―ごはんって食べないと意味がなくないですか?― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第五年、第九の月、エルサレムのすべての民と、ユダの町々からエルサレムに来ているすべての民に、主の前での断食が布告された。そのとき、バルクは、主の宮の、書記シャファンの子ゲマルヤの部屋で、―その部屋は主の宮の新しい門の入口にある上の庭にあった―すべての民に聞こえるように、その書物からエレミヤのことばを読んだ。シャファンの子ゲマルヤの子ミカヤは、その書物にあるすべての主のことばを聞き、王宮の、書記の部屋に下ったが、ちょうど、そこには、すべての首長たちがすわっていた。すなわち書記エリシャマ、シェマヤの子デラヤ、アクボルの子エルナタン、シャファンの子ゲマルヤ、ハナヌヤの子ゼデキヤ、およびすべての首長たちである。ミカヤは、バルクがあの巻き物を民に読んで聞かせたときに聞いたすべてのことばを彼らに告げた。すべての首長たちは、バルクのもとにクシの子シェレムヤの子ネタヌヤの子エフディを遣わして言わせた。『あなたが民に読んで聞かせたあの巻き物、あれを手に持って来なさい。』そこで、ネリヤの子バルクは、巻き物を手に持って彼らのところに入って来た。彼らはバルクに言った。『さあ、すわって、私たちにそれを読んで聞かせてくれ。』そこで、バルクは彼らに読んで聞かせた。彼らがそのすべてのことばを聞いたとき、みな互いに恐れ、バルクに言った。『私たちは、これらのことばをみな、必ず王に告げなければならない。』彼らはバルクに尋ねて言った。『さあ、どのようにして、あなたはこれらのことばをみな、彼の口から書きとったのか、私たちに教えてくれ。』バルクは彼らに言った。『エレミヤがこれらすべてのことばを私に口述し、私が墨でこの巻き物に書きしるしました。』すると、首長たちはバルクに言った。『行って、あなたも、エレミヤも身を隠しなさい。だれにも、あなたがたがどこにいるか知られないように。』彼らは巻き物を書記エリシャマの部屋に置き、庭の王のところに行ってこのすべての事を王に報告した。」

エレミヤ書36章9-20節

 

食べず嫌いってあるじゃないですか。私は小さなころの経験で精神的に食べられなくなったものも多いのですが、食べず嫌いと言える食べ物はあり、大人になってから食べられるようになったものもあります。食べ物って食べてみないと分からないと言いますか、食べないと意味がないですよね。今、令和の米騒動なんて言われてますけど、お供え物として使っていたお米とかがある意味でもったいなくも感じる。食べて味わってこそ意味がある。お供えをしてもそれは答えてくれない、でも食物も、恵みも、すべて与えてくださる神様があなたを力づけ、栄養を与え、恵みに満ち溢れさせて降り、生かして下さるのです。その味をもって喜ばせてくださるのです。神様は御子イエス様のいのちとともに全てを私たちに与えてくださっている、私たちはこの神様のくださっている一つ一つをえり好みするのではなく味わおう。そして神様のすばらしさにまた生かされ歩もうではありませんか。

 

さて、↑はバビロン捕囚より約20年程前、エホヤキム王の時代に神様が告げられた言葉になります。そんなある日神様はエレミヤに、「あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ。ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる」と語られエレミヤはこれを書きしるし、バルクという人にこれを外に伝えるように託します。

 

↑の冒頭を見ると、どうもエレミヤは神様に語られたとしから1年くらいたっているので、それくらいかけてエレミヤは神様が語られた預言を、羊皮紙に全て書いていったと思われます。それがこのエレミヤ書なのでしょう。ただエレミヤも幽閉されている中で絶望せずに書き続けた、というのは本当にすごいと思います。人はつらい時に、どうしても神様を疑いたくなります。何で神様は助けてくれないの?なぜこの状況を変えてくれないの?と思う方が多いでしょう。神様のことを信じていない人でも、同じようなことを考ます。

 

ただエレミヤは違いました。一体どうなるんだろう、これだけ神様のことばを伝えても人々は変わらず、かえって自分は捕らえられてしまっている。しかし彼は神様を疑わなかったのです。1年間、彼は神様のことばを書くのをやめませんでした。今の時代のように間違ったら消しゴムで消す、ないしパソコンやスマホのように間違えたら簡単に直せばいい、というものではありません。間違えたら1からやり直さなければいけない、それでも彼はこの神様のことばは真実なんだ、と書くのをやめませんでした。

 

彼は聴いてすぐ書いたわけではなく、これまで語られていたことを思い起こしながら書かなければなりません。あれはこうだったよな、と書き換える事や、いやこんなことを神様は言っていたけど現実はそうではないよな、と削除したりすることもありませんでした。もう疲れたからやめる、という事もありませんでした。このエレミヤ書をこれまで見てきてわかる通り、神様はこのエホヤキム王の後の時代もエレミヤに語りかけ、励ましているように、神様のエレミヤへのかかわりは終わっていない、今幽閉されていようとも、神様は彼とともにあったのです。今も生きている、真実なる神様に彼は期待し、神様の語られるまま書き記し、思い起こしながら神様に感謝し続けた、神様がこの先に成し遂げてくださることに期待して。

 

イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます」と仰られました。律法、預言者、どちらも神様の語られた言葉です。これはどんなに人の目から見たら小さなものでも必ず成就される、と。ヘブル語では特にその点があるのとないのとで意味が変わる言葉もあるのですが、神様は状況や何かでごめん、やっぱりできない、とか約束を変えるような方ではないのです。この約束はやっぱりやめようと、その一点一画を取り除くことは天地が滅びようともない、必ず果たすよ、と約束されています。

 

それは確かに起こってみないと分からないこともあるでしょう。しかし、それでもそれを成就される神様がおられる、もしかしたあるかもしれない、ではなく、語られたことを変えることなく果たされる神様が、エレミヤを、また私たちを今日支えてくださっている、共におられるのです。私たちの人生は私たちの手で握りしめてもどうにもならない、しかし私たちを造られ、私たちを愛し支え、慰めはげまし、力づけてくださる方が今日あなたと共におられ導かれるのです。そのイエス様の約束は、その御力は、何かによって閉じ込めることはできません。まあかたくなに拒否して逆の道を選ぶと、悲しい結果をもたらすこともあるかもしれませんが、それは自分の自由意志で選んだ結果。しかし神様は悲しい結果ではなく、神様のいのちの内に、とこしえに続く神様の恵みに導きたい、だから今日も語られる、どんなに状況が阻もうとしても、イエス様の愛からあなたを引き離すことができるものなどないのです。私たちは世の中の状況や周りの意見に耳を傾けて、肝心の神様のことばを、愛を味わっていますか?食べていますか?私はこう思う、神様が言っていることは違うのではないか、と捻じ曲げたりしていませんか?

 

↑でその巻物が読まれる前に、エホヤキムは断食を布告します。もしかしたら断食をしたらネブカデネザルの脅威が去るかもしれない、と期待していたのかもしれません。しかし彼は本当の断食、罪を断つ、神様に立ち返り、神様の恵みを、言葉を食べるべきなのにそれをしていなかった。その食べるべき神様のみことばが今届けられようとしていたのです。

 

このエレミヤの巻物、神様からのことばを聞いた「すべての首長たちは、バルクのもとにクシの子シェレムヤの子ネタヌヤの子エフディを遣わして言わせた。『あなたが民に読んで聞かせたあの巻き物、あれを手に持って来なさい。』そこで、ネリヤの子バルクは、巻き物を手に持って彼らのところに入って来た。彼らはバルクに言った。『さあ、すわって、私たちにそれを読んで聞かせてくれ。』そこで、バルクは彼らに読んで聞かせた。彼らがそのすべてのことばを聞いたとき、みな互いに恐れ、バルクに言った。『私たちは、これらのことばをみな、必ず王に告げなければならない。』彼らはバルクに尋ねて言った。『さあ、どのようにして、あなたはこれらのことばをみな、彼の口から書きとったのか、私たちに教えてくれ。』バルクは彼らに言った。『エレミヤがこれらすべてのことばを私に口述し、私が墨でこの巻き物に書きしるしました。』…」ということがありました。

 

首長たちはうわさを聞いて自分たちも聞いてみたい、と思いこれを聞きます。そして今食べるべきは、世の罪や楽しみ、思い煩いといったものではない、今彼らが、私たちが食べるべきはこの神様のことば、神様ご自身のくださる一つ一つの恵みなんだ、と気づかされるのです。そして王にこれを知らせ、神様の憐れみを求めるべきと王のもとに行きます。このように神様のことばは人々を、人を、私たち自身を変え、生かす力があります。神様を信じて何になる、聖書を読んで何になる、ではなくそれを変えてくださるのは神様なのです。王に届けて何になる、ではなくそれでも彼が悔い改めるかもしれない、と最後までその愛を注ぎ続けたのです。↑の前でエレミヤに神様のことばを書き起こすよう命じた際、「ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる」と仰られたように、悔い改める人も出た、神様は願わくば彼らが悔い改めて罪の赦しを受け、神様の救い、恵みに生きる事だったのです。

 

神様は私たちを見捨てることなく、神の御子イエス様を遣わされ、私たちの間に愛を現されました。私たちを見捨てることはできた、しかしそれをなさらずに、その愛を惜しむことなく注がれた。神様はそれだけではなく私たちを全く新しくする、罪人から神様の子へとかえるため、私たちの罪を身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架に架けられ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての罪を赦し、神様の子としてくださるのです。

 

神様はあなたの内に一点一画も欠けることのない愛を、惜しみなく注がれました。あなたの魂が、あなたのいのちが、世の思い煩いや罪によってかけるのではなく、本当の神様の恵みに、完全な愛によって生きる事ができるようすべてを捧げつくして下さった、そのイエス様のいのちにあって今日私たちは生きているのです。今日もあなたにその愛は届き、あなたの内に神様の歴史が、愛が刻まれています。今日私たちはこの神様に立ち返ろうではありませんか。そしてこの神様の憐れみを受け、本物の恵みに生かされ歩ませていただこうではありませんか。他の何者打ち砕くことも、塗り替えることもできない神様の大いなる愛が今日もあなたを覆う。何よりこの神様の愛が溢れることを願い、祈り、また証し、愛をもって仕えるものでありたいものです。