「その方は私に仰せられた。『人の子よ。立ち上がれ。わたしがあなたに語るから。』その方が私に語りかけられると、すぐ霊が私のうちに入り、私を立ち上がらせた。そのとき、私は私に語りかけることばを聞いた。その方は私に仰せられた。『人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす。あなたは彼らに【神である主はこう仰せられる】と言え。彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。」
エゼキエル書2章1-7節
寄り添い続けるって、難しいですよね。時間的な制約だったり、それだったら仕方がないのですが、ただ寄り添うと言っても人ですから、自分の考えと離れてくると寄り添えなくなって、自分の考える方に進ませようとされることもあります。それが正しい方向だったらいいのですが、間違っていたら、それは困っている人にとっても寄り添う人にとっても良くない。ただ、神様は私たちを良い道に導こうとされる。寄り添って終わるのではなく、私たちのために御子イエス様のいのちを惜しまなかった神様があなたを引き上げてくださる。この世の様々な支配から解き放ち、神様の恵みの内に。神様は私たちを生きたものとしてくださるのです。私たちは今日この神様に信頼しよう。あなたを見捨てない神様があなたと共に進まれているから。この神様が開かれる明日へ希望をもとうではありませんか。
さて↑は第一次バビロン捕囚から5年後、BC593年に預言者エゼキエルに神様が「捕囚地で」語られた言葉になります。神の国と言われていたイスラエルは、ヨシヤ王の死後、イスラエルの堕落と共にバビロン捕囚が始まりました。民は神様からの何度も現されていた愛に目も向けず、迫っていたバビロンの手に渡されるのです。その時エゼキエルも、王や高官たちと一緒にバビロンに連れ去られました。神様は絶望の地にあってエゼキエルを置かれ、彼を通して神様はその愛を現そうとしていたのです。そして彼が30歳の時、神様は天を開き神様の幻を見せました。言葉に尽くせない神様の圧倒的な御姿、そこに広げられる光景に、私たちを招かれる、引き上げようとその幻を見せました。神様は神様から離れていた彼らを捨てることもできたはずなのですが、神様はまだその天を閉ざさずに、私たちに神様の愛をなお注がれていたのでした。
なお神様はエゼキエルに「人の子よ。立ち上がれ。わたしがあなたに語るから」と語られ、その方、神様がエゼキエルに語りかけられると、すぐ霊が彼の内に入り、エゼキエルを立ち上がらせるのです。その様子を読んでいて思ったのですが、神様は幻で物事を終わらせない。なんとなくこんないいことがあるかもね、と幻を見せるのではなく、神様のご計画を見せてくださる、見せてくださるだけではなく実現される神様なのです。見せて、はい、後は頑張ってね、頑張ったらこういう未来に行きつけるかもしれないね、ではなく、神様が引き上げてくださる、神様が一緒に立ち上がらせて下さり、神様の実現される、ご計画されるところへ導かれるのです。神様は、語られたことをむなしくかえらせることなく実現されるのです。神様がその語られる言葉によって私たちを生かすのです。
エゼキエルの内に「すぐに霊が」入った、と彼は語りますが、神様の霊が彼の内に働き、強め、立ち上がらせてくださったわけです。思い返しますと、初めの人であるアダムを神様が造られた時、ただつくって終わりではなく、神様ご自身の霊を吹き込まれ、「生きたもの」とされました。神様の霊が私たちを生かして下さるわけです。神様は私たちが死んだまま、座り込んだままでいるのではなく、無理やり頑張って立て、というわけでもなく、神様の霊が私たちの内に働き、弱さの内に働き、強めてくださるのです。
神様はこの時さらにエゼキエルに「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす。あなたは彼らに『神である主はこう仰せられる』と言え」と仰られます。
「神様に背いた反逆の国民」に、神様が預言者エゼキエルを遣わす、これはとても大きな話です。だって、神様に背いたんですよ?じゃあ勝手にしなさいよ、と人だったら言いたくなるかもしれませんが、神様はそんな彼らに預言者エゼキエルを遣わされるのです。この幻を実現させようとされる神様が、閉ざされたイスラエルの民に天の窓を開き、回復へとみちびこうと、神様はエゼキエルを遣わす。預言者を遣わしたからって何?と思いますか?
そもそも預言者というのは、神様が語られる言葉を預かり、語る人です。ただ未来予言的なことを語るのではなく、神様のことばを届ける人です。つまり、神様がその言葉を届けるのです、その反逆の民に。反逆して勝手に滅びていけばいい、と思うならそんな預言者を遣わしたりなどしないでしょう。わざわざ捕囚の地に神様に従う預言者を置くようなことはしないでしょう。神様は、神様などいらない、信じて何になる?と別な神を求めたり、離れ、魂が疲れ果て、倒れる、世の、罪の手に捕らえられる彼らを、もう一度神様のもとに引き寄せられるのです。
人は自分と違えば最初は相談に乗るよ、的に話を聞いても離れてしまいます。私の周りでもそういうところを見てきましたし、私自身もそれを受けた経験があります。しかし神様は私たちが神様から離れて恵みを失う、神様を知らないで彷徨っている、その姿を見過ごすことができず、今エゼキエルをその反逆の民に向けて派遣する、彼らのところに神様の愛を届けようと、神様は決断されるのです。何と憐み深い神様。あなたを、私たちをどんなに世が見放そうが、裏切ろうが、神様はあなたに生きてほしい、幻のように露と消えるものではなく、神様のご意思を幻ではなく実現される神様がいるのです。
「神である主はこう仰せられる」神様が、おられる。あなたはこのことばにどれだけ信頼していますか?主として、神様はあなたのうちにむなしく帰ってこない、私たちが生きるため語ってくださるのです。黙っておられるのではなく、語られる。
イエス様の12弟子の一人としてイエス様につき従っていたヨハネという人は「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」と福音書に、イエス様について書き残しました。それが彼が見たイエス様の姿だったのです。神様のことば、救い主誕生の約束として実現され生まれてこられたイエス様が、私たちから遠く離れたところにではなく、私たちの間に住まわれる。エゼキエルが暗闇の中にいる民のもとに遣わされたように、いやそれ以上の神の御子イエス様が遣わされ、そこに住まわれ、「恵みとまこと」に私たちを満ち溢れさせてくださるのです。救い主を知らずに、希望を見いだせずにさ迷う民を、私たちを神様のその言い尽くせない恵みとまことで覆われ、↑にあるように「霊を住まわせ」私たちを本当の意味で生きたものとしてくださるのです。そこに神様の栄光を、素晴らしさを見せてくださる、そのためにイエス様を遣わされたのです。そうして神様はご自身のことば、愛を今実現しようとされている。
エゼキエルに神様は続けて「彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ」と仰られます。聞いても、聞かなくても、それでも神様は彼らにエゼキエルを遣わされます。彼らに語れと言います。そのことばが彼らの内に、「反逆の家」に届け、留まらせ、世の支配の手、悲しみに満ちた家、神様の恵みが失われてしまった家を回復させよとされるのです。彼ら、私たちの内にある茨やアザミを取り除き、死に追いやるサソリを取り除き、神様のことばをとどまらせたい。
イエス様は十字架にかかる直前に「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」と仰られました。神様は、神様の家、神様の恵みに満ち溢れた家に私たちを住まわせたいのです。神様ご自身があなたと共に住まわれ、あなたのいのちという家を変えてくださるのです。神様の愛ゆえに彼ら、私たちの内に神様の愛のことばを、私たちに生きてほしいという切なる思いから語られ導かれる、そのことばがあなたの内に留まり、生かして下さる。この方が、どうせ、と思うような希望的観測な幻ではなく、あなたの内にその愛を実現され、あなたの内に神様の、先ほどのことばでいうなら恵みとまことの満ち溢れさせてくださる。イエス様は十字架にかかられる前に、弟子たちが裏切ることは知っていました。しかしそれでも、彼らをそのような罪の支配している家、いのちから解放し神様の家族へと引き上げたいのです。
神様はまだあなたを見捨ててはいない。あなたに寄り添うために、御子イエス様を神であられるのにそのありようを捨てられないとは考えず、罪を犯さない点を除いて完全に人となって生まれさせてくださった、どこか遠くではなく、私たちの家、このいのちの内に住まわってくださったのです。その中で多くの方を癒し、また諭し、希望を失っている人に希望を届け、また神様から離れ道を失っている人たちに神様の愛を届けた。どんなに石を投げられようとも、それでも彼ら、私たちを捨てるのではなく、最後まで私たちの痛みを担い、ついには私たちのこれらの痛みも、罪も、一切を身代わりに背負われ、十字架に身代わりに架けられ、罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子へと引き上げてくださる、神様の家族に迎え入れてくださるのです。
神様はあなたへの愛を実現されるために、御子イエス様を与えてくださり、いのちさえ惜しまなかった。反逆の子だから捨てる、ではなく、むしろ御子イエス様のいのちを身代わりにされてまであなたに希望的観測の幻ではなく、本物の希望を成し遂げてくださりました。その今、私たちは何に希望を抱くだろう。私たちはイエス様のいのちにあって実現された、神様の本物の愛の内を歩もう、もうここから離れてはいけない。今日あなたの内に神様のこの究極の愛が実現し、住まわれ、あなたの内に働かれているのですから。あなたをここまで愛される神様をあなたは今日求めていますか?愛していますか?この神様の愛があなたと結ばれ、今日も共にあることに感謝し、歩もうではありませんか。