―それでもあなたと共にいることを忘れないで― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「それから、霊が私を引き上げた。そのとき、私は、うしろのほうで、『御住まいの主の栄光はほむべきかな』という大きなとどろきの音を聞いた。それは、互いに触れ合う生きものたちの翼の音と、そのそばの輪の音で、大きなとどろきの音であった。霊が私を持ち上げ、私を捕らえたので、私は憤って、苦々しい思いで出て行った。しかし、主の御手が強く私の上にのしかかっていた。そこで、私はテル・アビブの捕囚の民のところへ行った。彼らはケバル川のほとりに住んでいたので、私は彼らが住んでいるその所で、七日間、ぼう然として、彼らの中にとどまっていた。七日目の終わりになって、私に次のような主のことばがあった。『人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが悪者に、【あなたは必ず死ぬ】と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。もし、正しい人がその正しい行ないをやめて、不正を行なうなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行なった正しい行ないも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。しかし、もしあなたが正しい人に罪を犯さないように警告を与えて、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を受けたのであるから、彼は生きながらえ、あなたも自分のいのちを救うことになる。』」

エゼキエル書3章12-21節

 

楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまうもので、終わった後はとても残念な気分、何かを失ったかのように感じるものですね。ある時、教会の長老さんに「天国に行って永遠の命に生きるってどういう感じなんでしょうかね?」と聞いたことがあります。その長老さんは、「大好きな映画をずっとみているような、そんな感じ」と答えてくれましたが、でも、いつまでも映画見ていたら飽きるよな、と当時思ったわけです。でもそうじゃない、本当に良いものに留まる、それが大事。神様は私たちを神様のところにいさせてくださるんです。そう、神様と共にいる人生はとこしえに続く、私たちはそこから離れてはいけないんです。神様はあなたをどん底に突き落とすのではなく、あなたを救い出すために、御子イエス様のいのちを身代わりにされてまで救い出そうとされた、新しい命に招かれたのです。だから私たちはもう戻ったりせず、ただこの神様の恵みの内を歩ませていただこう。今日もこのイエス様があなたと共におられるのだから。

 

さて↑は第一次バビロン捕囚の5年後BC593年に、神様が捕囚地にいるエゼキエルに語られた言葉です。神の国と呼ばれていたイスラエルは、宗教改革を行い国を回復させたはずのヨシヤ王の死後、イスラエルは堕落し、バビロン捕囚へと向かっていきました。民は神様からの何度も現されていた愛に目も心も向けず、ついにバビロンの手に渡されたわけです。しかし神様はそのような絶望の地にあってもエゼキエルを置くことで、その愛を現そうとされます。そしてエゼキエルが30歳の時、神様は天を開き神様の幻を見せました。言葉に尽くせない神様の圧倒的な御姿、そこに広げがる光景に、彼ら・私たちを招き、引き上げようと幻を見せました。そうして今その幻を実現させようと、そむきの民のもとにエゼキエルを遣わすのでした。彼らのことばを恐れるのではなく、神様のなされようとする言葉にへりくだろう、神様のことばが彼らの内に実現し、神様の喜びを広げられる、と。

 

神様はさらに、「それから、霊が私を引き上げた。そのとき、私は、うしろのほうで、『御住まいの主の栄光はほむべきかな』という大きなとどろきの音を聞いた。それは、互いに触れ合う生きものたちの翼の音と、そのそばの輪の音で、大きなとどろきの音であった。霊が私を持ち上げ、私を捕らえたので、私は憤って、苦々しい思いで出て行った。しかし、主の御手が強く私の上にのしかかっていた。そこで、私はテル・アビブの捕囚の民のところへ行った。彼らはケバル川のほとりに住んでいたので、私は彼らが住んでいるその所で、七日間、ぼう然として、彼らの中にとどまっていた」とエゼキエルはこの時の記録を残します。

 

神様はエゼキエルをここまで見てきた圧倒的な幻のところに、ケルビム(御使い)のところにまで引き上げるのです。テルアビブという、バビロン捕囚先で共同生活苦として割り当てられた場所に神様が遣わす前に、神様は今この圧倒的な神様の幻、いや神様ご自身の内に「神様の霊」が招くのです。ここには神様の大いなる意思があるわけです。どうしても神様は彼にこれを味わってほしい、その思いがこの特別な神様の行動に現されます。

 

ここで神様の御座で賛美するケルビムの賛美、美しい天の光景が広がり、天国の前味と言いましょうか、誰もが見る事ができるわけではないその光景を見た彼はどれだけ喜びに満ち溢れたことでしょう。彼もこの喜びにいつまでも包まれていたい、そんな思いがあったのでしょう。

 

しかしなぜ神様はわざわざ神様の霊を持ってまでこの圧倒的な光景に引き上げられたのだろう、神様のご臨在、神様のある意味で世界に彼を引き上げてこれを見せたのだろう、と思うわけです。どうせならいつまでも神様のこの素晴らしいところに留まっていたいじゃないですか。

 

序論で天国のたとえについて話しましたが、別なある人が死んだあと、彼女は天国に行って素晴らしい時間を過ごしていたそうです。しかし本当かどうかは定かではないのですが、彼女が生き返るように祈ったところ、彼女は生き返り、こう言ったそうです。「なんで私を生き返らせたの。あんな素晴らしいところから、この悲しみの地にどうして戻したの」と祈ったご主人に対して憤ったそうです。そしてしばらくして再び彼女は死んだそうです。彼女にとっては神様のいますところ、天国というのは圧倒的な場所だった、この世の何も勝らなかった、やり残した、あれはどうだろう、とかそういうのさえ吹き飛ばす圧倒的な喜びだったそうです。

 

思うのですが、神様は何にも代えがたい喜びをもたらして下さる、悲しみは、涙は拭い去られる、全ての病も痛みも一切取り去られたものとして、神様の御もとで過ごす、イエス様も私たちのために住まいをそうして用意してくださっている、これは聖書から見ても確かな事、約束されている事です。神様はそのような場所を私たちのために備えてくださっている。これは間違いない事。

 

神様は先ほどの女性の体験は別としてこの経験をエゼキエルにさせてくださったのです。もちろん彼は死んだわけではない。しかし、もう元に戻りたくないと思うほどの圧倒的な光景がそこに広がっていた、彼自身もその喜びに満ち溢れた。そこまでされた神様は何をエゼキエルにされようとしたのか。それはこの圧倒的な恵みはもちろん死の後やがて神様が待っておられる、その約束でもあるでしょう。しかしそれもあるのですが、この圧倒的な光景を広げエゼキエルを待っている、エゼキエルに、私たちに備えてくださっている神様が、エゼキエルとともにある事を彼に知らせたかったのです。

 

神様は彼の生涯の内に、またこれから遣わされようとしている反逆の家と言われていた、神様の御ことばを聞かず逆らい捕囚されてきた彼らの元にももう一度神様は憐みを注ぎ、この圧倒的な光景を広げたい、神様のもとに彼らを招きたい、そのご意思がここに現わされていたのです。どうしてここから引き離したの、とエゼキエルが憤るほど、ここからもう離れたくないと思えるほどの、この世の金銀、宝に勝る圧倒的な神様の素晴らしさを神様は彼らに与えたい、彼らの内に、彼らのいるところに現したいのです。

 

確かに天国は死んだ後にしか行けません。もっというなら罪を悔い改め神様に立ち返った人が、ですが。じゃあ神様は死ななければいないの?そうではない、エゼキエルにこの素晴らしい光景を見せてくださった神様は私たちの内に住まわれたのです。そしてその愛を広げてくださったのです。最初はエデンの園でしたが、それだけではなく、神様のために幕屋を建てるなら、と幕屋の内に、また神殿の内に、そこに神様もおられ神様はそうしてイスラエルを守られ続けていた。もちろんイスラエルだけではない、神様を求める人たちを神様は何度もご自身のもとに招かれたり、誰かを遣わしたりして神様はこの恵みのもとに招いてくださっていたのです。

 

「主の御手が強く私の上にのしかかっていた」とエゼキエルは語りますが、この神様の愛がエゼキエルの内に、そして今イスラエルの民の上にある、神様の愛が彼らを覆っているのです。これらは押さえつけるものではない、むしろこの世の私たちを押さえつける者から解き放って神様の愛で私たちを変える、神様のご計画、神様の恵み、神様の御力…神様の全てで彼らを覆いたいのです。神様は見張り人としてエゼキエルをこの地に置かれましたが、監視させたかったわけではない、むしろ彼らの内に神様の愛を何とか届けたいという神様ご自身の意思がここにあった、神様の愛がここに留まっていたのです。預言者は神様のことばを、御思いを届け、現わすために神様がたてられる存在。ここに神様の愛が留まり、困っている人はいないか、苦しみ倒れている人はいないか、死に向かおうとしている人はいないか、神様を知らずに苦しみ悲しんでいる人はいないか、その人たちを見つけ神様は引き上げようとされていたのです。神様のいのちへ、この世のものでは言い尽くせない、神様の圧倒的な世界に、そしてこれを現そうと。

 

神様はエゼキエルをこの時代に遣わし、見張り人を置いたように、私たちを救うために、御子イエス様を私たちのところに遣わされました。この世の悲しみや痛みから、何より罪がのしかかるこの時代から解放し神様の恵みを、神様の全てで作り変える、癒し、回復させるために、御子イエス様を人として生まれさせてくださり、住まわせてくださりました。天国に行くまで待て、ではなく神様は今私たちが神様に立ち返り、あるべきいのちを得てほしい、永遠のいのちを得てほしいと願っておられるのです。そこで、遣わされ、時々助けるだけではなく、私たちのこの囚われた魂を解き放つ、解放するために、私たちのこの思い煩いや痛み、何より罪一切を取り除くため、私たちのこれらの刑罰を身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架に架けられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架に御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる。

 

ここから神様のこの素晴らしい恵みがあなたの内に広がる、復活のイエス様があなたの内に住まわれ生きて働かれる者へと変えてくださるのです。私たちはこの神様のすばらしさをどれだけ求めているでしょうか。この世のものを惜しい、などと言っている場合ではない、不安になる必要もない、神様はこれらを必ず作り変えてくださる。神様のこの圧倒的な愛が覆う時に全ては変えられる。見張り人として立たれる神様は今日もあなたの内に愛を現そうと、あなたがかえってくるのを待っておられる。あなたはイエス様が命をもって引き上げられたこのいのちを、神様を今日待ち望んでいますか?