も痛みも、罪も全部身代わりに背負われ、十字架に架けられ、罰せられ、死なれ3日目によみがえられた後、約束の新しい助け主なる聖霊様が降られ、教会が誕生してからしばらくしてのことです。神様はこの救いを、全世界に届けようと、聖霊様が多くの人の内に働かれながら人々を遣わしていきました。↑の前ではまずキプロス島にパウロたちを派遣し、そこを支配していた魔術師エルマを聖霊様の働きによって追い出し、また彼らにイエス様の十字架と復活による救いを届けました。こんな小さな島さえ神様は見捨てていなかったのでした。ただ残念ながら島民の一部は神様のこの愛は自分には相いれない、といって迫害するのでした。

 

その後↑、パウロたちは聖霊様に導かれ、キプロス島から離れ「イコニオム」という場所に到着しました。これは今でいうところのトルコ、そのトルコ内にある「コンヤ」と呼ばれる町になります。この町はアンティオケという大都市から160㎞離れた場所になっています。ここは地中海の気候とは全く異なり、ずっと気温が下がります。標高 1000 mぐらいあるところであり、タウロス山脈の麓にある地域です。トルコでも五本指に入る大きさの湖が二つあり、その湖水の美しさは息をのむものがあるようです。

 

(今地図でいうところの③④のあたり、現在のトルコにいます)

 

 

ここに住んでいた人々は、元来、黒海北部にいた人々がやってきたケルト人の一派で、ローマ時代は「ガウル人」と呼ばれていました。主にフランスの方面に移り住んだのですが、この地域に分離して住み着いたそうです。紀元前 3 世紀には、ガラテヤ王国(聖書の中に出てくるガラテヤ人への手紙、その人たちはどうもこの辺り人たちのようです)を作っています。今のトルコ人は、ウイグル人と同じ中央アジアから来た人々ですが、そのトルコに、髪の毛が赤毛の白人の人たちがいるそうです。もしかしたら、ガリア人の血が混じっているのかもしれません。

 

そんな彼らは元来、騎馬民族で、馬と戦車をもって動いていました。今旧約聖書で分かち合わせていただいているエゼキエル書38章に、騎馬の大軍勢がイスラエルを攻めてくる幻がありますが、ガリア人がいたような地域からなので、当時の人たちにとっては、とても身近な光景だったかもしれません。そのこともあってか、当時はかなり粗暴な人たちがその地域を仕切っていたようです。ローマの支配下にあったものの、盗賊も多く、治安が良くなかったと思われます。ユダヤ人や異邦人からの難以外にも、盗賊の難があったことをパウロは後の手紙で書き記します。

 

神様はそんな危険な場所にさえパウロたちを遣わし、この愛を届けようとしたのでした。そこに神様の愛があった。こんなところに神様も何もあるか、とある人は思う時があるかもしれない。こんなことを書いている私だってありましたし、あります。しかし神様は訪れてくださる。私たちの救いの時を、私たちを様々なとらえる何かから解放を告げようとされるのです。その神様の時、ご意思、ここで「主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行なわせ、御恵みのことばの証明をされた」とあるように、神様は語られ、また何かをなされる、神様の御手は私たちが何もない、どうにもならない、と思う中に確かに伸ばされているのです。

 

イエス様はなおのこと、神の御子であられながら罪を犯さない点を除いては完全な人となって生まれてこられた、しかも当時ローマ帝国に支配され、理不尽な中を歩まなければならない中で、それでも御子イエス様を遣わしてでも、私たちがこの世の様々なものの支配、のろい、また罪から解放され、本来神様が与えてくださっているはずの最高のいのちを得てほしい、立ち返ってほしい、と招きに来られたのです。神様の愛は昔も今も変わらない、どこか遠い国の宗教でもない、あなたに現されたリアルな神様の愛なのです。

 

ただ神様に反発するユダヤ人たちに惑わされたか、ある人はイエス様をそれでも信じる、と言い、ある人たちはやはりイエス様など自分には関係ない、なにするものぞ、とイエス様を迫害する人たちにつく人たちにわかれました。特にこのユダヤ人たちは行いによって人は救われる、と主張し、イエス様の十字架の愛を否定する。もちろん救われた人の内に働く御霊様によって行いも伴ってきますが、何か良いことをしたから救われる、ならだれも救われることはできません。しかし、ただ御子イエス様の十字架という最大の良い御業によってのみ、これを受け入れるすべての人が救いに与るのです。あの人がこう言っているから、この人がこう言っているから、救われるのではない、神の御子イエス様があなたを神様の御もとに引き上げてくださる、神様の内に招いて下さるのです。

 

パウロはこの時のことについて後に手紙で「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか」と書き送りました。

 

御霊様が十字架につけられたイエス様の姿を幻でどうもこの時見せてくださったのか、定かではありませんが、しかし確かに言えることはこのイエス様の十字架がおろかな私たちさえ、上に出てくるイコニオムのような人たちにさえ現され、思い煩いやら何やら一切から解き放ち、神様の恵みの内に招かれるのです。何を惑わされてこのイエス様の愛を否定する必要があるでしょう。世の中はどうだ、あの人はどうだ、じゃなくあなたに示された愛は、イエス様の命がけの愛です。このイエス様の十字架によって、私たちは神様の子とされるのです。イエス様をこの身に着せていただいた、イエス様と一つとされるのです。このイエス様にあって神様の恵みを相続させていただけるのです。本来だったらそんな惑わすユダヤ人、強盗達のいるところ、神様は見捨ててもおかしくない中で、それでも語られたのです。それこそ、エゼキエル書で見ているような、へその緒さえ切ってもらえず見捨てられてしまった赤子を抱きしめてくださったように、神様はそんな彷徨うあなたを抱きしめ、ご自身の全てを注がれた、注がれるのです。

 

イエス様があなたに描き出される、命をかけて取り戻された愛を今日あなたは思うだろうか。あなたのどん底まででも降ってこられる、あなたのために死んで陰府に降られてでもあなたをそのいのちをもって買い戻して下さったこのイエス様が今日あなたと共におられ、導かれる。その愛を、御心を、御力を、イエス様の全てをあなたに描き出される、現して下さる。もう世の中に惑わされる必要はない、このあなたのために現された完全なイエス様の愛に今日信頼し、委ね、歩もうではありませんか。