「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。『私たちはそむいて逆らいました。あなたは私たちを赦してくださいませんでした。あなたは、御怒りを身にまとい、私たちを追い、容赦なく殺されました。あなたは雲を身にまとい、私たちの祈りをさえぎり、私たちを国々の民の間で、あくたとし、いとわれる者とされました。』私たちの敵はみな、私たちに向かって口を大きく開き、恐れと穴、荒廃と破滅が私たちのものになった。私の民の娘の破滅のために、私の目から涙が川のように流れ、私の目は絶えず涙を流して、やむことなく、主が天から見おろして、顧みてくださる時まで続く。私の目は私の町のすべての娘を見て、この心を苦しめる。わけもないのに、私の敵となった者たちは、鳥をねらうように、私をつけねらった。彼らは私を穴に入れて殺そうとし、私の上に石を投げつけた。水は私の頭の上にあふれ、私は『もう絶望だ』と言った。『主よ。私は深い穴から御名を呼びました。あなたは私の声を聞かれました。救いを求める私の叫びに耳を閉じないでください。私があなたに呼ばわるとき、あなたは近づいて、【恐れるな】と仰せられました。主よ。あなたは、私のたましいの訴えを弁護して、私のいのちを贖ってくださいました。主よ。あなたは、私がしいたげられるのをご覧になりました。どうか、私の訴えを正しくさばいてください。あなたは、私に対する彼らの復讐と、たくらみとをことごとくご覧になりました。主よ。あなたは、私に対する彼らのそしりとすべてのたくらみとを聞かれました。私の敵のくちびると彼らのつぶやきが、一日中、私に向けられています。彼らの起き伏しに目を留めてください。私は彼らのからかいの歌となっています。主よ。彼らの手のわざに応じて、彼らに報復し、横着な心を彼らに与え、彼らに、あなたののろいを下してください。主よ。御怒りをもって彼らを追い、天の下から彼らを根絶やしにしてください。』」
哀歌3章40-66節
私たちは生きていると色んな事があります。明るい中を進む時もあれば、暗い中を進むこともある。人は自分は大丈夫、神などいらない、というけど、気が付いたらそんな状態になってしまう。私たちは自分が思う以上に何でも知っているわけではない。いや、神様ご自身をよく知らずに神様を疑い、下手をすれば裁いてしまう。でも神様はそんなあなたが失われていく事を哀しまれる。何よりあなたのことをよくご存じの神様はあなたの深みにまで降ってこられ、ご自身を現し変えてくださる、癒して下さるのです、あるべきあなたの姿、神様の造られた本来あるべき姿に。そのためなら御子イエス様のいのちを惜しまず与えるほど。そうしてまであなたを取り戻した。私たちは今日どれだけ神様に期待していますか?
さて、↑は古代イスラエル王国がバビロン捕囚によって完全に滅ぼされ、民が連れ去られていった、神様に最後まで帰らなかったそんなイスラエルの民をエレミヤが見、そうして嘆きの歌・哀歌を歌いました。彼はかの神様の栄光が輝いていたエルサレム神殿が見る影もなくなった、民もバビロンに捕囚されて行った、その姿に悲しみを覚え歌うのです。絶望ではない、この絶望を希望に変えてくださる神様に心を今向けて歌うのです。悩みに囚われている民、彼自身をもう一度神様に委ねようと今心を絞り出して歌うのです。神様は、座り込む我が子、大切なあなたを今日も抱きしめ守られる、神様が私たちの望みとなられる、その神様にエレミヤは心を、望みを向けるのでした。今こそこの神様を待ち望む、と。その時神様の言葉に表せない大きな恵み、力強い御手が働き私たちは癒される、ただそれを待ち望み。
なおエレミヤは続けて「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。『私たちはそむいて逆らいました。あなたは私たちを赦してくださいませんでした。あなたは、御怒りを身にまとい、私たちを追い、容赦なく殺されました。あなたは雲を身にまとい、私たちの祈りをさえぎり、私たちを国々の民の間で、あくたとし、いとわれる者とされました。』」と歌います。
今彼らはバビロン捕囚という道を進んでいます。バビロンに連れ去られるという道です。今エレミヤは何を、尋ね調べるように言っているのでしょうか。苦難の道に今さら、と人は思うかもしれません。ただ、だからこそ私たちのことをだれよりも知っている、私たち以上に知り、誰よりも愛してくださっている神様を求めるべきなのではないでしょうか。
だからこそエレミヤは、「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう」と訴えます。この「尋ね調べる」ということばは、なかなか深い意味のある言葉で、「尋ねる」、これは「探る、捜し調べる、尋ねる」という意味が一般的です。ただここでは「自己吟味する、自分に問いかける」という意味合いを持ちます。
誰しもが自分の内に問題がないか自己吟味することを好まないかもしれません。ただ、自分が間違っている道を進んでいたとしたら、そのまま進んでどうしましょう。でも、よく探してみてください。本当にあなたの道にあなたが進む以外の道、恵みはなかったのでしょうか。神様はエレミヤを通して、このままではバビロン捕囚の道に進むから立ち返ってほしい、神様の愛はここにあるんだ、と何度もその御手を伸ばしながら語られてきました。それは彼ら、あなたに生きてほしい、と神様は願われているからです。
古代イスラエル王国2代目の王ダビデは、神様に従う人であったのと同時に、時に敵や裏切りに悩み、また自身の内にある欲によって罪を犯すことさえありました。そうして神様との関係がものすごく傷つけられたこともありました。それゆえに彼は「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」と歌いました。神様と傷ついた関係ではない、神様の恵みが、愛が覆う命の道を何より彼は願ったのです。王として得ようと何でも得られる、でもそんな儚いあくたの道ではなく、彼の心の不安も含め、全てを神様が癒し変えてくださるいのちの道を彼は願ったのです。
神様に「尋ね調べてもらう」ことは自分の道をよく見て、神様が結ぼうとされたいのちの関係から離れていないか、傷つけているものが無いか知って、癒してもらう事ができるのです。神様は私たちがそうしたものから方向転換、悔い改め立ち返ることを何より待っておられるのです。そうして天の神様はあなたを神様の道へと導かれる、変えてくださる。私たちの心も手も、すべて神様に委ねる時、あなたの内に神様の霊が満ち溢れ、いっぱいにしてくださるのです。
エレミヤはなお「私たちの敵はみな、私たちに向かって口を大きく開き、恐れと穴、荒廃と破滅が私たちのものになった。私の民の娘の破滅のために、私の目から涙が川のように流れ、私の目は絶えず涙を流して、やむことなく、主が天から見おろして、顧みてくださる時まで続く。私の目は私の町のすべての娘を見て、この心を苦しめる」と続けて歌います。
彼は今深い穴の中にいることに気づき神様に祈り求めるのです。もう一度神様の憐れみが自身に、またこのイスラエルの民に覆うことを願うのです。涙を流して、神様が天から見下ろして顧みてくださる時まで。たとえ世的に苦痛であろうと、神様が共におられることを信じ待ち望むのです。その彼の痛みを、私たちの痛みを神様は涙をもって応えられます。神様は彼ら自身が神様を求めるのを待っておられる、神様は彼ら、私たちを顧み、滅びの穴からあなたを救い出したいのです。
パウロという1世紀に伝道、イエス様の愛を伝えていた人は、神様の愛を受けながら、すぐに離れていく人たちを見て「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう」と語りました。まさに、神様は私たちが悔い改め、生きてほしい、とその涙を流しながら、熱心に訴えられるのです。神様の熱心があなたの内に注がれ、あなたの涙を変えてくださるのです。
そんなことを言ったって、神様神様と言っている場合じゃないこともある、と言われるかもしれない。しかし神様はそのような私たちの思い煩いも知って、黙っている方ではないのです。エレミヤは「わけもないのに、私の敵となった者たちは、鳥をねらうように、私をつけねらった。彼らは私を穴に入れて殺そうとし、私の上に石を投げつけた。水は私の頭の上にあふれ、私は『もう絶望だ』と言った。『主よ。私は深い穴から御名を呼びました。あなたは私の声を聞かれました。救いを求める私の叫びに耳を閉じないでください。私があなたに呼ばわるとき、あなたは近づいて、【恐れるな】と仰せられました。主よ。あなたは、私のたましいの訴えを弁護して、私のいのちを贖ってくださいました」と↑で歌いました。
理不尽に彼を襲い掛かるような様々なことがあっても、神様がその時彼を見捨てていたのではない、神様は彼の痛みも声も聴いておられたのです。神様はその耳を、その御手を閉ざすことなく答えてくださった、神様は黙っておらず彼ら、そのようなどん底の中にいる私たちをそれでも救い出し、神様のいのちの道へと招かれるのです。
その究極として神様は御子イエス様を私たちに遣わして下さりました。どこか遠くで見ておられるのでもなくあなたの深みにまで降ってこられたのです。イエス様が来られた時代はバビロン時代以上に厳しいローマ帝国の支配下。さらに神様を信じていると言いながら、イエス様を自分の考える救い主像とは違うと言って迫害し、殺そうとするようなとんでもない中。一体神様はどこにおられるのか、と絶望下にいる彼らの中に、私たちの中に来られ、住まわれ、その愛を惜しむことなく注がれたのです。
イエス様は私たちの間に住まわれながら、その愛を存分に現されました。しかしそれでも神様に救いを求めながらもイエス様を疑う彼らを見捨てることなく、むしろこのまま滅びゆくことを黙っておられない神様は、このイエス様に私たちのこれらの痛みも、思い煩いも、何より罪も一切を背負わせ、十字架に架けられ、身代わりに罰し、死なせたのです。そして陰府に降られ、本来私たちが受けるべき全て罰をその身に引き受けられた。でもそこで終わらず3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦され、神様の子として迎え入れてくださるのです。私たちを見捨てるのではなく、顧みてくださった、私たちの涙を知り、ご自身が叫び涙を流しながら、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちでは何をしているのか分からないのです」とあなたの救いを訴えられたのです。
これだけの愛を注がれる方が他にどこにいるでしょう。あなたを罪の定めから命をかけてイエス様が弁護されて取り戻されたこの命、私たちはもうこの神様との関係を傷つけてはいけない。イエス様が癒された、本物のいのちの道を歩ませていただこうではありませんか。あなたのためにいのちをかけられたイエス様が「恐れるな」と仰る。それは復活のイエス様があなたと共に世の終わりまでおられ、顧みられた命、そこに今日もイエス様のお心と共に恵みが注がれ、溢れるから。死の底からイエス様のいのちをもって私たちを呼び出されたこの日々、私たちはどこまでも神様を求めようではありませんか。