「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた。彼が、『主よ。あなたはどなたですか』と言うと、お答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。』同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。」
使徒の働き9章1-9節
真っ暗闇の中にいる時、私たちは不安になります。どこに行けばいいのか分からない、そんな心が暗くなっている時なんて特に。そんな時、ぱっと明かりがついたらどうでしょう。私たちの心も明るくなる、元気になる。6年前の北海道ブラックアウトを経験した時、本当に神様が灯を照らしてくれた、ということを実感しました。どんなに電気がつかなくとも、神様が太陽を昇らせてくださる、神様が新しい日を迎えさせてくださるんだ、ということを実感したのを覚えています。私たちのいのちは神様が支えてくださり、守ってくださっている。神様が照らされるから私たちは生きていける。私たちは死の底、暗闇の底にいる私たちを照らし、生き返らせるため、救うために御子イエス様が命をかけてまで救われ、その光を照らして下さったことを改めて覚えようではありませんか。このイエス様の命がけの愛が、今日あなたに光を照らし、その愛を注がれ導かれるから。
さて、↑は神の御子イエス様が私たちの罪を身代わりに背負われ十字架で罰せられ死なれ、3日目によみがえられた後、イエス様の昇天後、約束されていた新しい助け主なる聖霊様が降臨され、教会が誕生したころの話になります。聖霊様の働きによって多くの人たちがイエス様の救いを信じ受け入れ、その数は日ごとに増しています。同時にサウロという若者を中心にクリスチャンたちへの迫害が始まり、クリスチャンは離散されていきます。そんなサウロに突然驚くべきことが起こります。
サウロ、後にパウロと名前が解明されますが、これまで聖書の分かち合いの中で何度も取り上げてきた、彼の言葉を引用してきましたが、彼の人生がまさに変わる瞬間がここで訪れます。サウロは一応は神様を信じていました。ユダヤ教の中でも将来有望と言われるほどでした。ただ律法的には木にかけられるものは呪われるという言葉、また自らを神と名乗り神様を侮辱しているという思いからイエス様を否定、また彼を信じる信徒たちを迫害していくのでした。そしてその彼の暴走は止まることなく、さらに男でも女でも誰でも縛り付け、エルサレムに連れていくことができるよう目論みます。
とんでもない話です。そして今、天からの光が突然彼を照らします。数年先に別なところで自分にあったことを話していた際に、この天からの光について「真昼に私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と私に同行していた者たちの周りを照らしました」と語ります。これは何となく強い光に不意に襲われたのではなく、普通ではない光だった、まさに天からの光だった、と。そこでサウロは「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞き、「主よ。あなたはどなたですか」と答えます。すると天から「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです」という声がしました。
そう、イエス様だったのです。復活のイエス様が今天からの光をサウロに照らしたのです。サウロをイエス様は、自分を迫害する者で、また初代教会のホープだったステパノを殺害したもの、さらに今せっかく命がけで救いを成し遂げてくださった、このイエス様の十字架を無にしようとするサウロを滅ぼすのではなく、死刑にするのでもなく、イエス様は彼を今救いへと招かれたのです。これは驚くべき話です。一体どれだけの人が彼に苦しめられたか、また今なされようとしていたのか。しかし、サウロが迫害したイエス様が彼をその暗闇から救い出そうと、地にある一時的な希望ではない、天からの本物の光で照らしたのです。
後の時代、サウロはこの時のことを思いつつ「『光が、やみの中から輝き出よ』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです」と手紙に書き残します。かつて神様がこの天地創造をされた時に、神様が「光があれ」と仰られると光ができ、そしてここから天地万物創造が始まったわけです。すべてのみなものとなる光、それが神様から発せられた、この光が私たちに照らされる時私たちは生きるのです。神様がもしこの光を照らさなければ私たちは生きられません。神様の希望の道を神様が照らされるからこそ私たちは生きる事ができるのです。神様はサウロを見捨てず、イエス様の救いの光を、罪から、死から、永遠の闇から、サタンの手から取り戻すため、彼にも届けた、これはあなたには無効だ、とはされずに、彼の罪をもイエス様は十字架上で有効とされた、彼の罪をも十字架で背負われ、身代わりにその罰を受け、死なれた。そして3日目によみがえられたことによって、この復活の恵み、新しい命、永遠のいのちを彼に与えた、本物の恵み、愛で満ち溢れたいのちの道へと招かれたのです。
サウロはイエス様の下さった救いの道、この本物のいのちの道である「この道」(クリスチャン)ではなく、私の考える我が道を進んでいた、これこそが正しいんだ、と。しかしイエス様がその彼を見捨てるのではなく、今立ち返るように招かれたのです。サウロはこの後何があるか分からない、しかしイエス様が照らされた光の道を進む決断をしました。そこにイエス様の救い、命が広がっている。
あなたは我が道をサウロのように進んだままになっていませんか?しかし、イエス様のみ顔にある神様の栄光を知らせていただけるその愛が、恵みが今日あなたの内に満ち溢れさせたい、とその御手を伸ばされています。この世の与える希望的観測の光ではない、本物の光が、いのちの光が今日あなたに照らされている。あなたはイエス様の仰ることは違う、と言って別の意味で迫害者になっていませんか?しかしそのように私たちがどうしたらいいかわからずさ迷う私たちを見捨てずに、そのあなたに「○○よ」と今日あなたを救わんと招かれている。命を投げ捨ててでもあなたを救わんとされたイエス様が、招かれた光、この希望の道に私たちは信頼し歩ませていただこうではありませんか。