―見捨てるものと見捨てないもの― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…ナイル川のようにわき上がり、川々のように寄せては返すこの者はだれか。エジプトだ。―ナイル川のようにわき上がり、川々のように寄せては返す。彼は言った。【わき上がって地をおおい、町も住民も滅ぼしてしまおう。】馬よ、上れ。戦車よ、走れ。勇士たちよ、出陣だ。盾を取るクシュ人、プテ人、弓を引き張るルデ人よ。その日は、万軍の神、主の日、仇に復讐する復讐の日。剣は食らって飽き、彼らの血に酔う。北の地、ユーフラテス川のほとりでは、万軍の神、主に、いけにえがささげられる。おとめエジプトの娘よ。ギルアデに上って乳香を取れ。多くの薬を使ってもむなしい。あなたはいやされない。国々は、あなたの恥を聞いた。あなたの哀れな叫び声は地に満ちた。勇士は勇士につまずき、共に倒れたからだ。』」

エレミヤ書46章7-11節

 

本当に優れた関係は、いざという時に現れるな、と思います。友達、と言っていても、いざその人が困った時に一緒にその問題を乗り越えようとしてくれる。もちろん最後はその人自身が越えなければいけないこともあるのですが、言うだけ言って終わるって人もいますよね。神様は、私たちの良い時も悪い時も知っています。調子のいい悪い、だけではなく、私たちが神様から離れ好き勝手に生きているような時も。ただ、その私たちをそれでも見捨てず、むしろ私たちの罪を身代わりに背負って罰せられ、死なれてまでもあなたを愛しぬかれたのです。そこまでしてまで神様はあなたに生きてほしい、本物の恵みに生きてほしい、と招かれている。この神様が、今日あなたと共におられるのです。もう私たちは神様から離れてはいけない。私たちもこの神様の与えてくださったいのち、注がれた愛、注がれる愛に最後まで信頼し、歩もうではありませんか。

 

さて、紀元前627年からバビロン捕囚、そしてそこからエジプトに逃れ住み着いた人たちに向けて40年以上にわたって神様はエレミヤを通して預言をし続けてきましたが、といってもエレミヤだけではなく他の多くの預言者を通して、また時には直接現れ助けられたこと、預言者以外を通してもご自身を現し、その愛を注がれ続けてきたのですが、神様はイスラエルの民だけではなく、↑のようにイスラエル以外にも向けて語られています。ある一部の人、ある一時代だけ、気の向いた時だけ私たちに関心を寄せる、助けるのではなく、いつも私たちにその愛を示し続けていることが見えますね。今の時代を生きる私たちに向けてもその愛は変わりません。この愛に、私たちは気づいていますか?世の情勢に惑わされて神様から目を離していませんか?

 

↑、正確には46章ではまずエジプトに向けて預言されています。時代的には世界史でも知られている、歴史に疎い私でも聞いたことがあるカルケミシュの戦いの時になります。それはどういう戦いだったのかと言いますと、当時一時期力を持っていた、覇権を握っていたアッシリヤ帝国が力を失い、そのアッシリヤの残党がユーフラテス川の上流、今のトルコとシリアの国境にあるカルケミシュという町に逃げたことによります。このアッシリヤの首都ニネベが 612 年にバビロンによって陥落しました。そしてそれでも残った人たちがカルケミシュにアッシリヤの遷都します。そしてその残党にバビロンが攻めてきたわけです。エジプトは、バビロンの勢力が拡大するのを恐れてそれで北に遠征するのですが、紀元前609年、ユダの王ヨシヤが戦いを挑み、それでメギドで戦い、ヨシヤは倒れてしまいました。

 

その後、このカルケミシュの戦いが 605 年に起こり、パロ・ネコはネブカデネザルの前でまさかの敗北、エジプト軍は、一目散に逃げていきました。そしてバビロンのネブカデネザルは、自分が支配したことを示すためにエルサレムに来て、王族の一部を捕え移します。この時がバビロン第一次捕囚となるわけです。バビロン捕囚まで70年の年月を要するのですが、イスラエル(南ユダ)にとっては苦しみの始まりであり、神様による回復へ向かう時の始まりとなりました。まさに神様が動かれる時、神様が働かれる時、私たちが変えられる時、救いの時となることが見えてくるわけです。

 

その神様の思いは今、エジプトにも向けられていました。神様は↑の前で、神様は自分の力を誇り、また偽りの神々に頼る彼らに頼ってみればいい、と皮肉を語りつつ、それらは何もすることができないではないか、と訴えてきました。私たちが本来身にまとうべきは、神様。いや神様ご自身が私たちを見捨てず、共におられるから、私たちの内に働かれるから強くあれるわけです。

 

さらに神様は↑で「ナイル川のようにわき上がり、川々のように寄せては返すこの者はだれか。エジプトだ。―ナイル川のようにわき上がり、川々のように寄せては返す。彼は言った。『わき上がって地をおおい、町も住民も滅ぼしてしまおう。』馬よ、上れ。戦車よ、走れ。勇士たちよ、出陣だ。盾を取るクシュ人、プテ人、弓を引き張るルデ人よ。その日は、万軍の神、主の日、仇に復讐する復讐の日。剣は食らって飽き、彼らの血に酔う。北の地、ユーフラテス川のほとりでは、万軍の神、主に、いけにえがささげられる。おとめエジプトの娘よ。ギルアデに上って乳香を取れ。多くの薬を使ってもむなしい。あなたはいやされない。国々は、あなたの恥を聞いた。あなたの哀れな叫び声は地に満ちた。勇士は勇士につまずき、共に倒れたからだ」と語られます。

 

ナイル川、彼らはこのナイル川も神としていますが、このナイルはご存じの通りよく氾濫することで知られています。勢いよく押し寄せては、同じ勢いをもって引いていく様子が、彼らのこのカルケミシュの戦いでの様子と同じだ、と神様は例えて語られます。彼らの過信は、↑に出ている諸外国(クシュ=エチオピア、プテ=リビア)の民を自分たちの傭兵とすることで、自分たちに力があり、勢いがあることを誇示していたわけです。

 

イスラエルの民も実はこのエジプトの姿に憧れ、誘惑を覚えていました。でも何を選ぶのも自由では?と思う人がいるかもしれませんが、本当に良い物ならいい、でも先ほどのナイルのたとえではありませんが、いつかは失われていってしまう。どんなにそれらによって着飾って、自分を偽ろうと思っても、いつかは倒れ、空しくなってしまう。どんなに彼らが魅力的に見えるナイル、様々な知恵、力を現す馬の数を誇ろうとも、それらにより頼んでもいつかはあなたから離れていってしまうのです。事実、彼らが誇っていた、自分たちの持っているものこそ一番だ、と思って臨んだカルケミシュの戦いでは敗北し、惨めな敗走をきたし、ついにエジプトもまたバビロンの手に渡されることとなるのです。本来神様から与えられるはずの恵みを失ってどうしましょう。あなたを造られた神様が、あなたを愛する神様が注ごうとされているものを求めなくてどうしましょう。

 

そんなに神様は頼りない方なのですか?しかし少なからずともあなたよりも、あなたの周りにいる人たち、あなたの周りに存在するもの、あなたの先祖たちよりもずっと昔から存在しておられた方です。いや、アダムとエヴァよりも前、最初の人である彼らを造られた神様、この天地万物を造られた神様です。この神様以上に頼れる方がいますか?私たちはどれだけ神様を知っているのでしょう、この方より優れていると言えるでしょう。この方に頼らなくて私たちはどうやって生きる事ができるでしょう。すべては神様の一言から始まった、神様が造られ、神様が恵みをいたるところに溢れ流れさせ、神様が私たちにその息吹、霊を吹き込んで生きたものとしてくださったのです。この神様なしに私たちは生きることなどできな、この神様の霊が、神様ご自身が私たちを生かして下さるのです。

 

古代イスラエル王国2代目の王ダビデは晩年、エルサレム神殿建設の準備をした際、「私たちの父イスラエルの神、主よ。あなたはとこしえからとこしえまでほむべきかな。主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます」と祈りました。この世の力や栄えではない、この天地万物を造られ、あなたを造られ、あなたを見捨てて離れていくのではなく、あなたを救われる神様が、その偉大な力と栄え、栄光を現される。この方から本物の富と誉が流れ出るのです。神様にあって私たちは豊かなものとされる、この世では測れない恵みによって豊かにされるのです。この神様の勢いに、力に勝るものはありません。

 

あなたが、ユーフラテスで満たされた血のごとく血で満たされるのではない、自分は大丈夫と言っていた勢いは失われ、倒れていく、そのような私たちを見捨てず、癒すため、神様は御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架に架けられ、死なせたのです。あなたを見捨ててそのまま倒れたままにすることだってできたでしょう。しかし神様はあなたの倒れこむ声を、叫びを聞いてくださっているのです。この悲しみに、世に傷つけられ、罪によってある意味で流された血、苦しみを拭い去り、新しく回復させるためにイエス様はいのちを惜しまず、最後まで十字架から降りることなくその刑罰をすべて一身に背負われ、死なれたのです。そして私たちがこのイエス様の癒し、十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る時、私たちは癒されるのです。この罪あるからだから、古い私たち、この世の思い煩い、罪の呪いに支配された私たちは洗い流され、聖められ、新しいものとされるのです。復活のイエス様と同じ恵みに与らせていただけるのです。

 

イエス様の弟子だったペテロ、十字架直前で裏切った彼は「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」と手紙に書き残しました。イエス様の打ち傷、最後まで見捨てず遂行された私たちがおうべき刑罰をその身に受けてくださったゆえ、私たちは神様と和解させていただくことが赦される、その神様との関係の内に癒しがあるのです。神様のいのちが、愛があなたを覆い、私たちは生きるのです。

 

エジプトに惹かれるイスラエル、またそのイスラエルと接点が何度もあり、神様の御業を彼らを通して何度も見てきたエジプト、その彼らを神様は見捨てず、語られる。あなたにも語られる。それはあなたが癒され、生きるためです。彼らを見捨てず語られる神様、あなたに罪から癒され、本物のいのちを得てほしい、と今日もあなたにその御手を伸ばされているのです。もうナイル、世の流れ、恐れに、罪に、サタンに流されてはいけない。私たちはこのイエス様の究極の愛を見た、そしてみただけではなく頂いたのですから、もう神様から離れることなく、神様の流れさせてくださる恵みの川、聖霊様の導きに従い歩もうではありませんか。あなたの内に十字架から溢れ流れる泉が満ち溢れ、今日私たちをその究極の愛、恵みで満たされる、そこからさらに神様のいのちが溢れ広がっていくから。私たちは神様が成されるご計画、御国の到来を切に求める、待ち望もうではありませんか。