―なんでそんなことが!それでもあなたを救う方がいる― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕らえにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。」

使徒の働き12章1-4節

 

世の中見回すと、何でこんなことが!ということがたくさんあります。もちろん、なんてすばらしいことが!と思えることもあるんですが、どうしてもこのマイナスの方に私たちの心は引っ張られ、心は本当に疲れてしまう。ただ、あなたをそこから引き上げて回復させてくださる方がいる、ということをどうか覚えていてください。世の中がどんなにあらがおうと、神様のこの愛に勝ることはできないのです。私たちは神様を待ち望もう。あなたを癒し、何よりあなたを死のどん底、罪のどん底から、御子イエス様のいのちを身代わりにしてでもあなたを救われた方があなたを解放しようとその御手を伸ばされているから。この大いなる愛に私たちは信頼し歩もうではありませんか。この神様が今日もあなたと共におられるから。

 

さて、↑は神の御子イエス様が私たちの罪を身代わりに背負われ十字架で罰せられ死なれ、3日目によみがえられた後、イエス様が昇天されて後、かつてイエス様が約束されていた新しい助け主なる聖霊様が降臨され、教会が誕生、聖霊様の働きがまさに始まりしばらくしての出来事です。これだけの愛が示されたのに、イエス様の命がけの、十字架による救いが示されたのに、神様に帰らない人たちによってイエス様を信じる人たちへの迫害が始まるのでした。それでも神様はその愛を止めて私たちを見捨て、世を終わりにされず、まだ神様を知らずにさまよう人たちのもとにその愛を聖霊様の働きによって届けていきます。

 

そんなある日、↑でなんと、ヘロデ・アグリッパ1世がその手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを殺害するのです。12弟子の一人で、使徒としてずっと働いてきた彼を。なぜ?彼はただイエス様が開かれた救いの道を語っていただけ。しかし悲しいかな、彼は殉教の時を迎えるのです。

 

これを正直理解するのはなかなか苦しい。ただ言えることは、悪は決して栄えることはありません。↑の出来事の後、ヘロデは神様の送られた虫にかまれ、死にます。非常にみじめな最期を王でありながら迎えるのです。一方それでもイエス様を信じ従いとおしたヤコブはこの地上では命を失っても、天の御国で永遠のいのちのうち、天の父なる神様のふところに招き入れられ、また安らいでいるのです。この世的にはヘロデは勝利したように見えて、完全に神様の恵みを失い、裁きと共に滅びることとなったのです。

 

そもそもこのヘロデは何者なのか。実は神様はこの一族に深くかかわりを持たれます。

 

 

初代のヘロデは血筋的には神様のことを知っていたはず、そしてイエス様の誕生の際、救い主と出会う機会があったのですが、彼は神様が救ってくださり恵まれる命よりも、地位が奪われることを恐れ、殺害を企て、2歳以下の子を殺害しました。またその子ヘロデ・アンティパスも、バプテスマのヨハネからイエス様の話を聞き、後にイエス様が十字架にかかる直前にイエス様と出会い悔い改める機会があったのですが、結局のところ自分を満たすものは何もない、と退けたのです。

 

神様は何度も彼らが神様に立ち返る機会を備えておられた。しかしことごとく彼らは王の王なるイエス様を求めず、その救いを求めず、滅びに向かう歩みをしていたのです。彼らはことごとくイエス様の殺害、またその弟子の殺害、と神様を拒否し、勝利を得たかのように見えましたが、その神様のせっかく示されていた本物の恵みを失っていたのです。

 

アグリッパ1世は↑を見ると「ユダヤ人に喜ばれた」とありますが、彼はユダヤ人に気に入られようと、律法や慣習を守っていました。そこで、彼らが、エルサレムの教会に反対していることを知って、それでその指導者に手を伸ばしたというわけです。しかしどんなに形だけ神様に従っているふりをしても、神様ご自身の御前に悔い改めることなしに本物の救いはありません。人に喜ばれること、それは善行ではなく、ご機嫌取り、それで得られる地位に、立場に何の価値があるでしょう。

 

しかし神様の御前に悔い改め立ち返る時に得られる恵みは、彼の気にしていた立場は全く変えられる、罪人から、神様の子へと引き上げられるのです。ヤコブは、確かにこの世的には迫害され、殺されましたが、この神様のくださった永遠のいのちを奪われることはなかった。むしろこの神様の恵みの中に招き入れられていったのです。感覚的には悲しいし、仲間の使徒たちも悲しんだことでしょう。しかし、死が死で終わるのではなく永遠のいのち、全ての悲しみが解き放たれ、罪から解き放たれ、神様の御もとで安らぐ永遠のいのちに今いるわけです。

 

だから死を悲しむな、と頭ごなしにいうことはできません。イエス様も悲しむものと共に悲しみ、喜ぶものと共に喜ぶよう教えられましたし、イエス様も友の死のために涙を流されたこともありました。しかしその悲しみを喜びに変えてくださるのです、イエス様は。イエス様の十字架と復活によって死をいのちに変えられるのです。新しい命へと引き上げられるのです。死は敗北ではなく、イエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返ったものにとっては勝利へと変えられる。ヘロデの永遠の滅びへの道ではなく、永遠の喜びに、命に招かれるのです。神様は、ここに私たちを招きたいのです。

 

本来私たちはこのヘロデのように神様から離れ好き勝手に生き、神様を神様とも思わず迫害する者だった故に滅ぼされてもおかしくなかった、その私たちを憐れまれた神様は、私たちのこの裁きを御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけ死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされる。空しいもの、罪に囚われたいのちから解放され、神様の子という特権に与らせていただけるのです。このイエス様の十字架の内にこそすべてがあるのです。これに勝るものは何ものも存在しません。

 

私たちはヤコブのように殉教の危機に瀕することはなかなかないかもしれません。しかし、様々な困難、苦難、悲しみの時、神様を求めるか、諦めるか、そのような選択をしなければならない時があります。そのような時、私たちは人や世が喜ぶことをするのではなく、選ぶのではなく、またペテロを牢に引き渡すように、神様を否定して世に引き渡すような歩みではなく、イエス様にある勝利を、恵みを求めよう。

 

イエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます」と仰られました。

 

あなたを愛することを恥とも思わず、あなたのために本物のいのちをイエス様は私たちの背負うべき十字架を身代わりに背負ってまで与えてくださった。滅びゆくいのちを十字架にあって交換してくださったのです。だから私たちはこのイエス様の十字架にあって与えられた命を歩みもう。たとえそれがこの世的には恥に見えても、イエス様はそこに勝利をもたらされる、そこに神様の御国が広がる、罪もサタンも最後は敗北が待つだけです。しかし私たちはイエス様のいのちにあって買い戻されたのです。このイエス様の命がけの愛が今日あなたに注がれ、あなたの内に働かれているのです。この後捕えられたペテロが諦めず祈っている時、その牢が御使いによって開かれたように、あなたをどんなにこの世が閉じ込めようと、このイエス様の愛から私たちを何ものも引き離すことはできません。だから私たちはこのイエス様にある勝利が、ここに成されること、恵みが広がることを祈ろう。そこに神様の逆転が起こるから。