―実は最高のものをあなたは持っているんです― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「アモン人について。主はこう仰せられる。『イスラエルには子がないのか。世継ぎがないのか。なぜ、彼らの王がガドを所有し、その民が町々に住んだのか。それゆえ、見よ、その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、アモン人のラバに戦いの雄たけびを聞かせる。そこは荒れ果てた廃墟となり、その娘たちは火で焼かれる。イスラエルがその跡を継ぐ』と主は仰せられる。『ヘシュボンよ。泣きわめけ。アイが荒らされたから。ラバの娘たちよ。叫べ。荒布をまとえ。嘆いて囲い場の中を走り回れ。彼らの王が、その祭司や首長たちとともに、捕囚として連れて行かれるからだ。裏切り娘よ。あなたの谷には水が流れているからといって、なぜ、その多くの谷を誇るのか。あなたは自分の財宝に拠り頼んで、言う。【だれが、私のところに来よう。】見よ。わたしは四方からあなたに恐怖をもたらす。―万軍の神、主の御告げ―あなたがたはみな、散らされて、逃げる者を集める者もいない。そうして後、わたしはアモン人の繁栄を元どおりにする。―主の御告げ―』」

エレミヤ書49章1-6節

 

自分に自信を持てない人がいますね。持てないことを別に否定するつもりはありません。ただ、自分に自信がなくて人をうらやむ前に良ければあなたの価値を知ってください。あなたは神様によって造られた大切な存在だ、ということを。神様が丹精込めてつくられ、あなたの生まれる前、母の胎内にいる時から守られてこられた、神様のイメージ似せて造られた。偶然存在しているわけでもない、確かに神様があなたを造られ、今日あなたがあるのです。隣の芝が青く見えようと、あなたの芝を見てみてください。神様はあなたに今日もその愛を注がれている、その愛を受け取っていますか?何よりあなたは、神様から離れ失われていく事を惜しまれた神様が、御子イエス様のいのちを身代わりにされてまで取り戻された、それだけの愛を注がれた存在なのです。神様はそれほどまであなたを愛し、あなたに恵みを注がれるのです。今日私たちは神様を見上げよう、神様がなされる御心を求めようではありませんか。ここにいのちが広がっていくのだから。

 

さて、BC627年からバビロン捕囚時期、さらにそこからエジプトに逃れ住み着いた人たちに向け、また周辺諸国に向けて40年以上にわたり神様はエレミヤを通して預言をし、愛を注ぎ続けました。神様から離れていった民、離散され、いったいこれからどうしたらいいか分からない人たちに、それでも愛するゆえに何とか彼らに生きてほしい、人々・私たちが神様に立ち返って生きる事を願い。そして今↑でアモン人について語られます。

 

そのアモン人とは何者なのか。彼らは↑の前までで見ていたモアブの、またイスラエルの兄弟国でもありますが。そのアモン人の始まりはイスラエルの父祖アブラハムの時代にさかのぼります。そのアブラハムと甥のロトはもともと一緒に旅をしていたのですが、途中で財産が増えてきて、争いが一族の間で争いが起こるようになり、それぞれ別々の道に進むことになり、ロトは御目麗しく見えたソドムとゴモラの町を選び、そちらに住みます。しかしそこは様々な罪に満ち溢れ、ついに神様はソドムとゴモラの町を滅ぼす決断をされます。それでも人となって生まれる前のイエス様が様子を見て、神様に立ち返る人はいないか、探されるほどでしたが結局、ロトと娘2人は助け出され、山に逃げのびたのでした。ところが、娘さんたちはこんなところに結婚してくれる相手なんか来てくれるはずがない、と、なんと父であるロトに酒を飲ませ、床を共にし、モアブとアモンが誕生し、一族が始まっていきます。

 

ただ彼らはこのタイミングでアブラハムのもとに帰ることもできたのではないか、と思う。もし彼らがアブラハムたちのところに帰っていたなら、神様の恵みを求めて帰っていたならまた別な展開、彼らの人生があったのではないか。それでも神様は彼らを見捨てず、彼らに広い土地をどうも与えていました。ヨルダン川から荒野、川から川まで広大な土地を持っていたようです。ただ、彼れらは山にこもりいつまでもイスラエルのもとに帰っていかなかった、彼らは自分たちはあのソドムとゴモラの町の裁きから救われたのに、むしろ神様の恵みを求めるのではなく反発し、奪い取っていくのです。それが↑の預言であらわされています。

 

 

神様は今、アモン人に向けて「イスラエルには子がないのか。世継ぎがないのか。なぜ、彼らの王がガドを所有し、その民が町々に住んだのか。それゆえ、見よ、その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、アモン人のラバに戦いの雄たけびを聞かせる。そこは荒れ果てた廃墟となり、その娘たちは火で焼かれる。イスラエルがその跡を継ぐ」と語られます。

 

どういうことなのかと言いますと、彼らはラバを都(今のヨルダンの首都アンマン)とし、そこに国を持っていました。彼らはアッシリヤによってガド族など、北イスラエル王国が捕え移された後にそこの地を取っていきました。神様はそのようなアモンに対して、バビロンがやって来て彼らを滅ぼすと宣言されるのです。神様に愛されたもの、神様がそれでも救い出されたのにどうして滅んでいかなければならないのか。彼らの土地は農耕や牧畜をするのに優れており、また砂岩や石灰岩などを売って生活の手段も持っていたのです。神様は何も彼らに与えないから、と彼らは攻撃をしていたがそうではない、神様の愛はそこにあったのに、神様を求めず、神様のところに彼らは帰ろうとしなかったのです。

 

私たちは自分の現状を見て、神様を見ず、考えようともせず、かえって神様は自分に良いことをしてくれない、と反発、神様を捨て、離れる。でもそこに何が残りますか?むしろソドムとゴモラという絶望の中から彼らを滅びの中から引き上げ救われたのは神様ではありませんか。神様を見失って暗闇の中をさまよう私たちを、その暗闇を打ち砕き、ご自身のもとに招き入れてくださったのです。そこに神様の恵みが広がっているのです。神様は見捨てておらず、確かに彼らにもその御目を、お心を注がれていたのです。その土地がたまたま良い土地だったのではないですよ?だって神様がこの天地万物を造られたのですから、神様がそのお心を現される時、神様がそこにおられるところ、私たちは生きるのです。

 

逆に神様不在のところは神様のそのお心がなければだんだんすたれていき、最後は↑の預言のように廃墟になってしまう。住まうべき主(あるじ)、主なる神様がそこにおられなければ誰がそこを、あなたを生かすでしょう。私たちは神様を求めていますか?現状を見て、現状を支配している問題、世の勢力、サタンに惑わされて諦めていませんか?しかし神様がおられるからそこは生きる、変えられる、そこに命の川が流れ、そこは回復していくのです。それなのに私たちが神様を諦めて、神様から離れて何になりましょうか。

 

彼らは神様を見ず、イスラエルの現状をうらやみ攻撃を繰り返しました。でも同じ神様が彼らにも御目を注いでおられた、隣の芝が青く見えて攻撃するよりも、青くしてくださる神様を求める、神様を求めることを忘れてはいないでしょうか。どんなにその土地を奪い取ろうとしても、神様の恵みを奪い取ることなどできない。神様を求める時、奪う・奪わないではなく、神様がその恵みを、愛を私たちに注がれるのです。そこは誰の土地でもない、誰のいのちでもない、神様の住まわれる場所、御国となる、神様の住まわれる新しい命となるのです。そこに神様は招かれていたのです。

 

あのソドムとゴモラへの裁きの後や、ダビデの時代には神様の憐れみによってイスラエルの属国になった、その中で神様の取り扱い、恵みを受け、神様に生きるチャンスがあったのです。しかし彼らは神様を求めず、神様に反発し続け、ついには彼らの誇っていたもの、奪い取っていったものは失われ、バビロンによって廃墟にされるのです。

 

ちなみに、ここの預言にある「イスラエルがその跡を継ぐ」という言葉ですが、バビロン捕囚から帰ってきたイスラエルの民は国の再建を図ります。そこにアモン人の生き残りがいて、今こそ一緒に神様に立ち返るチャンスがあった、しかし彼らは自分たちの利権を求め、自分たちの支配を求め、神様の支配と言いますか、神様が治める国の回復を願っていた帰還したイスラエルの民からそれは認められないと言われ、またも攻撃をする、でも結局イスラエルがそこに回復するわけですが。私たちが利権を握りしめて、ないし世の勢力、恐れなどにあなたの土地を、いのちを握らせてはいけない、神様の領土を、神様の場所を奪ってはいけない、むしろ神様に委ねる時、そこは神様の治めるところへと回復するのです。イスラエル、いや、神様がその地を継がれる、もう一度住まわれる時、そこに神様のいのちが溢れ、あなた自身を生き返らせる、生かして下さるのです。あなたはこの神様のご統治をどれだけ求めているでしょう。

 

私たちはもう、神様が気にくわない、と攻撃をアモン人たちのように仕掛けている場合ではありません。主なる神様があなたの王となられる、いや神様の御国に、いのちの内に私たちを招かれているのです。またあなたの内にある神様の恵みを蔑ろにして、敵に、世に、サタンにこれを奪わせてはいけない。あなたは神様に愛され、神様の憐れみによって救い出されたものなんですよ?あのソドムとゴモラの町への裁き、また↑のアモン人への裁きのように奪われ、完全に失われてもおかしくないはずなのに、この私たちの罪ゆえの裁き、これから神様は私たちを救い出すために、御子イエス様を遣わされたのです。

 

↑で完全に滅んだかに見えたアモン、しかしイエス様はそれでも彼らに出会いに来てくださったんです。↑で「そうして後、わたしはアモン人の繁栄を元どおりにする。―主の御告げ―」約束された神様は、数百年後、彼らの地にイエス様を遣わされ、悪霊に憑かれた人を解放するなどされ、福音を、救いを告げ知らせ、彼らは希望を得たのです。神様は見捨てていなかった、何もかも失ったように見えた彼らを神様は救いに来られた。この世の思い煩い、勢力、サタンの手に縛られた私たちを救い出す、鎖から解き放つために、イエス様は来られ、私たちのこの裁き、罪の刑罰を御子イエス様に身代わりに神様は背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、これらすべてにイエス様は勝利された。このイエス様の十字架の御前に私たちが罪悔い改め立ち返る時、私たちはこれらの鎖から、死から完全に解き放たれ、新しい命をいただくのです、神様の子とされる、神様の家族に招かれるのです。その時私たちの繁栄は元どおりにされる、神様の造られた最高の姿に、回復してくださるのです。

 

私たちはこのイエス様にあって御国の世継ぎとされた。私たちはこの素晴らしい新しい命に今日生かされている、この事をどうか忘れないでください。今日、あなたの内に神様の命の川が、愛が、恵みが、神様の全てが御子イエス様と共に今日も注がれていることを忘れないでください。御子イエス様のいのちを与えてまで、ここまで愛された神様が元どおりにされる繁栄、神様があなたの内に刻まれる一つ一つの恵み、愛はいかばかりか。相続させていただいているこの神様の恵みが今日も注がれているのです。罪人であったアモン・そして私たちをそれでも諦めず愛を注がれ続けた神様を私たちはあきらめてはいけない。この神様の愛をいつまでも求め歩もうではありませんか。惜しむことなく喜んであなたに注がれる愛が今日、あなたの内に、またあなたの周りにも溢れ、そこが神様によって回復し、生きる事を切に願い。