―あっちへ行け、ではなくこっちにおいでと招かれた― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主は憤りを尽くして燃える怒りを注ぎ出し、シオンに火をつけられたので、火はその礎までも焼き尽くした。地の王たちも、世に住むすべての者も、仇や敵がエルサレムの門に、入って来ようとは信じなかった。これはその預言者たちの罪、祭司たちの咎のためである。彼らがその町のただ中で、正しい人の血を流したからだ。彼らは血に汚れ、盲人のようにちまたをさまよい、だれも彼らの着物に触れようとしなかった。『あっちへ行け。汚れた者』と人々は彼らに叫ぶ。『あっちへ行け。あっちへ行け。さわるな。』彼らは、立ち去って、なおもさまよい歩く。諸国の民の中で人々は言う。『彼らはもう立ち寄ってはならない。』主ご自身も彼らを散らし、もう彼らに目を留めなかった。祭司たちも尊ばれず、長老たちも敬われなかった。それに、私たちの目は、衰え果てた。助けを求めたが、むなしかった。私たちは見張り所で、見張った。救いをもたらさない国の来るのを。私たちの歩みはつけねらわれて、私たちは広場を歩くことができなかった。私たちの終わりは近づいた。私たちの日は満ちた。私たちの終わりが来たからだ。私たちを追う者は、大空の鷲よりも速く、山々の上まで追い迫り、荒野で私たちを待ち伏せた。私たちの鼻の息である者、主に油そそがれた者までも、彼らの落とし穴で捕らえられた。『この者のおかげで、諸国の民の中でも私たちは生きのびる』と私たちが言った者なのに。ウツの地に住むエドムの娘よ。楽しみ喜べ。だが、あなたにも杯は巡って来る。あなたも酔って裸になる。シオンの娘。あなたの刑罰は果たされた。主はもう、あなたを捕らえ移さない。エドムの娘。主はあなたの咎を罰する。主はあなたの不義をあばく。」

哀歌4章11-22節

 

子ども同士のけんかで、「あっちにいけ、おまえなんか嫌いだ」と言う言葉がたまに聞こえてきます。これを言われるとなかなかショックですが、大人もやるんですよね。言葉には出さないけど、今忙しいから、とか、自分の考えと合わなければ、相手を否定する、大切に思っているからこういうんだ、と言いながら自分の意見を押し付け、聞かなければもう知らない、と捨てる。その前にその人の心、聞いているのかな?大切に思っているというなら、本当にその人に寄り添っている?神様はしかし、私たちに寄り添ってくださる。私たちが神様から離れ好き勝手に歩んで、傷つき倒れた時、私たちを見捨てて、あっちに行け、というのではなく、それでもご自身のもとに招かれるのです。あなたを取り戻すためなら、御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった。そこまでしてあなたに教祖の惜しみない愛を注がれている。私たちはこの神様の招きにこたえ、帰ろう。あなたに生きてほしい、とここまでされる神様が全ての恵みを待っておられるから。

 

さて、↑は古代イスラエル王国がバビロン捕囚によって完全に滅ぼされ、民が連れ去られていった時、神様に最後まで帰らなかったそんなイスラエルの民をエレミヤが見、そうして嘆きの歌・哀歌を歌ったものです。彼はかの神様の栄光が輝いていたエルサレム神殿が見る影もなくなってしまった、民もバビロンに捕囚されて行った、その姿に悲しみを覚え歌うのです。でもそれは絶望で終わららない、この絶望を希望に変えてくださる神様に心を今向けて歌うのです。悩みに囚われている民、エレミヤ自身をもう一度神様に委ねようと今心を絞り出して歌うのです。神様は、座り込む我が子、大切なあなたを今日も抱きしめ守られる、神様が私たちの望みとなられる、その神様にエレミヤは心を、望みを向けるのでした。その時神様の言葉に表せない大きな恵み、力強い御手が働き私たちは癒される、ただそれを待ち望み、私たちの内を神様に委ねよう、と。倒れてしまった彼ら、私たちをもう一度神様が建て直し、そのうちに神様の光を輝かせてくださる、その日を待ち望もう、と。

 

なおエレミヤは続けて「主は憤りを尽くして燃える怒りを注ぎ出し、シオンに火をつけられたので、火はその礎までも焼き尽くした。地の王たちも、世に住むすべての者も、仇や敵がエルサレムの門に、入って来ようとは信じなかった」と歌います。↑の前のところでエレミヤはバビロン捕囚時のことを思い返していましたが、イスラエルの民はまさかエルサレムの門が破られ、敵が攻めてくるとは思ってもいませんでした。

 

これ、実はとても重要なことなんです。門、これはただの出入り口ではない、そこは城壁であり、敵の進行を守る場所なんです。そこに門番がいて、裁判官のような人がいて、守ってくれるんです。でもそんな門番がいるから、私たちは守られるんです。かつて出エジプトを果たす際、神様は寝ずの番をされて守られた、彼らが起きている間も、寝ている間も守ってくださっていたのです。閉ざされていた約400年の奴隷生活の扉を開き、新しい道へと導かれたのです。

 

このバビロン捕囚期、一人の詩人が「ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい。主はエルサレムを建てイスラエルの追い散らされた者を集める。主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。主は星の数を数え、そのすべてに名をつける。われらの主は偉大であり、力に富み、その英知は測りがたい。…エルサレムよ。主をほめ歌え。シオンよ。あなたの神をほめたたえよ。主は、あなたの門のかんぬきを強め、あなたの中にいる子らを祝福しておられるからだ。主は、あなたの地境に平和を置き、最良の小麦であなたを満たされる。…」と歌いました。神様は、私たちの門番となってこの門の閂を強めてくださり、祝福してくださる。神様ご自身がすべてをもって養われ、強め、あなたを守り、その富んだ力、英知によってあなたを支え、また傷を癒される。彼らを打とうと苦しめる者から神様は本来守ってくださる、あなたを侵略から、奪い去ろうとするものから守ってくださるのです。

 

神様が私たちのあるじでありながら、私たちのいのちの門を守ってくださっている。私たちがむしろ陰府の門、敵に連れ去られ、神様のくださったこの恵みを失わないように守ってくだっている。それなのにイスラエルの民は、その門番たる神様を退け、あなたは私に良いものを与えないと言って他の神々を取り入れ、その支配を受け、気が付いたらその門から彼らを奪い取っていってしまったのです。神様のくださっているはずの最高のいのちをバビロンに奪われて行ってしまったのです。

 

イエス様は「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」と仰りました。そんな小さな門に入って何になる、神様を信じて何になる?ではない、人の目にどんなに小さく見えようと、そこに立ちあなたを導く方、守られる方は誰よりも大きい。この神様が開かれる道にこそ命が広がっているのです。人の目には何もないように見えた先に、神様は驚くべき恵みを用意されているのです。

 

神様が強固にその閂を強め守られる、この神様のくださっている命をないがしろにしてはいけない。別にいいじゃん、このくらいと言ってあなたを汚すものをむやみに招き入れてはいけない。排他的になれ、と言いたいのではありません。ぜひ困っている人がいたら、このイエス様の門に一緒に来て中に入ってください。でも、あなたの内を奪い取る、汚していく罪、サタンに対してははっきりとNoと言う必要があるのではないでしょうか。だってこの命は神様が造られ、与えてくださっているものなんですよ?こんな素敵なものを奪わせてどうします、これを取って代わられ支配されて、壊されてどうしますか。

 

イエス様が十字架の判決を受けたローマ総督官邸の傍にステパノの門というのがあります。そこれは鉄製で頑丈にできていて、日没になると閉めるのですが、その後に人がやって来ても絶対に開けないそうです。それほどに外敵が来るのを守る意識があるのです。私たちは守るべきものをしっかり守らなければなりません。

 

そのような中、エレミヤは「これはその預言者たちの罪、祭司たちの咎のためである。彼らがその町のただ中で、正しい人の血を流したからだ。彼らは血に汚れ、盲人のようにちまたをさまよい、だれも彼らの着物に触れようとしなかった。『あっちへ行け。汚れた者』と人々は彼らに叫ぶ。『あっちへ行け。あっちへ行け。さわるな。』彼らは、立ち去って、なおもさまよい歩く。…主ご自身も彼らを散らし、もう彼らに目を留めなかった。祭司たちも尊ばれず、長老たちも敬われなかった」と続け告白します。

 

このバビロン捕囚に進んでいった原因の中に、偽預言者や祭司の罪があった事をエレミヤはここで取り上げます。偽預言者たちは自分の人気になるようなことだけを語る、まあ最近のネットやらなにやらでもみられる傾向ですが、そうしないと自分が置いて行かれる、と考えるのか、自分が認められたいから、と民が喜ぶことだけを言うのです。神様が告げる真実、生きる道ではなく。しかしそれが真実ならともかく、神様が語られている事とは違うことを語っていた。それが結局のところ神様から民を引き離していくのです。神様が導こうとしている救い、いのちの道ではなく。そして神様の御ことばを語るエレミヤを退け、それは間違っている、汚れている、それこそ「あっちにいけ」と退けるのです。自分に都合の悪いことを語る預言者を、いや神様ご自身を。そうしたら一体だれがあなたを守るのでしょう。

 

「主ご自身も彼らを散らし、もう彼らに目を留めなかった」と言いますが、神様に目を留めてもらえなくなったら、いったい私たちはどうなるのでしょう。私たちは誰に助けを求めたらいいのでしょう。

 

しかし神様はあなたを打ち破り滅ぼすものから守られる、強固とされるのです。あっちに行け、と自分の都合に合わなければ神様を追い出そうとする、自分がその神様の座を奪おうとする、そんな私たちを神様はもうやっていられるか、とあなたを守ることを捨てることをされなかった。むしろご自身の内にもう一度招かれたのです、「あっちに行け」ではなく「こっちにおいで」と。あなたが滅びることがないように。神様は私たちのそしりも痛みも、何よりも罪も一切御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架に架けられ、死なせたのです。そうして私たちを招かれたのです。あなたが滅びることがないように、そっちじゃない、こっちにいのちがあるんだ、と死の道から命へと招かれたのです。滅びから命へ。イエス様は死んで終わりではなく3日目によみがえらせていただいたことによって、この死、閉ざされた門を開かれ、いのちの道へ、永遠のいのちへ、神様との和解の道を開かれた、ここに命がけの愛をもって私たちを招かれたのです。滅びに至る道から私たちに命をかけて訴えたのです。

 

1世紀の伝道者パウロは「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」と言いました。罪もないイエス様を十字架に架けるなんておろか、と言われようとも神様はそれでもあなたを救われることを選ばれた。そうして与えられた命の内に神様の驚くべき御力が働かれるのです。私たちはこのイエス様の愛に、その愛から語られたみことば、なされる一つ一つの恵みにあって今日生かされているのです。私たちはもう愚かな言葉に私たちを支配させてはいけない。このイエス様の十字架にあって現わされる神様の偉大な愛、御力、そうして広げられた新しい命の内を歩もうではありませんか。たとえそれが狭く見えても、神様が広げてくださる、豊かな命へと私たちを変えてくださるから。