―難しいことではなくシンプルで最高の愛― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「その方は私に仰せられた。『人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。』そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、そして仰せられた。『人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。』そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。その方はまた、私に仰せられた。『人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。わたしはあなたを、むずかしい外国語を話す民に遣わすのではなく、イスラエルの家に遣わすのだ。あなたを、そのことばを聞いてもわからないようなむずかしい外国語を話す多くの国々の民に、遣わすのではない。もし、これらの民にあなたを遣わすなら、彼らはあなたの言うことを聞くであろう。しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らはわたしの言うことを聞こうとはしないからだ。イスラエルの全家は鉄面皮で、心がかたくなだからだ。見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔と同じように堅くし、あなたの額を、彼らの額と同じように堅くする。わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。』その方は私に仰せられた。『人の子よ。わたしがあなたに告げるすべてのことばを、あなたの心に納め、あなたの耳で聞け。さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行って、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、【神である主はこう仰せられる】と彼らに言え。』」

エゼキエル書3章1-11節

 

私たちってなにか、難しく物事を考えてしまうというか、自分で難しくしてしまうところがある気がします。ちょっと難しい状況だから頑張らないとって一生懸命あれこれして、絡まって、かえって大変になることもありますね。でも少し待ってください。確かに私たちの目の前には問題が時に広がることがあっても、神様はいませんか?神様がいるじゃないですか。神様に頼っていいんですよ?神様はシンプルに、しかし最大の愛をあなたに注いでくださり、最高のことをあなたになして下さる。あなたを造られた神様は、あなたを愛する神様は、あなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまないほど最善をなされたのですから。私たちは今日、シンプルに、この最大の愛を受け取ろう。ここに神様の最大の愛が現わされるから。

 

さて↑は第一次バビロン捕囚から5年後のBC593年に、預言者エゼキエルに神様が捕囚地で語られた言葉です。神の国と呼ばれていたイスラエルは、ヨシヤ王の死後、イスラエルの堕落と共にバビロン捕囚へと向かっていきました。民は神様からの何度も現されていた愛に目も心も向けず背き、ついにバビロンの手に渡されたわけです。しかし神様はそのような絶望の地にあってエゼキエルを置くことで、その愛を現そうとしていたのです。そしてエゼキエルが30歳の時、神様は天を開き神様の幻を見せました。言葉に尽くせない神様の圧倒的な御姿、そこに広げがる光景に、彼ら・私たちを招かれる、引き上げようと幻を見せました。神様は神様から離れていた彼らを捨てることもできたはず、しかし神様はまだその天を閉ざさずに、私たちに神様の愛をなお注がれていたのです。そして今その幻を実現させようと、「そむきの民」のもとにエゼキエルを遣わすのでした。彼らのことばを恐れるのではなく、神様のなされようとする言葉にへりくだろう、とエゼキエルを励ますのでした。

 

エゼキエルはさらにこの時神様が見せてくださったことについて「その方は私に仰せられた。『人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。』そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、そして仰せられた。『人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。』そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった」と書き残します。

 

この巻物には「表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった」と↑の前の箇所でエゼキエルは見ていましたが、今度はそれを食べるように、と。巻物を食べて大丈夫なの?と思うところですが、おそらく霊的な物を神様が見せ、食べさせたのかな、と思いますが、いずれにしても彼に食べるように神様が仰られた、その巻物に書かれていたのは、神様のことばです。神様が語られる言葉、神様が実行されることがそこに書かれている。それを食べ信じ受け取る、エゼキエルの、私の内に入っていくとき、それは自分を苦しめるものではない、むしろ腹の底に潜む痛みなどを神様が変えてくださる、神様のことばが変えるんだ、彼ら、私たちの腹の底にある不安や痛み、疑い、それらを神様が変えてくださる、喜びに変えてくださるのです。

 

古代イスラエル王国の王ダビデは「主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い」と詩に残しました。彼の周りにはその生涯、様々な苦しみがありました。彼の前の王が在任中、国のために戦い守っていたダビデを嫉妬し、何度もそのいのちを付け狙われた、またイスラエルを苦しめる諸外国のために戦い、また息子にクーデターを起こされ国を追われるなど「恐れ」に囲まれていました。

 

しかし彼の恐れに対して神様が入ってこられた、彼の生涯に神様が触れ、神様がみことばを語られ、励まし、力づけ、いつも彼の生涯の中に共にいた、その神様が正しいことをしてくださり、何にも代えがたいものに変えてくださる、彼の不安の心を蜂蜜のように変えてくださることを体験したのです。これを神様は私達に食べさせてくださるのです。この神様のことばが私たちの内に生き、私たちもまた生きたものとなるのです。

 

さらに神様はエゼキエルに「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。わたしはあなたを、むずかしい外国語を話す民に遣わすのではなく、イスラエルの家に遣わすのだ。あなたを、そのことばを聞いてもわからないようなむずかしい外国語を話す多くの国々の民に、遣わすのではない。もし、これらの民にあなたを遣わすなら、彼らはあなたの言うことを聞くであろう。しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らはわたしの言うことを聞こうとはしないからだ。イスラエルの全家は鉄面皮で、心がかたくなだからだ。見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔と同じように堅くし、あなたの額を、彼らの額と同じように堅くする。わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする…」と語ります。

 

腹の底から癒される神様は、このことばをまさにどん底にいる、しかし神様を信じて何になる、と逆らい続けていた、そして神様以外のものに頼って結局裏切られ疲れ果てた彼らのところに神様は今預言者エゼキエルを遣わします。イスラエルの民を神様は「反逆の家」と表現していた、それでもその彼らに神様のことばを神様は届け、この腹の底にある痛みを癒そうと今されているのです。

 

人にとって、神様を信じる事、特に厳しい状況下にある時信じることは難しい事なのかもしれません。神様はここで「そのことばを聞いてもわからないようなむずかしい外国語を話す多くの国々」と仰っていますが、彼らにとってはある意味では理解するのが困難なほどに頑なになってしまっている、でも頑なになってそのまま悲しみのどん底に沈みゆくこと、神様から離れあらゆる意味で死んでいってしまう、霊肉共に疲れ果てていく彼らを見捨てられないのです。

 

神様は彼らに難しいことを語るわけではないのです。ただ神様のことばを食べて、生きてほしい、それが神様がエゼキエルに示したことではありませんか。同じように彼らにこの御言葉を食べて生きてほしい、癒されてほしいのです。様はシンプルにあなたの内に愛を注ぎたい、最大の愛を注ぎ、あなたを覆う、彼らを覆うかたい皮を一枚一枚はがすように内側から変えてくださる、エゼキエルを通して今、彼らの不安を、霊的な問題から解放しようとしているように、神様は誰かを通して、何かを通してあなたにその愛を現されるのです。時には神様ご自身が直接的に。この時代にバビロンの中枢に神様がイスラエル人を置いて民を守られ、また人となって生まれる前のイエス様が直接助けに来て下さる事によって助けるように。

 

神様が彼らを、私たちを愛しているということは、シンプルな事実です。そしてシンプルにして最大の愛を現して下さるのです。そこに働く力は死をいのちに変えるほどに圧倒的なものです。神様は、イスラエルの民は言葉を耳にしても聞かないかもしれない、といいます。それは無意味な行為、難しい行為に人の目には感じるかもしれません。しかしそれを変えるのは人間だったら難しくても、神様のことば、そのことばを発し、実現される神様なのです。神様のことばは難しい、この世的にあり得ない、と人がどんなに思っても、そのことばを実現させるのは人ではなく神様なのです。神様の愛というかたい思いを神様は注ぎ、彼ら・私たちに生きてほしいのです。

 

神様はエゼキエルに「人の子よ。わたしがあなたに告げるすべてのことばを、あなたの心に納め、あなたの耳で聞け。さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行って、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう仰せられる』と彼らに言え」と仰られます。エゼキエルは特別だから、心に納めなくていいとは言わない。これは誰にでも必要なのです。イエス様がサタンから神様は何も与えないではないか、と誘惑した時に、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と仰られます。もちろん人にパンは必要です(食事)。しかし神様はあなたを生かすためにその言葉を語り、実現してくださる、そうして私たちを生かして下さる事を約束されました。神様が私たちを生かすために「仰せられる」、あなたを生かそうと、今日もこのかたい状況、難しい中にあってそれを解きほぐし解放し癒そうとその御手が伸ばされている、口が開かれているのです。

 

私たちは今日主の御前にひれ伏そう、このことばを受け取らせていただこう。神様はあなたへのシンプルにして最大の愛を現す、実現するために、私たちを救うために、御子イエス様を人として生まれさせてくださり、与えてくださりました。この世の常識では考えられない様々な奇跡をおこないながらも、彼らを、私たちを癒す、解き放とうとしてくださりました。それだけではない、私たちを死の牢から解き放つため、私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る時、私たちの罪は赦されるのです。そして神様の子とされるのです。

 

死、サタンの手から、そのかたい牢から解き放ち、私たちは神様の与えてくださった本物のいのち、永遠の命に生きさせてくださる、この私たちの内に今日主が働いておられるのです。もう神様を信じることを難しいことと考えず、この神様が与えてくださった最高の愛の前にひれ伏し、この神様を受け入れよう。この方がはたかれること、そこに神様の恵みが溢れることを信じ祈り、待ち望もうではありませんか。ここに癒しがある。あなたは今日神様の与えてくださった最高の愛、神様ご自身を受け取っていますか?