―私たちがいて良い場所・居場所があるんです― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「神である主はこう仰せられる。『わたしは、高い杉のこずえを取り、そのうちから、柔らかい若枝の先を摘み取り、わたしはみずからそれを、高くてりっぱな山に植える。わたしがそれをイスラエルの高い山に植えると、それは枝を伸ばし、実を結び、みごとな杉の木となり、その下にはあらゆる種類の鳥が住みつき、その枝の陰に宿る。このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。主であるわたしが語り、わたしが行なう。』」

エゼキエル書17章22-24節

 

私たちにとって居場所があるというのは助けになりますね。疲れた時、辛い時に帰る場所、いて良い場所、頼りとできる人…まあなかなかそれを求めても、見出す事が難しいのが現実でしょうが。ただ鳥がその羽を休める場所があるように、神様は私たちが避難する、休める場所を用意してくださります。神様ご自身が私たちの避けどころとなって私たちを休めてくださる。私たちは神様を求めて良いんです、帰っていいのです。今日神様のもとに帰ろう。神様はあなたを喜んで迎え休ませてくださるから。

 

さて、↑は紀元前に起こったバビロン捕囚期、バビロンに捕囚されていったイスラエルの民に向け、神様が預言者エゼキエルを通して語られた預言・ことばの続きになります。特にこの章では神様は、このイスラエルにこれから何が起こるのかをなぞかけをしながら具体的に語られます。

 

神様は↑の前で「大きな翼、長い羽、色とりどりの豊かな羽毛の大鷲が、レバノンに飛んで来て、杉のこずえを取り、その若枝の先を摘み取り、それを商業の地へ運び、商人の町に置いた。ついで、その地の種も取って来て、肥えた土地に植え、豊かな水のそばに、柳のように植えた。それは生長し、たけは低いが、よくはびこるぶどうの木となった。その枝は鷲のほうに向き、その根は鷲の下に張り、こうして、ぶどうの木となって、枝を伸ばし、若枝を出した。さて、もう一羽の大きな翼と豊かな羽毛を持つ大鷲がいた。見よ。このぶどうの木は、潤いを得るために、根を、その鷲のほうに向けて伸ばし、その枝を、自分が植わっている所から、その鷲のほうに伸ばした。このぶどうの木は、枝を伸ばし、実を結び、みごとなぶどうの木となるために、水の豊かな良い地に植えつけられていた。神である主はこう仰せられると言え。それは栄えている。しかし、主はその根を抜き取り、その実を摘み取り、芽のついた若枝をことごとく枯らしてしまわないだろうか。それは枯れる。それを根こそぎ引き抜くのに、大きな力や多くの軍勢を必要としない。見よ。それが移し植えられたら、栄えるだろうか。東風がそれに吹きつけると、それはすっかり枯れてしまわないだろうか。その芽を出した苗床で、それは枯れてしまう」と、なぞをかけ、たとえをもって語られていました。

 

イスラエルの民の現状を神様は語られながら、現状が支配するのではない、神様がこれを変えてくださる、全てのことを働かせて益へと変えられることを訴えてこられるのです。それこそ、↑の前の章で見た、へその緒さえ切ってもらえず、野に捨てられていた、血だらけの裸の赤ちゃんを抱きしめ、生きよ、生きよ、と何度も励まし温め、ご自身の家族に招いた神様は、やはり彼らを見捨てられなかった。神様は今日もその天の窓を開き、彼らを待っている、そのために今彼らに向け、傷つき倒れた彼らをそれでも愛し、抱きしめ、癒そう、本当の意味で回復させようと神様は語られるのです。

 

神様は、このなぞかけから語り始めた最後の結論として「わたしは、高い杉のこずえを取り、そのうちから、柔らかい若枝の先を摘み取り、わたしはみずからそれを、高くてりっぱな山に植える。わたしがそれをイスラエルの高い山に植えると、それは枝を伸ばし、実を結び、みごとな杉の木となり、その下にはあらゆる種類の鳥が住みつき、その枝の陰に宿る。このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。主であるわたしが語り、わたしが行なう」と語られます。

 

どういうことか。神様がここで語られている「若枝」というのは、かつてイスラエルを治めていた善王ダビデの子、イエス様のことです。正確にはダビデの血を引いているわけではありません。南ユダの王は基本的にダビデの子孫たちが代々継ぎ、治めていました。それは神様が選ばれた王の血筋であり、ある意味では約束。彼らが神様に従う、その事を通して神様はご自身を現し祝福されていたのです。その神様から離れた王の時代は国は衰えていったわけです。ただ、徐々に王たちは堕落し、このバビロン捕囚でその王の流れは物理的には終わります。

 

ただ、↑の前のなぞかけの中で、エホヤキン王が捕らえられた話をされていましたが、彼が捕らえられた先で神様の助けによって恩赦を受け命を助けられたことによってその血筋は守られます。そしてまさにそのダビデの子孫からイエス様を胎内に聖霊様によって宿すマリヤの夫、ヨセフが生まれることになります。神様は一時的な王国、衰退していくものではない、不完全な王ではない、完全な王の王なるイエス様がイスラエルだけではない、全地を治め、正義と平和を広げよう、そうここで今神様は訴えるのです。この神様の思いは途切れていない、今行き場を失い疲れ果てた民に、また私たちに、とこしえの国の約束をされたのです。

 

何もかも失ったかに見えるところから、若枝が生え出る。私たちの内に。へその緒さえ切ってもらえず見捨てられていたあの赤ちゃんのように、切り倒された株のように、もうどうにもならなくなっていたはずのところに神様の愛が蒔かれていたのです。

 

神様は預言者イザヤを通して、エゼキエルより前の時代に「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す…」と語られていました。まさにこの約束はエゼキエルの時になっても変えることなく神様は確かにその誓いを果たされるのです。このどん底にある中に神様はどこにいるのか、と思う中にあって神様の芽が、実が結ばれていく。そこに神様の霊が留まるのです。そしてその地は生きるのです。

 

現実を見ると私たちは神様はいないんじゃないか、もう神様は見捨てたのではないか、と思う。しかし私たちこそ、神様を忘れてはいけない。神様はその霊を注がれると約束されているのに、どうしてその神様を求めないでいられましょう。どうして神様の霊が、神様が成し遂げようとしていることを求めずに、世にあなたを奪われることがあっていいのでしょう。

 

神様は「わたしがそれをイスラエルの高い山に植えると、それは枝を伸ばし、実を結び、みごとな杉の木となり、その下にはあらゆる種類の鳥が住みつき、その枝の陰に宿る。このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。主であるわたしが語り、わたしが行なう」と仰られていますね。神様は、何もないと思うところに豊かな木を植え、枝を伸ばされる、そこに私たちを休ませてくださるのです。

 

イエス様は、「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました」と仰られました。からし種というのは、0.5㎜しかないそうです。そんな小さな種さえ、生長すれば、何と空の鳥が枝に巣をつくるほどの者に成長する、癒させてくださるのです。神様が広げてくださるところに、私たちは憩わせてくださる。

 

 → 

(これがからし種:0.5mm)      生長するとこうなる

 

確かに現実の大きさを見ると、私たちは神様を小さく見てしまう。しかしそうではない、神様は決して小さな方ではない、神様はこの天地万物をつくられ、今もすべ治めておられる、その方の前にだれが高ぶることなどできましょう。私たちは神様を侮って、どうせ神様なんて…などと神様を世の中よりも低く見ていませんか?しかしこのすべてを造られた神様がどれだけ偉大なことを日々されているか。私たちが当たり前と思っているすべてを神様が造られ、今もその営みを維持されているのです。その方が私たちを招いて、休ませ、また憩わせてくださるのです。ここに生きよ、とその枝を、こんなどん底にいるような民にも、また私たちにも伸ばして下さっているのです。ここに留まっていいんだよ、休んでいいんだよ、と。神様ご自身が遜られて、私たちの内にその愛を広げてくださる、くださったのです。

 

「このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる」と神様は仰られますが、まさに神様は高いところに留まるのではなく、むしろ御子イエス様を神であられるのにそのありようを捨てられないとは考えず、低く、低く降ってこられた、人となって生まれてこられたのです。ダビデの子孫とはいえ、貧しきものとなっていたヨセフ、またマリアの夫婦の間に、最も貧しくなられ生まれてこられた、聖霊様を遣わし神様のご意思をそこに現されたのです。↑の預言を、イザヤの預言を、また多くの預言者を通して語られた約束を成就するために。あなたのうちに現すために。最も弱い赤ちゃんとして生まれてこられ、その中で同じ重荷を負いながらその愛をどこまでも現していかれました。

 

あなたの魂を取り戻すため、あなたのいのちを取り戻すため、あなたの内を支配する様々な世の勢力、思い煩いを与えるもの、何より罪、サタンの手からあなたを取り戻そうと、徹底的に遜られ、仕え、癒され、また私たちを神様の方に立ち返らせようと、どんなに裏切られ、罵られても最後までその愛を現されました。そう、民がイエス様を否定し、裏切り十字架に架けられたあとも、イエス様は最後まで十字架から降りることはありませんでした。神の御子イエス様ですから降りようと思えば降りれたかもしれない。しかしイエス様はそれをなさらなかった。最後まで私たちの重荷も、罪も、すべて取り除くため、身代わりにこの刑罰を引き受けられ、死なれたのです。そうして、私たちがこのイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返ることで、この罪の呪い、束縛から解き放ち自由とするため。イエス様が3日目によみがえられた同じ恵みに与らせるため。

 

イエス様は、私たちのどん底のどん底にまで主は降ってこられ、その枝を、御手を伸ばされたのでした。イエス様の降っていけないところなどありません。このイエス様の復活のいのちが、愛が、今日あなたの内に住まわれた、いのちの種がまかれ、あなたのうちに住まわれ、その愛を、御業を今日もあなたの内に現されている、あなたと共におられるのです。今日私たちはこのイエス様の御国、イエス様の枝、イエス様ご自身の内に宿らせていただこう。あなたを休め癒してくださるから。そこを神様の御国へと変えられるから。今日誰よりも低くへりくだられ、最も大きな愛を現された、現わされるイエス様に立ち返り、本物のいのちの内を歩ませていただこうではありませんか。神様の愛は終わったのではない、あなたの内に今日も広げられている。あなたは今日、誰を待ち望んでいますか?