「パロがまだガザを打たないうちに、ペリシテ人について、預言者エレミヤにあった主のことば。主はこう仰せられる。『見よ。北から水が上って来て、あふれる流れとなり、地と、それに満ちるもの、町とその住民とにあふれかかる。人々は泣き叫び、地の住民はみな泣きわめく。荒馬のひづめの音、戦車の響き、車輪の騒音のため、父たちは気力を失って、子らを顧みない。すべてのペリシテ人を破滅させる日が来たからだ。その日には、ツロとシドンを、生き残って助ける者もみな、断ち滅ぼされる。主が、カフトルの島に残っているペリシテ人も破滅させるからだ。ガザは頭をそられ、アシュケロンは滅びうせた。アナク人の残りの者よ。いつまで、あなたは身を傷つけるのか。』『ああ。主の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め。』どうして、おまえは休めよう。主が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸―そこに剣を向けられたのだ。」
エレミヤ書47章1-7節
ふと考えると、完璧な人はいない。色んな意味を込めてこう書かせていただいたのですが、できる事には限界がありますし、何かに何とか頑張って立ち向かおうと思っても疲れてしまい、諦めることもある。休まないとやっていけないことだってあるわけです。でも弱いことが悪いわけではないんです。だって、私たちは神様がいるから、生きられる、完璧な神様が、この天地万物を造られた神様がいるから、あなたのために戦われる胃神様が、あなたを見捨てない神様がいるから。そこに希望があるんです。神様は私たちを見捨てることができず、あなたを救うために御子イエス様のいのちさえ惜しまなかったのです。私たちは今日、この神様に希望を抱き、神様に留まり続けよう。神様があなたを守られるから。
さて、紀元前627年からバビロン捕囚、そしてそこからエジプトに逃れ住み着いた人たちに向けて40年以上にわたって神様はエレミヤを通して預言をし続けてきました。語られるだけではなく語られたことを実行されてきました。神様は愛することをやめなかった、人々が神様に立ち返って生きる事を願い、もしかしたら、と諦めず語り続けるのでした。エレミヤだけではない、様々な預言者を通して、また時には直接現れ助けられ、その愛を注がれ続けてきました。その神様の思いは一部の人だけではなく、願わくば全ての人に生きてほしい、罪を悔い改め立ち返って、本物の恵みに生きてほしい、とイスラエルだけではなく様々な国に、時代を超えて今も語り続けて下さっているわけです。
↑の前の章ではカルケミシュの戦い付近の時代に向けて神様はエレミヤを通して語られてきましたが、↑ではペリシテに向けて、その裁きが語られます。ペリシテは今でいうところのガザ地区のあたりにあります。と言っても当時のペリシテ人と今のガザは別物なのですが。それで、このペリシテというのは実はイスラエルとのかかわりがかなり強く、歴史で何度もぶつかってきました。もっというなら、最初の人のアダムとエヴァの子孫のノアの子ども、ハムの子孫からこのペリシテ族が出てきます。
なぜここまでイスラエルと対立するようになったのか、その根っこが実はここにあるわけです。ノアの洪水・箱船については皆さんも多少耳にしたことがあるかと思いますが、そのノアの洪水の後、ノアはぶどうを育て、そのワインによって酔ってしまって裸になってしまったことがあったのですが、3兄弟のうち、セムとヤペテは父の恥を見ず、衣類で覆い隠すようにしたのですが、ハムは嘲笑い、こともあろうに性的な目で見ていた、と。その彼の性質を見て、ノアはハムについて「のろわれよ。カナン(ペリシテ人の祖先ハム)。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ」と言われ、自分が呪いを受けた、神様に見捨てられた、なぜ兄弟のしもべにならなければならない、と反発したわけです。そこから3兄弟は散って行くのですが。ただ神様はむしろ神様から離れた道に進んで罪に呪われた道に進むのではなく、神様に立ち返る、兄弟たちの中で、兄弟たちの内に働く神様の恵みに生きてほしい、とノアを通して神様は招かれていたのです。
しかし彼らは神様に反発した、この恨みが残っていくのでした。その後時の権力者になったり、神様に逆らう民としてバベルの塔を建ててみたり。そして神様に助けられ出エジプトを果たし、神様が与えてくださると約束されていた、かつてイスラエルの先祖たちが住んでいた地に帰ってきたころ、海の民でもあったペリシテはこの地を奪い取ろうと戦いを仕掛け、イスラエルを苦しめていきます。何度も何度も。サムソンとデリラの栄華は有名ですが、あの怪力サムソンが戦ったのもペリシテ人、ゴリヤテという巨人についても聞いたことがあるかもしれませんが、これもペリシテ人。彼らは何度もイスラエルの民と触れる中で神様に触れ、神様に立ち返る機会があった、しかし反発し続けたのです。神とは何するものぞ、といわんばかりに、海のダゴンという偽神を拝み、これを崇拝し、自分を受け入れなかった神を認めない、と排除をしようとしたわけです。そしてアッシリヤやバビロンに苦しむイスラエルを粟沢頼、孫姿を喜んでいたのです。
本来、同じノアの一族出身だったのに。同じ神様をあがめ、同じ神様に救い出された、あの神様の愛を忘れたのか。神様の憐れみによって彼らはノアの洪水から救い出されたのに、彼らは神様の伸ばされていた御手を振りほどいてしまったのです。
そして↑、パロがまだガザを打たないうちに、ペリシテ人について神様はエレミヤを通して「見よ。北から水が上って来て、あふれる流れとなり、地と、それに満ちるもの、町とその住民とにあふれかかる。人々は泣き叫び、地の住民はみな泣きわめく。荒馬のひづめの音、戦車の響き、車輪の騒音のため、父たちは気力を失って、子らを顧みない。すべてのペリシテ人を破滅させる日が来たからだ。その日には、ツロとシドンを、生き残って助ける者もみな、断ち滅ぼされる。主が、カフトルの島に残っているペリシテ人も破滅させるからだ。ガザは頭をそられ、アシュケロンは滅びうせた。アナク人の残りの者よ。いつまで、あなたは身を傷つけるのか。ああ。主の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め」と語られます。
時代的な正確な時期は分かりませんが、おそらくここ数回みてきました、カルケミシュの戦いの時の話と考えられます(BC605-604)。エジプトとバビロンに苦しめられるイスラエルを見てあざ笑っていたペリシテに神様の剣が、裁きが降るのです。自分たちは大丈夫、と思っていた彼らは北から攻めてきたバビロンによって討たれ、ついには歴史から姿を消すこととなります。
もう少し具体的に見ますと、カルケミシュの戦いに行くときに、パロ・ネコたちがこのペリシテと戦うこととなっていたようですが、それがBC609年、そして↑で預言されているアシュケロンをネブカデネザルが倒したのが、歴史的にはBC604年、そう考えると、このペリシテはエジプトとバビロンの両方に攻められ滅ぼされたようです。
もう少し預言を詳しく見ますと、「北からくる水」、つまりまだパロが来る前の時に、バビロンの軍隊の流れによって、全ての住民に対する徹底的な破滅をバビロンがもたらします。それが住民たちに泣きわめきと恐怖がをもたらしたのです。そこでペリシテは北の同じ地中海沿岸の国々、「ツロとシドン」に助けを呼びました。彼らなら助けてくれるだろう、と。ところがツロとシドンもバビロンによって倒されます。さらに、「カフトルの島」、彼らの元の地中海に浮かぶ島、クレテ島、その島にいる住民までもが殺されるという、まさに民族浄化のような破壊行為です。
彼らは自分たちの強さを誇っていました。ちなみに先ほどちらっと触れましたが、あの巨人ゴリヤテ、2.9mの巨人の彼もペリシテの人間でした。↑で「アナク人の生き残り」と出てきていますが、ゴリヤテなどの巨人族です。かつてイスラエルの民が出エジプトを神様の助けによって果たされた際、約束の地に戻る途中、最短ルートである地中海側を回るには、この巨人族がいたために恐れてルートを変えたほどです。その彼らが頼りとしていた、イスラエルとの代表選で選ばれるほどのアマレクの一族さえどうにもならず、身を傷つけてまで偽の神々を拝み必死に祈っていた、しかしその彼らの頼ったバアルという偽神は答えることがなかったのです。頭を剃って悲しみの底に打ちひしがれるのでした。
彼らは、どうして神様に帰らなかったのだろう。ハムへのノアの預言をもう一度思い出して下さい。彼は「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ」と語っていましたが、彼は恨みで呪いの宣告をしたのか?いやそうではない、むしろ私も書いていておぞましく感じるほどの徹底した破壊と悲しみ、そうした呪いの道に進むことがないよう、神様に帰れ、神様がいるじゃないか、あなたを本来呪いではなく祝福、いのちで満たそうとしていた、その神様がいるんです、彼らが神様に立ち返ることを神様は訴えたのです。そこから2500年以上たっても彼らは神様に帰ることはなかった。むしろ神様は彼らにイスラエルの民と出会わせることによって神様に立ち返ることを願っていたのではないか、だから彼らに今も語り続けているのではないか、こんな徹底した破壊に終わる前に生きよ!と。
そういえば、新約聖書の分かち合いで使徒の働きを今見ていますが、その中で最近見た、ピリポという人が聖霊様によってガザに降る道に行ったことがありましたが、その時「このガザは今、荒れ果てている」とありましたね。これは今の時代の話ではなく今から2000年程前です。このエレミヤの預言と、そこに聖霊様に導かれて通っていったピリポ、神様は今この御霊の流れによって回復させようとしていたのではないか、この荒れ果てた地を、罪に呪われた、打ち砕かれたこの地を回復させようとしていた、神様に立ち返ることを願っていたのではないでしょうか。ノアの時代から続くこの地への神様の訴えを考えると。
彼らは今「ああ。主の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め」といいますが、神様の裁きの剣、人の持つ剣は剣によって滅びますが、神様の剣は私たちへの裁き、とも見えますが、しかし聖書を見ていくと、その剣をもって罪と、悪と戦われる様子、時に道を示されるのです。神様は、むしろ私たちが滅びることがないよう、戦われ続けていたのです、あのペリシテにも、私たちにも。その神様と戦って私たちはどうしましょう。むしろ私たち思い悩ませる思い煩い、また罪、その呪いから解き放つために神様は私たちの身代わりに御子イエス様にその裁きの剣を向けられ、十字架で身代わりに罰し、死なせたのです。ありえない話です。しかしそこまでしてでもあなたが生きる事を願われたのです。そして3日目に神様はイエス様をよみがえらせることによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。もう呪われたものではない、神様の子へと。
もう私たちは神様から離れてはいけない、神様と戦い、神様に剣を向けている場合ではありません。神様はあなたが罪から離れるよう、罪の呪いではなく、イエス様に向けられた剣によって取り戻された、この命に、恵みに生きよ、と今日招かれているのです。神様はあなたのために御子イエス様のいのちをもって戦われた、この神様が今日あなたと共におられるのです。私たちはこの剣、イエス様のいのちをもって導かれた道からもう離れず歩もうではありませんか。罪の呪いの道ではない、イエス様のくださった本物の恵み、いのちの内を。

