―あなたの周りを覆う愛― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「私が生きものを見ていると、地の上のそれら四つの生きもののそばに、それぞれ一つずつの輪があった。それらの輪の形と作りは、緑柱石の輝きのようで、四つともよく似ていて、それらの形と作りは、ちょうど、一つの輪が他の輪の中にあるようであった。それらは四方に向かって行き、行くときには、それらは向きを変えなかった。その輪のわくは高くて、恐ろしく、その四つの輪のわくの回りには目がいっぱいついていた。生きものが行くときには、輪もそのそばを行き、生きものが地の上から上がるときには、輪も上がった。これらは霊が行かせる所に行き、霊が行かせる所には、輪もまたそれらとともに上がった。生きものの霊が輪の中にあったからである。生きものが行くときには、輪も行き、生きものが立ち止まるときには、輪も立ち止まり、生きものが地の上から上がるときには、輪も共に上がった。生きものの霊が輪の中にあったからである。生きものの頭の上には、澄んだ水晶のように輝く大空のようなものがあり、彼らの頭の上のほうへ広がっていた。その大空の下には、互いにまっすぐに伸ばし合った彼らの翼があり、それぞれ、ほかの二つの翼は、彼らのからだをおおっていた。彼らが進むとき、私は彼らの翼の音を聞いた。それは大水のとどろきのようであり、全能者の声のようであった。それは陣営の騒音のような大きな音で、彼らが立ち止まるときには、その翼を垂れた。彼らの頭の上方の大空から声があると、彼らは立ち止まり、翼を垂れた。彼らの頭の上、大空のはるか上のほうには、サファイヤのような何か王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった。私が見ると、その腰と見える所から上のほうは、その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見えた。その腰と見える所から下のほうに、私は火のようなものを見た。その方の回りには輝きがあった。その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。」

エゼキエル書1章14-28節

 

私たちの周りには様々なものが取り巻いている。いい人もいれば悪い人もいる。いい状況もあれば悪いと感じるような状況もある。でも、彼らはこの世の支配者ではないんだ、あなたを壊したり、傷つけて良い権利なんて持ち合わせていない。でも、神様は違う、神様はあなたの人生、いやあなた自身を覆って守られる。神様の御手が、神様の衣があなたを覆い慰めてくださり、その愛で覆ってくださるのです。そこに神様がいるから、全ては素晴らしくなる、私たちは生きる。神様は御子イエス様のいのちをもって私たちを買い戻された、この愛が今日私たちを覆っている。どこまでも神様を私たちは求めよう。神様の愛が、神様ご自身が全地を覆い、私たちが、また地が神様にあって回復していく事を祈り。

 

さて、↑は第一次バビロン捕囚から5年後、BC593年に預言者エゼキエルに「捕囚地で」語られた言葉、また幻になります。神の国と言われていたイスラエルは、ヨシヤ王の死後、イスラエルの堕落と共にバビロン捕囚が始まりました。民は神様からの何度も現されていた愛に目も向けず、迫っていたバビロンの手に渡されるのです。その時エゼキエルも、王や高官たちと一緒にバビロンに連れ去られていきます。神様は絶望の地にあってエゼキエルを置かれ、彼を通して神様はその愛を現そうとしていたのです。そして彼が30歳の時、神様は天を開き↑の幻を見せます。

 

神様はこのバビロンの地にあっても彼らをもう一度神様の素晴らしい恵みに引き寄せようとされる、その神様の自己紹介的にその姿を見せます。この彼らを本当の意味で救うため「獅子」「牛」「人」「鷲」のような顔、姿を見せながら、王の王であられるイエス様を人として生まれさせ、仕え、私たちのためには働かれる、私たちを取り戻すために、私たちを救うために血と汗を流し私たちを神様の栄光へと引き上げる、招くんだ、その姿を↑の前までで見せてくださりました。

 

そんな中でエゼキエルが「生きものを見ていると、地の上のそれら四つの生きもののそばに、それぞれ一つずつの輪があった。それらの輪の形と作りは、緑柱石の輝きのようで、四つともよく似ていて、それらの形と作りは、ちょうど、一つの輪が他の輪の中にあるようであった。それらは四方に向かって行き、行くときには、それらは向きを変えなかった。その輪のわくは高くて、恐ろしく、その四つの輪のわくの回りには目がいっぱいついていた。生きものが行くときには、輪もそのそばを行き、生きものが地の上から上がるときには、輪も上がった。これらは霊が行かせる所に行き、霊が行かせる所には、輪もまたそれらとともに上がった。生きものの霊が輪の中にあったからである」とさらにこの事を記録します。

 

また難解な幻ですね。この輪が何なのかよく分かりませんが、ユダヤの伝承によると、終わりの時についてイエス様が12弟子の一人だったヨハネに語られた、見せた幻の中で「また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った」というものがあるのですが、この御使いがこの輪のことを指していると解説します。訳によってはこの輪を「車輪」と訳しているのですが、御使い、となると話が見えてきます。

 

この黙示録の幻の中で捧げられている「聖徒たちの祈り」というのは、殉教者たちの祈りです。その祈りを無駄にすることなく主のみもとに届けている、その光景がこの黙示録の中で描かれていたのです。そうすると、この輪の幻が何となく見えてきます。同じ霊(御使い)として一緒に動きながら、暗闇の中でどうしたらいいのか分からない、私たちの心の叫び、魂が呼び求める神様への渇望、祈りを無駄にこぼすことなく、主のみもとに届けてくださる。いや、もっというなら神様はそうした祈りを聴き洩らすことなく聞いておられる、たとえどこにいようとも、バビロン捕囚地という彼らからしたら絶望の中であろうと、神様は私たちの悲痛の叫びを、祈りを聴いておられ、その祈りにこたえるように神様のその御心が全地に広がり、輝かせてくださるのです。輪の中に輪がある、とあるように、神様の霊が私たちのところに行き、また留まり、人のような方、主なる神様のうちに、栄光の内に、緑柱石どころではない輝きで私たちの暗闇に光を照らされるのです。神様の光が照らされ、そこに命が溢れ、神様の御業が現わされ変えられるのです。暗闇の中では見えない、しかし神様の光が照らされる時、もはや闇も痛みも、罪もサタンも、この世のどんな勢力もあなたを閉ざすことなどできないのです。神様は暗闇からご自身の輝く栄光へと導きだしたいのです。

 

「生きものが行くときには、輪もそのそばを行き、生きものが地の上から上がるときには、輪も上がった。これらは霊が行かせる所に行き、霊が行かせる所には、輪もまたそれらとともに上がった」という光景をエゼキエルは見ますが、神様の霊がいつも私たちと一緒に進まれる、導かれる。神様のそのご意思が、愛が彼らの周りを、私たちの周りを囲ってくださっているのです。あなたを救い出そうと神様のご意思が働かれているのです。暗闇の中に今いるエゼキエルを、この世の支配の中で悩む私たちを。

 

神様は天を開きこれを見せてくださっている。私たちの周りには多くの問題があるでしょう。仕事でも家族であっても。色んな事が私たちの周りを囲っていますから、そうそう思うようには進めない。しかし、私たちはこの開かれた天をその時見上げよう。きれいごとじゃない、と言われるかもしれない、しかし神様の見せるこの幻、輝かしいこの言葉に表せない、表現しがたいこの栄光があなたを覆い、神様のその栄光・素晴らしさへと引き上げてくださるのです。言い尽くし難い、この神様の圧倒的な恵みの内へ、地では測れない神様の大いなるご計画に、愛に。その時この世のものは何するものぞ。あきらめて、開かれた天から顔を背けてはいけない。むしろ私たちはこの神様の圧倒的な愛、こんなところにまで来られたイエス様の伸ばされた手を取ろう。主の霊があなたのところにまで来られた、そしてあなたと共におられるのだから。

 

さらに神様はエゼキエルに幻を見せ、彼は「生きものの頭の上には、澄んだ水晶のように輝く大空のようなものがあり、彼らの頭の上のほうへ広がっていた。その大空の下には、互いにまっすぐに伸ばし合った彼らの翼があり、それぞれ、ほかの二つの翼は、彼らのからだをおおっていた。彼らが進むとき、私は彼らの翼の音を聞いた。それは大水のとどろきのようであり、全能者の声のようであった。それは陣営の騒音のような大きな音で、彼らが立ち止まるときには、その翼を垂れた。彼らの頭の上方の大空から声があると、彼らは立ち止まり、翼を垂れた。彼らの頭の上、大空のはるか上のほうには、サファイヤのような何か王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった。私が見ると、その腰と見える所から上のほうは、その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見えた。その腰と見える所から下のほうに、私は火のようなものを見た」と書き記します。

 

これによりますと、生き物(ケルビム)の上に主なる神様の御座があります。そこは水晶のように輝く大空のようなもので、またサファイヤのように見える王座があり、ここに人のような方が座しておられるというわけです。全能なる神様がこの天地を治めてくださっている。この輝かしい光景へと、この暗闇の世界、罪に支配されているところを変えてくださる方がいるのです。

 

エゼキエルを含め、多くの人がこれまで神様の栄光を見させていただきました。そして天が開けたところに神様のこの素晴らしい光景を仰ぎ見させていただいたのです。この天が開く時、私たちはまさにこの神様の素晴らしい御業を目撃させていただけるのです。

 

そう、まさにイエス様が人となってお生まれになった時、天からの栄光が輝きました。ここに神様の愛が現わされるために天の窓が開かれ、イエス様が来られ、そして神様の完全なる愛が、この暗闇の中を歩む私たちの内に現されたのです。ここに留まられ、生きたイエス様が私たちのいのちを癒すため、私たちの罪を取り除き回復させるため、来られたのです。そしてイエス様は私たちの重荷も痛みも病も、何より罪も一切を身代わりに背負われ、十字架に架けられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、この閉ざされた、死にゆくいのちを、天の窓を開くがごとく、開かれ、私たちは変えられるのです。このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人罪は赦され、神様の子とされる、この主の霊が、いのちが我がうちに留まり、私たちは新しいものとされるのです。

 

このイエス様の命がけの愛が今日、あなたの歩む道どこにおいても共におられ、あなたの周りを覆われているのです。あなたのゆくところどこにおいても、↑の輪の幻のように。私たちはこの開かれた天を見上げ、ここに現わされた完全なる神様の愛の内に今日留まろう。雨の日の雲の間にある虹のように、私たちに今日希望をもたらせてくださる、晴れの日、新しい日を迎えさせてくださるから。その日を迎えさせてくださるイエス様から目を離さずこの新しい命の日々を歩ませていただこうではありませんか。ここに望みあり、栄光の富が、偉大な力が働かれているのだから。