「『…私たちの父祖たちのためには、荒野にあかしの幕屋がありました。それは、見たとおりの形に造れとモーセに言われた方の命令どおりに、造られていました。私たちの父祖たちは、この幕屋を次々に受け継いで、神が彼らの前から異邦人を追い払い、その領土を取らせてくださったときには、ヨシュアとともにそれを運び入れ、ついにダビデの時代となりました。ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの神のために御住まいを得たいと願い求めました。けれども、神のために家を建てたのはソロモンでした。しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。【主は言われる。天はわたしの王座、地はわたしの足の足台である。あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか。わたしの休む所とは、どこか。わたしの手が、これらのものをみな、造ったのではないか。】…』」
使徒の働き7章44-50節
神社とかパワースポットとか見ていると、神的な何かは会いに行かなければ会えない、願いはかなえてもらえない、そんな感じがしますが、それが修行的な感じなんでしょうかね。苦労して会えたから、みたいな。でも、本当に会えてますか?いないでしょ?そして何かを得たかと言われた絵らえるわけでもなく、なんとなく精神的に得た「気がする」程度。ただ、神様はそんな遠い関係ではなく、最も近しい関係となってくださるため、御子イエス様を人として生まれさせてくださった、そこまでして会いに来てくださり、あなたと永遠に住まうため、罪のどん底、死から引き上げるためにいのちさえ惜しまなかった。あなたはイエス様を求めていますか?
さて、↑は神の御子イエス様が私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架で罰せられ死なれ、3日目によみがえられた後、イエス様の昇天後、約束されていた新しい助け主なる聖霊様が降臨され、教会が誕生したころの話になります。聖霊様の働きによって多くの人たちがイエス様の救いを信じ受け入れ、その数は日ごとに増しています。ただこれを良く思わない宗教家たちが若手のホープ、ステパノを偽証によって逮捕します。その時ステパノは聖霊様に満たされ、神様がいかに彼ら、私たちを憐れまれ、愛し、働かれてきたのか語り始めるのでした。↑の少し前からはモーセの時代について言及をし始めています。神様がモーセを通して彼らをエジプトから救い出した、神様は彼らを時がたっても見捨てていなかった、と。ただ彼らは途中モーセがいつまでも帰ってこない、自分たちの思う時に思うことをしない神などいらない、と金の子牛像を造らせ、これを拝むという大事件が起こり、一部のイスラエルの民が討ち滅ぼされることとなるのでした。
神様は実はこの時モーセから新しい民族を起こすようなことを仰られていたのですが、モーセの執り成しもあり思い直して下さるのですが、神様は幕屋というものを作るように命じられます(最初にモーセが山から下りてくるのが遅れた理由の一つはここにありました)。神様はその時、「彼らがわたし(神様)のために聖所を造るなら、わたし(神様)は彼らの中に住む」と約束されます。神様はどこか遠くにいるのではなく、私たちの内に住まおうとして下さったのです。
この幕屋作成の話は、↑の前で分かち合いました金の子牛事件によって一度中断されます。しかし神様はそれだけの事件がありながら見捨てることなく、そのまま幕屋製作を赦され、その作成方法を導いていきます。神様は自分の住まいを造れ、なにか絢爛豪華なものを造れと言ったわけではなく、その本質は神様が彼らの中心に住まわれ、その恵みを神様から彼らの人生、命、歩みすべての内にその愛を溢れ流れ、満ち溢れさせてくださる、その神様をあなたは求めますか?ということをその制作において問われたわけです。彼らが金の子牛事件という大きな問題を起こした、もう私は住まわないから勝手にすればいい、と見放すのではなく、神様はそれでも彼らのうちに立つ、住まわれ、彼らの神様であり続けて下さったのです。中断されることのない、永遠の愛に神様は導かれていた、永遠のいのちへと招いてくださっていたのでした。
幕屋の細かい話については、私のブログの出エジプト記の中で以前分かち合っているので、よければ読んでいただければと思うのですが、それは神様の一時の考えではなく、いつも私たちを神様ご自身の内に招いてくださっている、神様が中心に住まわれている本物のいのちに。それは昔も今も変わりません。
↑で「私たちの父祖たちのためには、荒野にあかしの幕屋がありました。それは、見たとおりの形に造れとモーセに言われた方の命令どおりに、造られていました。私たちの父祖たちは、この幕屋を次々に受け継いで、神が彼らの前から異邦人を追い払い、その領土を取らせてくださったときには、ヨシュアとともにそれを運び入れ…」とステパノは話していますが、ただ形だけの関係があったのではなく、確かに神様が彼らを苦しめる異邦人を追い出し、また彼らに与えると約束されていた地を与えてくださった、その約束の地を神様の恵みという乳と蜜を溢れ流れさせ、満ち溢れさせてくださっていた、荒れ地となった私たちの人生に、いのちのうちに神様は住まいを設けられ、変えてくださる、変えてくださったのです。私たちの古い痛み、支配する偽の神々、偶像、何より罪を運び出し、住まわんとされたのです。新しくしようと。
じゃあ私たちは幕屋を同じように建てればいいの?いえ、そこに本質はありません。後の時代、↑で触れられているように、ダビデは神様の神殿を建てようと思いましたが、彼は血を流し過ぎたなど、色々な事があり、彼が神殿を建てることは赦されませんでしたが、じゃあ神様はダビデの内におられなかったのか?と言われたらそうではありません。むしろ神殿などたてなくとも、彼は神様を自分の生涯にお迎えした、いや神様の招きに応じて神様の内にいつも住まわせていただいていた、その中で神様の愛はまさに溢れ流れたのです。
ステパノは「いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。『主は言われる。天はわたしの王座、地はわたしの足の足台である。あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか。わたしの休む所とは、どこか。わたしの手が、これらのものをみな、造ったのではないか。』」と言いますが、人の手で作ったもの、に住まわれるのではなく神様ご自身がその御住まいを置いてくださる、私たちが神様を求める、神様が住まわって下さる事を願う時、神様ご自身が住まわれるのです。神様の住まいを私たちが作るというよりも、人の価値観の中に、この中で神様、私を助けてね、というのではなく、神様の造られた、神様が与えてくださったいのちの内に入っていくとき、私たちは生きたものとなるのです。神様が私たちをそのいのちで包み、私たちのいのちを本物に作り変えてくださるのです。
ステパノはなぜこの幕屋・神殿の話を持ち出したのか。それはイエス様が私たちの内に住まおうとされたことをまさにここで訴えているのです。本来私たちは神様から離れてしまい、好き勝手に生きてきたわけですから、神様の御住まいに住まわせていただくなんて赦されないはずだったのです。しかし、神様はそれでも私たちを見捨てられず、私たちの傷つき、汚れてしまったこの住まい、命をもう一度聖め、新しくするため、この古い痛み、傷、何より罪一切を御子イエス様に背負わせ、十字架に架けられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる。復活のイエス様があなたの内に住まい、そのうちにこの命までかけられた愛をもってあなたを今日生かされるのです。永遠の裁き、死が私たちの住まいとなるのではなく、神様の御住まいに今日私たちは住まわせていただけるのです。
イエス様に、私の内に住んでください、というのはそれはもちろんいいのですが、都合のいい時だけ住んでください、後は関わらないでください、というものではなく、私たちはイエス様を主とし、このイエス様が与えてくださっている一日一日、いつもイエス様を求め歩みたいものです。イエス様が与えてくださったいのちの内に、永遠のいのちの内に、私たちも住まわせていただき、歩みたいものです。神様の恵みが溢れる、神様が祝福された、御子イエス様のいのちを持ってまで与えてくださったこの命の内を、もう汚すことなく、歩もうではありませんか。命をかけて愛されたイエス様が今日あなたの傍におられるから。