「神である主はこう仰せられる。『これがエルサレムだ。わたしはこれを諸国の民の真ん中に置き、その回りを国々で取り囲ませた。エルサレムは諸国の民よりも悪事を働いて、わたしの定めに逆らい、その回りの国々よりもわたしのおきてに逆らった。実に、エルサレムは、わたしの定めをないがしろにし、わたしのおきてに従って歩まなかった。』それゆえ、神である主はこう仰せられる。『あなたがたは、あなたがたの回りの諸国の民よりも狂暴で、わたしのおきてに従って歩まず、わたしの定めを行なわず、それどころか、あなたがたの回りの諸国の民の定めさえ行なわなかった。』それゆえ、神である主はこう仰せられる。『今、わたしもあなたを攻め、諸国の民の目の前で、あなたにさばきを下す。あなたのしたすべての忌みきらうべきことのために、今までしたこともなく、これからもしないようなことを、あなたのうちで行なう。それで、あなたのうちの父たちは自分の子どもを食べ、子どもたちは、自分の父を食べるようになる。わたしは、あなたにさばきを下し、あなたのうちの残りの者をすべて四方に散らす。それゆえ、―わたしは生きている。神である主の御告げ―あなたはあなたのすべての忌むべきものと、すべての忌みきらうべきことで、わたしの聖所を汚したので、わたしはあなたを取り去り、わたしはあなたを惜しまず、また、あわれまない。あなたの三分の一はあなたのうちで疫病で死ぬか、あるいは、ききんで滅び、三分の一はあなたの回りで剣に倒れ、残りの三分の一を、わたしは四方に散らし、剣を抜いて彼らのあとを追う。わたしの怒りが全うされると、わたしは彼らに対するわたしの憤りを静めて満足する。わたしが彼らに対する憤りを全うするとき、彼らは、主であるわたしが熱心に語ったことを知ろう。…』」
エゼキエル書5章5-13節
人と人の関係というのはなかなか難しい。無条件に何でもいいよいいよ、と言えるケースをあまり見かけません。何とか自分の意見を通して引き込もうとするか、聞くだけに満足してしまっているのか。でも聞いて終わり、では寂しい。いや気にくわないから終わり、好きにすれば?というのはどこか違う。ただ神様は私たちの問題を知って捨てるのではなく、私たちをそれでも何とか生きてほしい、と最善の道を神様ご自身が切り開き、導いて下さるのです。その愛は行くところを知らず、あなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず身代わりに与えるほど。そこまでしてあなたに生きてほしい、とその愛を注がれる。私たちは今日、このイエス様の愛を、いやイエス様をどれだけ求めているでしょうか。
さて↑はBC593年、昔あった第一次バビロン捕囚の5年後に、神様が捕囚地にいるエゼキエルに語られたことばになります。かつては神の国と呼ばれていたイスラエルでしたが、彼らは神様の憐れみを受けながらも、徐々に神様から顔を背けはじめ、とうとうバビロンに捕囚されるのでした。しかし神様はそのような絶望の地にあっても彼らに愛を現そうと、預言者のエゼキエルを捕囚地に置く、遣わされるのでした。そこで神様は天を開き、言葉に尽くせない神様の圧倒的な御姿、そこに広げがる光景に、彼らを、私たちを招き、引き上げようと幻を見せ実現させようと、そむきの民のもとにエゼキエルを遣わすのです。そんな中で神様は↑の前で不思議な行動をエゼキエルに取らせ、神様は私たちがどんなに不安に囲まれていようとも神様はその御顔を向け、あなたを解放しようと働かれていること、私たちの苦しみを神様が担い、この重荷も命も交換し、また何もかも失ってしまった彼らにもう一度変えることのできない神様の恵みを注がれ、恥を拭い去ろうとしていることを示されました。
そこで神様はエゼキエルに「これがエルサレムだ。わたしはこれを諸国の民の真ん中に置き、その回りを国々で取り囲ませた。エルサレムは諸国の民よりも悪事を働いて、わたしの定めに逆らい、その回りの国々よりもわたしのおきてに逆らった。実に、エルサレムは、わたしの定めをないがしろにし、わたしのおきてに従って歩まなかった」と語られます。これは、とありますが、それは↑の前で神様がエゼキエルに「人の子よ。あなたは鋭い剣を取り、それを床屋のかみそりのように使って、あなたの頭と、ひげをそり、その毛をはかりで量って等分せよ。その三分の一を、包囲の期間の終わるとき、町の中で焼き、またほかの三分の一を取り、町の回りでそれを剣で打ち、残りの三分の一を、風に吹き散らせ。わたしは剣を抜いて彼らのあとを追う。あなたはそこから少しの毛を取り、それをあなたの衣のすそで包み、そのうちからいくらかを取って、火の中にくべ、それを火で焼け。火がその中から出て、イスラエルの全家に燃え移ろう」と語られたことを受けたものです。
神様の祝福の象徴である髪、髭…そうしたものを剃り落とされ、恥を負うことになることをこのデモンストレーションで示されましたが、神様は本来はその祝福を彼らに現していたのに、民は離れてしまったのです。剃り落とされてしまった彼らの本来の恵み、しかし神様は神様の計り知れない祝福が注がれていたのです。
この神様のことばをよく見て見ますと、神様はエルサレムを「諸国の民の真ん中に置」かれたとあります。実際彼らの周りには様々な国がありました。イスラエルの兄弟国のモアブ、アモンやペリシテ、シリヤ、ツロ、エドム、アラビヤ、エジプトなど。まあ今もアラブやイスラム諸国に囲まれている現状は変わりませんが。それは神様が意地悪をしてそういう場所に彼らを置いていたのかというとそうではありません。ここの中心、ある人は「地のへそ」と訳しているのですが、まさにへそ、そこが中心なんです。そして置かれた神様ご自身こそが本当の中心。この神様から祝福が溢れ流れていくのです。エルサレム、といいますかイスラエルが何かすごいのではない、神様が祝福されるからそこは生きるのです。そこから溢れ流れるのです。
かつてまさにそのエルサレム、イスラエルで王であったダビデはこれを体感し、その神様がくださる幸せ、楽しさは「頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられた」と詩にしました。↑の前に出ていた髭、ここにも出ていますね。頭(髪)から注がれる祝福は、髭、そして衣の房に至るまで満ち溢れる。山の天辺にわずかに滴った水は山の麓にまで行き届き、潤すのです。
神様がこの中心におられ、エルサレムを建てられた。その神様がいるからその祝福は彼らを満たし、また周りの諸国に至るまであふれるわけです。想像してみてください。あなたの周りの人たちが神様を信じるなら、そこはどれだけ恵みに溢れた場所となるでしょう。職場、家族、あなたの置かれている地域。自分が孤独、と思っている中にあって、実は神様が中心におられる。そしてそこに神様が祝福を置かれようとしている。私たちはこれを求めていますか?周りをあれこれ言うのは簡単、しかしむしろ私たちはだからこそ、本当の中心、王の王なる神様がここに御心を現して下さる事を祈ろうではありませんか。
そう、実はイスラエルはこの点で大いに問題を抱えていたわけです。まさに神様はイスラエルを神様の祝福の基として選ばれていたわけですが、彼らは「エルサレムは諸国の民よりも悪事を働いて、わたしの定めに逆らい、その回りの国々よりもわたしのおきてに逆らった。実に、エルサレムは、わたしの定めをないがしろにし、わたしのおきてに従って歩まなかった」のです。世界の基なる神様、神様が祝福を溢れ流れさせようとしているその神様を拒んで、逆のことをすればどうなるか、言うまでもないですよね。
神様を疑って自分の方法、今の時代に合った方法で進めようとして何ができますか。自分の周りを囲う問題に対して、神様は時代遅れだの、私の経験、やり方の方がしっくりくると言って神様がされようとしていることを、流そうとされている祝福をせき止めれば私たちは疲れ果て、神様がくださったこの命が奪い取られるだけです。せっかく神様の恵みが溢れ生かされているはずなのに。神様の介入を嫌う人も多いですが、神様の法則、神様の定めではなく世の定め、支配が結局襲い来るだけです。
神様が「今、わたしもあなたを攻め、諸国の民の目の前で、あなたにさばきを下す。あなたのしたすべての忌みきらうべきことのために、今までしたこともなく、これからもしないようなことを、あなたのうちで行なう。それで、あなたのうちの父たちは自分の子どもを食べ、子どもたちは、自分の父を食べるようになる。わたしは、あなたにさばきを下し、あなたのうちの残りの者をすべて四方に散らす。それゆえ、―わたしは生きている。神である主の御告げ―あなたはあなたのすべての忌むべきものと、すべての忌みきらうべきことで、わたしの聖所を汚したので、わたしはあなたを取り去り、わたしはあなたを惜しまず、また、あわれまない。あなたの三分の一はあなたのうちで疫病で死ぬか、あるいは、ききんで滅び、三分の一はあなたの回りで剣に倒れ、残りの三分の一を、わたしは四方に散らし、剣を抜いて彼らのあとを追う」とおっしゃあれる通りです。恐ろしい話ですよね、これを読むだけで。
飢饉の激しさから父が子を食い、子が父を食うというあり得ない状況に、飢饉のゆえになる(実際にバビロン捕囚の際に、周辺諸国は助けることなく数年間バビロンに包囲され飢饉状態に陥ります)、と。そしてそこから疫病、剣が彼らに迫ることを神様は語られるのです。神様はそのような状況になることを悲しまれる。せっかく神様が与えてくださっているこの祝福を奪い取ろうと剣というよりも世の不安や様々な価値観で襲い掛かられることをどうして神様は良しとできましょうか。
だから神様はその中心におられ、その御手を伸ばされているのです。天の窓を開き、その上からの祝福で満たし、生かしたいのです。世が何もあなたに与えなくとも、あなたの造り主なる神様があなたを満たそうとその御手を差し伸べ続けているのです。彼らを囲う敵を、私たちを囲う敵や問題をみるのではない、それらを変えることができる、いや全ての中心におられる神様が私たちに熱心にその愛を注ごうと、救い出そうとしてくださっている。だから今、神様に帰れ、とエゼキエルを通してバビロンの地に連れ去られた人たちに、今エルサレムに出来気に囲まれている彼らに向けて神様は語られるのです。
神様はその熱心な愛ゆえに私たちを今見捨てず語られるだけではない、神様は私たちを囲う様々な問題や思い煩い、何より罪、死、サタンの手からあなたを救い出すべく御子イエス様を私たちのこのど真ん中に人として生まれさせてくださり、神様の恵みを失い飢え渇き倒れる私たちに愛を注がれました。それだけではない、私たちのこの本来負わなければいけない重荷も恥も、罪も一切身代わりに背負われ、十字架に架けられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえらせていただいたことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。
今日私たちは神様のもとに帰ろう。もうこのまま倒れ行くしかない私たちを見捨てなかったイエス様が私たちの内に住まい、その愛を、熱心な愛注ぎ、生かそうとあなたを待っているから。このイエス様のいのちにあって建て上げられる新しいいのち、この祝福が溢れ流れるところは生きる。さて、あなたは今日このイエス様をどれだけ求めていますか?