―気のせいではない確かな愛― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった。その中に何か四つの生きもののようなものが現われ、その姿はこうであった。彼らは何か人間のような姿をしていた。彼らはおのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。その足はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏のようであり、みがかれた青銅のように輝いていた。その翼の下から人間の手が四方に出ていた。そして、その四つのものの顔と翼は次のようであった。彼らの翼は互いに連なり、彼らが進むときには向きを変えず、おのおの正面に向かってまっすぐ進んだ。彼らの顔かたちは、人間の顔であり、四つとも、右側に獅子の顔があり、四つとも、左側に牛の顔があり、四つとも、うしろに鷲の顔があった。これが彼らの顔であった。彼らの翼は上方に広げられ、それぞれ、二つは互いに連なり、他の二つはおのおののからだをおおっていた。彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった。それらの生きもののようなものは、燃える炭のように見え、たいまつのように見え、それが生きものの間を行き来していた。火が輝き、その火から、いなずまが出ていた。それらの生きものは、いなずまのひらめきのように走って行き来していた。」

エゼキエル書1章4-14節

 

人の愛って色々ありますね。恋人、夫婦の愛、そこから親子、家族愛、友情的な愛…そうして互いに支え合っている。愛する心が与えられているって素晴らしいですよね。が、人の愛はやはり限界がある、口でどれだけ言っても状況が変われば愛愛いってもそれをひっくり返す人もいる。まあクリスチャンでも、愛を教える人がその態度を翻すことだってある。そう、だれしも不完全な愛しか持ち合わせていない、だから私たちには神様の愛が必要なんです。神様は人のように相手によって態度を変えることなく、その愛を曲げない。神様の願いは私たちが死ぬのではなく永遠のいのちを持つこと、そのためなら御子イエス様のいのちさえ身代わりにされるほどに愛を惜しまなかった。このイエス様がいるから、このイエス様が私たちは生きるのです。あなたは今日どれだけイエス様を求めていますか?

 

さて、↑は第一次バビロン捕囚から5年後、BC593年に預言者エゼキエルに「捕囚地で」語られた言葉になります。ヨシヤ王の死後、イスラエルは霊的にもあらゆる面で堕落していき、ついにバビロン捕囚が始まりました。神の国と言われていたイスラエルが。しかし彼らは神様からの何度も現されていた愛に目も向けず、迫っていたバビロンの手に渡されるのです。この時エゼキエルも、王や高官たちと一緒にバビロンに連れ去られていきます。預言者なのに?しかし神様はそのような絶望の地にあってエゼキエルを置かれた。エゼキエルを通して神様はその愛を現そうとしていたのです。エゼキエルは25歳でバビロンに連れてこられ、世的にはつらい5年間を過ごした後、30歳の時、神様は天を開き、↑の幻を見せます。

 

エゼキエルはこの時神様が見せてくださった幻を「私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった…」とはっきり記録します。神様ははっきりと語られ、はっきりとそのご自身のわざを現されます。いるかいないか、ではなく神様は確かにそこにおられ、ご自身の愛を、ご計画を現されます。見よ、とエゼキエルが言うように、その目を注目するように言うように、神様は見せてくださるのです。この世のものではない、神様が、天の窓を開き、この地に、あなたのいるところに、あなたの内に神様はご自身を現され、何かをされる、変えてくださるのです。見ているだけではなく、神様は動かれる神様なのです。その聖なる力を、愛を現されるのです。

 

ではここで何を神様は見せたのか、具体的に見ますと、青銅は裁きを現すのですが、北から神様の裁きの時が来ることが告げられます。バビロン捕囚ですね。今エゼキエルが捕囚された、第1次捕囚も、この先に起こる第2次捕囚もこれは確かに神様からの裁きであることが宣告されます。え?神様が裁きなんて行うの?と思う方もいるかもしれせん。しかしあるんです。これは厳粛に受け止めなければなりません。

 

神様は罪を罪のまま、ありのままでいいよ、と仰られる方ではないのです。むしろその神様の聖さゆえに、罪に包まれ、支配され、神様の恵みを失うことを神様は良しとされないのです。神様は愛であり、義である故に罪をそのままにできない。それはそうですよね、罪を放置したらどうなるか、世の中を考えればわかると思います。しかし愛であり義である神様は義であり愛であるゆえに、あなたが罪に支配され、滅びゆくことを神様は良しとできない。

 

覚えているでしょうか、エレミヤを通して神様は生きる道と死の道を示されたことを。この裁きの時を、世やサタンの手に完全に引き渡さなかったこと、この幻から見るように神様から出ていたことによって、完全に滅びるのではなく、この神様のもとに、生きる道を選んで、彼らが神様の恵みを取り戻す、回復させようという神様の意思が表されていたのです。神様はあなたの苦しみを、神様を知らずに歩む、本当の恵みを知らず歩む私たちを黙ってみている方ではない、神様はそのまま神様から離れて死にゆく彼らに裁きを通して、彼らに救いの道、立ち返る道を示されたのです。

 

実際に、バビロンの非常な手に最初から明け渡していたら、どうなっていたか。しかし神様が示された生きる道を選んだ人たちはこうして生きているのです。神様はそうして神様本物の恵みの内に、愛の内に彼らを招かれていたのです。

 

神様を妄想だの、そんないるんだかいないんだか分からないものを気にする必要はない、自分たちは自分たちの好きなように生きるよ、と考える人たちもいるでしょう。しかし確かにおられる神様の、確かな愛によって私たちは生かされている、私たちが当たり前のことと考えている事すべては神様の恵みによって与えられている、その神様によって私たちはい支えられ生きているのに、神様から離れてどうやって生きるのでしょう。しかし、神様はエゼキエルの見せている幻のように、あなたの内に現したいのです、神様のお心を。願わくば裁きではなくあなたに恵みをどこまでも注ぎたい、そこに今彼らを、私たちを招いておられるのです。神様はその聖なる輝きをもって閉ざされたあなたの内に天を開き、照らしたいのです。生きてほしいとそのご意思を示されたのです。この世の中には様々な事があり、神様、何で、と思いたくなる人もいるでしょう。しかしそれを神様は変えることができる。暗闇の中にいるイスラエルの民、エゼキエルに今神様のご意思を示されたように。その今あなたは誰を見るでしょうか。

 

その神様について、エゼキエルにさらに神様はこの幻を通して告げられます、見せます。エゼキエルはさらにこの時のことについて「その中に何か四つの生きもののようなものが現われ、その姿はこうであった。彼らは何か人間のような姿をしていた。彼らはおのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。その足はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏のようであり、みがかれた青銅のように輝いていた。その翼の下から人間の手が四方に出ていた。そして、その四つのものの顔と翼は次のようであった。彼らの翼は互いに連なり、彼らが進むときには向きを変えず、おのおの正面に向かってまっすぐ進んだ。彼らの顔かたちは、人間の顔であり、四つとも、右側に獅子の顔があり、四つとも、左側に牛の顔があり、四つとも、うしろに鷲の顔があった。これが彼らの顔であった。彼らの翼は上方に広げられ、それぞれ、二つは互いに連なり、他の二つはおのおののからだをおおっていた。彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった。それらの生きもののようなものは、燃える炭のように見え、たいまつのように見え、それが生きものの間を行き来していた。火が輝き、その火から、いなずまが出ていた。それらの生きものは、いなずまのひらめきのように走って行き来していた」と記します。

 

4つの生き物のようなもの、とあるので神様は4人いるの?ともしかしたら考えられる方がいるかもしれませんが、そういうわけではないのです(詳しい話は明日)。まず4つの翼、というところから見るのは四方に神様の偏りのない愛が広げられている、神様はその翼を広げ、ご自身の愛を確かにその愛を現される、そのご意思は確かに広げられている、私の方を神様は向いてくださっていない、見てくれていない、私のことなど神様は気にもされないのだろう、と私たちが時に考える時、確かに神様は私たちに向いてくださっているのです。その聖所、神様の住まいから神様の愛をあなたに向けて確かに溢れ流れさせてくださっているのです。あなたを満たし、先ほどの裁きの話で見ました通り、あなたをもう一度神様の恵みで満たし、回復させたいのです。エゼキエルはなんとかこの神様の現された姿を表現しようと試みますが、難しい。しかし人の言葉では表せないほどの神様の圧倒的な愛がここに現わされているのです。

 

今神様は天を開き、彼らの暗闇に光を照らし、死をいのちに変えたいというご意思、私たちがこの神様の裁きの奥にある憐れみ深いその愛の前にひれ伏し立ち返り、いのちを得る、神様の恵みによって回復される事、いのちを得ることを望まれる。そのために神様は、言葉に表せないほどの大きな愛を実行に移されました。↑の幻の中で人のような姿をしていたとありますが、神様はまさに、私たち人に仕えるものとなられるため、罪を犯さない点を除いては完全な人となって御子イエス様を生まれさせてくださりました。天を開き、あなたの内に完全な愛を現そうと。そしてご自身その足で各地を回り、苦しむ人たちの扉を開くため、罪の中にいる人、また神様を知りながら神様から離れている人たち、見捨てられてしまったような人たち、病気、死に直面した人たち、その人たちのところに足を運び、その愛を届け、癒された。導かれたのです。見捨てなかったのです。

 

しかしそれでもイエス様を自分たちの望む救い主像とは違う、自分の考えることをしない神など神ではないと人々はイエス様を裏切っていきます。それでもイエス様は彼らを見捨てず、むしろ私たちのこの負うべき裁きを身代わりに背負われ、十字架に架けられ、身代わりに罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。言葉には言い尽くせない神様の圧倒的な恵みがあなたを覆う、新しい命が与えられるのです。

 

私たちは今日、この神様の究極の愛に帰ろう。どれだけこの世が、あなたの周りがあなたを打ち砕こうとしても、それをこの神様のイエス様のいのちにかけて現された究極の愛によって変えてくださる。もう世の思い煩いや痛み、勢力、罪、サタンの手にあなたを支配させてはいけない。今この神様が覆う、言葉に尽くせない大いなる愛があなたを覆っているんですよ?今日私たちは神様の圧倒的な愛が私たちを覆い、イエス様の愛が届かないところがなかったように、あなたがどこにいようともイエス様があなたと共にいて変えてくださる、このイエス様に全てを委ねようではありませんか。ここにイエス様の言い尽くせないほどの大きな愛が溢れることを祈り。