「野にいた将校たちとその部下たちはみな、バビロンの王がアヒカムの子ゲダルヤをその国の総督にし、彼に、バビロンに捕らえ移されなかった男、女、子どもたち、国の貧民たちをゆだねたことを聞いた。ネタヌヤの子イシュマエル、カレアハの子らヨハナンとヨナタン、タヌフメテの子セラヤ、ネトファ人エファイの子ら、マアカ人の子エザヌヤと、彼らの部下たちは、ミツパにいるゲダルヤのもとに来た。そこで、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤは、彼らとその部下たちに誓って言った。『カルデヤ人に仕えることを恐れてはならない。この国に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたはしあわせになる。私も、このように、ミツパに住んで、私たちのところに来るカルデヤ人の前に立とう。あなたがたも、ぶどう酒、夏のくだもの、油を集めて、自分の器に納め、あなたがたの取った町々に住むがよい。』モアブや、アモン人のところや、エドムや、あらゆる地方にいたユダヤ人はみな、バビロンの王がユダに人を残したこと、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤを彼らの総督に任命したことを聞いた。そこで、ユダヤ人はみな、散らされていたすべての所からユダの地に帰って来て、ミツパのゲダルヤのもとに行き、ぶどう酒と夏のくだものを非常に多く集めた。さて、野にいたカレアハの子ヨハナンと、すべての将校たちは、ミツパのゲダルヤのもとに来て、彼に言った。『あなたは、アモン人の王バアリスがネタヌヤの子イシュマエルを送って、あなたを打ち殺そうとしているのを、いったい、ご存じですか。』しかし、アヒカムの子ゲダルヤは、彼らの言うことを信じなかった。カレアハの子ヨハナンは、ミツパでひそかにゲダルヤに話して言った。『では、私が行って、ネタヌヤの子イシュマエルを、だれにもわからないように、打ち殺しましょう。どうして、彼があなたを打ち殺し、あなたのもとに集められた全ユダヤ人が散らされ、ユダの残りの者が滅びてよいでしょうか。』しかし、アヒカムの子ゲダルヤは、カレアハの子ヨハナンに言った。『そんなことをしてはならない。あなたこそ、イシュマエルについて偽りを語っているからだ。』」
エレミヤ書40章7-16節
人はつらいだけでいるのは少々耐え難いというか、耐えきれなくなるでしょうね。そこに何か希望があるから頑張れる。その希望はでは、どこにあるのでしょうね。あなたは誰に希望を抱きますか?いつかはなくなってしまうもの、時代とともにかわるもの、気分によって変わる人?そこに希望があるようにはあまり感じませんが。ただ神様は違う。神様は私たちが辛い中にある時も、元気な時も、どんな時も私たちにその目を向けてくださり、共にいてくださる、私たちを励まし立ち上がらせてくださる。神様が私たちを丸ごと回復させてくださるのです。私は見捨てられたのか、と思う中で神様は私たちを見捨てるのではなく、救うために来られ、御子イエス様に私たちの罪の代償を身代わりに背負わせ、十字架に架けて死なせてまであなたを救われた。これほどに神様は愛されている。この神様の内にこそ希望がある。私たちはどんな時も、最後まで神様に希望を抱こう。神様がそこに光を灯されるから。
さて↑は紀元前586年の出来事、第2次バビロン捕囚の際に起こった出来事になります。↑の前でエレミヤはこの時の出来事を「バビロンの王ネブカデレザルは、その全軍勢を率いてエルサレムに攻めて来て、これを包囲した。ゼデキヤの第十一年、第四の月の九日に、町は破られた。そのとき、バビロンの王のすべての首長たちが入って来て、中央の門に座を占めた。すなわち、ネルガル・サル・エツェル、サムガル・ネブ、ラブ・サリスのサル・セキム、ラブ・マグのネルガル・サル・エツェル、およびバビロンの王の首長の残り全員である。ユダの王ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見て逃げ、夜の間に、王の園の道伝いに、二重の城壁の間の門を通って町を出、アラバへの道に出た。しかし、カルデヤの軍勢は彼らのあとを追い、エリコの草原でゼデキヤに追いつき、彼を捕らえて、ハマテの地のリブラにいるバビロンの王ネブカデレザルのもとに連れ上った。そこで、王は彼に宣告を下した。バビロンの王はリブラで、ゼデキヤの子たちをその目の前で虐殺し、またユダのおもだった人たちもみな虐殺し、ゼデキヤの目をつぶし、彼を青銅の足かせにつないで、バビロンに連れて行った。カルデヤ人は、王宮も民の家も火で焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。侍従長ネブザルアダンは、町に残されていた残りの民と、王に降伏した投降者たちと、そのほかの残されていた民を、バビロンへ捕らえ移した」と、書き残します。ここに神様の愛が、神様が預言されたことが実現され、確かに救われるべきいのちの道として、神様が彼らの前に現されたことを目撃したのです。
そしてエレミヤ自身も神様がネブカデネザルを通して働かれることによってバビロンに連れ去られるところから解放され、自由とされ、国に残された民と一緒に住むことを彼は決めました。この廃墟になったところにあって、神様の回復が成されることを期待して。
一方、野にいた将校たちとその部下たちはみな、バビロンの王がアヒカムの子ゲダルヤをその国の総督にし、彼に、バビロンに捕え移されなかった男、女、子どもたち、国の貧民たちをゆだねたことを聞き、イシュマエル、ヨハナンとヨナタン、セラヤ、ネトファ人エファイの子ら、エザヌヤと、彼らの部下たちは、ミツパにいるゲダルヤのもとに来ました。
どういうことか。このバビロンとイスラエルの戦いにおいて外で戦っていた人たちもいました。彼らは愕然としたでしょう。国に戻ってみたら国は廃墟となっていて、神様の民と言われたこの国が敗北、さらにはバビロンにほとんどのものが捕囚されていた、有能な人たちはこぞって連れ去られていたのです。一体この先どうしたらいいんだ、私たちは一生懸命やってきたのに。彼らはどれだけ絶望に包まれたことでしょう。しかし、ネブカデネザルがゲダルヤに国に残った人たちを委ねたことを聞き、彼のもとに一度集まります。
実はこのアヒカムの子ゲダルヤという人をネブカデネザル王が総督に置いたのには大きな意味があります。このゲダルヤという人ですが、少し前の箇所で、「シャファンの子アヒカムの子」と紹介されています。シャファンは、かつてヨシヤ王が宗教改革を行うきっかけとなった律法の書を発見し、読み上げた人物。彼はエレミヤの預言を神様からの預言として受け取りました。またその子アヒカムはこのヨシヤ王が律法の書を聞いたときにどうしたらいいのか知るために、預言者フルダのところに遣わされたのがアヒカムです。その彼が、エレミヤが神の宮で預言を行ない、それで祭司と預言者、民が彼を殺そうとしたけれども、殺されることないように匿った、そしてその彼の息子がゲダルヤです。
神様は、まだこの残された民のために神様に従う人を、神様に信頼する人をネブカデネザル王を通しておいたのです。残された民は、また戦地から帰ってきた将校たち、ネタヌヤの子イシュマエル、カレアハの子らヨハナンとヨナタン、タヌフメテの子セラヤ、ネトファ人エファイの子ら、マアカ人の子エザヌヤと、彼らの部下たちのために、神様は確かな希望を置かれていたのです。残された民が、もう一度回復するために、神様は彼らを見捨てていなかったのです。
そのゲダルヤは「カルデヤ人に仕えることを恐れてはならない。この国に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたはしあわせになる。私も、このように、ミツパに住んで、私たちのところに来るカルデヤ人の前に立とう。あなたがたも、ぶどう酒、夏のくだもの、油を集めて、自分の器に納め、あなたがたの取った町々に住むがよい」と彼らに言います。バビロンの王に仕える、というのは神様がエレミヤを通して語っていたことと同じです。彼は「神様が」幸せにして下さる事を信じた、この神様がこの地を憐れみ、覚えてくださっていることを知り、こう訴えるのです。カルデヤ人に、つまりバビロンですね、この地にいても、上に立つ者のために祈り、仕え、その中で神様の愛が流れていく事で、神様にある全てのよきものが収穫できるんだ、と。何もないと思っていないで、今自分の手に持っている「ぶどう酒、夏のくだもの、油」がある、これを取って器に納め各町々に行くように、と。神様がこれらを今あなたの手に備えてくださった、その神様がいる、この神様に期待しようではないか、と。
実際彼らは多く集め、これを配給してたがいに分かち合えるほどのものを得たのです。もう何も残っていない、と思う中にあって神様は確かにそこにおられ、収穫を得させ、また彼らの内に幸せをもたらして下さる。どんなに世の中が変わっても神様の愛は変わらない、神様の蔵には尽きることのない豊かな作物、全ての恵みが溢れているのです。求める先は神様、この神様の内にこそ私たちは喜び、平安を得、また幸せに神様がしてくださるのです。目の前の現実を見るのではなく、神様を見よう、神様が驚くべきことを見せてくださるから。あなたの器を、あなた自身を、あなたの魂を神様ご自身でいっぱいにしてくださるから。
しかし残念ながらこのゲダルヤを暗殺しようとたくらむアモン人が出てきます。これについては明日、さらに詳しく見ますが、↑のようにヨハナンはゲダルヤに、彼が命を狙われていることを告げ、これを治めてくるからと伝えるも、ゲダルヤはこれに耳を傾けず、結果打ち倒されます。
同じように私たちを確かに現実苦しめ、私たちに襲い掛かる様々な事も時にはあります。そのような時、現実を見て思い悩むのではなく、私たちはだからこそ神様に心を定めよう、私たちの魂を真の平安で満たして下さる神様が、現実ではなく神様が何を見せ、何を仰られるのか、これに心を定め委ねましょう。他の何ものでもない、神様がいるではありませんか。
神様はあなたの魂を救うために、あなた自身を救うために、御子イエス様のいのちをあなたの重荷を、痛みを、何より罪も一切身代わりに背負われ、十字架に架けられ、身代わりに罰せられ、死なれたではありませんか。そこまでして神様はあなたを救い出そうとされたのです。あなたを罪の呪い、サタンの手から取り戻すために、神様は御子イエス様のいのちさえ惜しまないほどにあなたを愛された、その神様の愛がイエス様の十字架によってあらわされたのです。もうあなたは神様の御手の内にある、イエス様の復活と共に、私たちがイエス様のこのアドバイス、といいますか、あなたが滅びることがないようにとあなたの罪の身代わりにそのいのちを差し出された、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る時、罪赦され、私たちもまたこのイエス様の復活の恵みに与らせていただき、神様の子としていただけるのです。
この神様の究極の愛が、恵みが今日あなたを覆っている、あなたの魂の内に注がれている。これは本物、↑のイシュマエルは神様のこの恵みが気に食わず、立ち向かい、せっかくの恵みを捨ててしまったのです。しかし私たちはそうであってはいけない。私たちの思いを一切神様に委ね、この平安、希望の源なる神様に今日、立ち返ろうではありませんか。ある時は神様に聴く、ある時は聞かない、ではなくいつも神様の御もとに行き、神様に私たちの器を満たしていただこうではありませんか。イエス様にあって今日あなたに収穫してくださっている一つ一つの恵みによって、これを食べさせていただき私たちは今日生かされている。どんな状況にあろうとも、この神様が注いでくださっている恵み、平穏の内に留まり生きたいものです。