「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『わたしが彼らの繁栄を元どおりにするとき、彼らは再び次のことばを、ユダの国とその町々で語ろう。【義の住みか、聖なる山よ。主があなたを祝福されるように。】ユダと、そのすべての町の者は、そこに住み、農夫も、群れを連れて旅する者も、そこに住む。わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満たすからだ。―ここで、私は目ざめて、見渡した。私の眠りはここちよかった。―見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。―主の御告げ―その日には、彼らはもう、【父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く】とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。…』」
エレミヤ書31章23-30節
ここ数年は体の状態からあまりいけないのですが、20年ちょっと前は仕事帰り、週に2回くらい温泉に行っていました。いや、安いところですよ?それこそ、安いお弁当くらいの値段…教会の働きにちょうどつきはじめていたころで、その帰り道、という事で、聖書に出てくるある温泉街の話を思い出しながら温泉に浸かっていた記憶があります。温泉っていいですよね。いやされるというかなんというか。そこに入っている成分とかいろんな要素があるとは思いますが。ところで、イエス様。イエス様の内にはすべてがあります。他の何かに比べることはできません。温泉のように場所によって成分や効用が違うことはない、どこか遠くまで行かなければいけないわけでもなく、すぐあなたの側に来られた、このイエス様があなたの魂を癒そうと招かれているのです。あなたの芯まで、魂の底まで癒して下さる。え?温泉には観光も必要?大丈夫です、イエス様が癒し、イエス様と共に歩む新しい命は、驚くべき神様の恵みが広がり楽しませてくださりますから。今日イエス様のもとに行こう、イエス様があなたを休ませ、癒し、また立ち上がらせてくださり、共に歩んでくださるから。
さて、↑はおおよそBC586年頃、イスラエル・南ユダの民が完全にバビロンに捕囚された後、ネブカデネザルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、長老たちで生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、およびすべての民に、預言者エレミヤは、エルサレムから手紙を送ります。神様は彼らに、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と語られ、本物の神様を求め続けよう、神様は彼らの、あなたの声を聞き、神様の恵みを見い出させて下さる、神様の恵みが溢れる、繁栄が豊かに広がる、勝利の日が必ず来る、と語られました。今、だけではなくとこしえに神様の御手がともにあり、彼らを導く、と。永遠の愛をもってあなたの直し難い傷を癒し、再建、あるべきあなたへと回復させる、その恵みを注ぐ、涙を喜びの歌に変える、神様が彼らに、また私たちの内に新しいことをされる、創られる、と語られるのでした。
なお神様はエレミヤを通して「わたしが彼らの繁栄を元どおりにするとき、彼らは再び次のことばを、ユダの国とその町々で語ろう。『義の住みか、聖なる山よ。主があなたを祝福されるように。』」と語られます。
ここで「わたしが」とありますが、これは神様が、です。どこかの偉い人とか有名人とかではなく、神様が、です。神様から離れ好き勝手に離れ歩んでいた、結局バビロンに捕囚され、神様は見捨てたのではなく、むしろあわれまれ、その御手を伸ばされ、バビロン捕囚解放までの70年の間も、見捨てることなく導かれてきたことはまさに神様の憐れみ。まあ帰ってきたければ帰ってくれば、というような感じで軽くあしらう、帰ってきても誰あなた?みたいな扱いをされるわけでもなく、神様は「繁栄を元どおりに」される、というのです。
それってどの程度?と思う方もいるかもしれませんが、しょせんは変わらない、苦労していた頃に変わりはない、と考える人もいるでしょう。でもそうではないのです。神様が言う繁栄、というのは以前も申し上げましたが、神様がそこにおられるからこそ繁栄する、つまり神様ご自身が私たちを繁栄させてくださる、そのあるべき姿に回復させてくださる、ということなのです。そのあるべき姿というのは、神様が私たちにご自身のイメージに似せて、神様が最高の思いをもって造られた、その御手をもってつくられた、神様の霊を吹き込まれた時の、最初のあなたに、です。神様が共にいる、神様が満ち満ちる、そのあなたに神様が回復させてくださるのです。神様が、「祝福」を約束されるのです。「義の住みか」といいますが、神様の義が、いや神様ご自身が住まわれ、神様の義がそこに住まわれる、現わされるのです。その時起こることはいかばかりか。世の中が何かをもたらす、与える影響ではなく、神様がもたらし、影響されるのですよ?これほど楽しみなことはないじゃないですか。誰かがあなたの内に住み着いて「支配する」のではなく、神様があなたの内に住まわれ、治めてくださる、その義によってすべ治め守られるのです。私たちは神様にどれだけ期待していますか?
実際にバビロン捕囚を体験し、そこから帰還した一人の詩人と言いますか、たぶん歴史家でもある人は「主がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。『主は彼らのために大いなることをなされた。』主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。主よ。ネゲブの流れのように、私たちの繁栄を元どおりにしてください。涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る」と詩に残します。詩います。
エレミヤの預言を実際に彼は体験し、涙は喜びに変えられた、それほどの大いなることが、捕囚中も含め、捕囚後もあったと。彼らは喜びで満たされ、夢を見ているような気分、いやその夢のような状態を神様が現実にしてくださったのです。神様のなさることは夢ではなく、現実です。
エレミヤはここで「ユダと、そのすべての町の者は、そこに住み、農夫も、群れを連れて旅する者も、そこに住む。わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満たすからだ。―ここで、私は目ざめて、見渡した。私の眠りはここちよかった。―」と語ります。神様が、私たちのつかれた魂を潤し、しぼんだ魂を満たされる、それは心地よい休みと共に、良い目覚めを与えるのです。現実に引き戻されるのではない、神様の現実、神様の住まわれる、神様の義が溢れる命の内に私たちは招かれるのです。
イエス様はある時、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」と語られました。あなたのことは知らない、来るな、と仰るのではなく、心優しくへりくだり、私たちを招かれるのです。イエス様のくびき、イエス様が一緒にあなたと共に進まれる、でもそれは荷物となるのではなく、あなたと共にあなたのくびきを負いながら、神様の恵みがそれを砕きあなたを覆われ、魂に安らぎを与えてくださる、イエス様のこの恵み、愛があなたを覆われるのです。イエス様という義の内に、この安らぎの内に、イエス様のいのちが、愛が溢れるところにあなたを招いてくださっているのです。
イエス様は疲れ果て、閉じこもり、また隠れ、また迷い出た私たちを探しに来られました。捕まえに来たのではなく、私たちが解放され、いのちを得るために。イエス様は、差別されて社会から見捨てられた人たち、こんな罪人など、という人たちに至るまで、世が見捨てるような人たちに出会われました。時に癒され、時に教え悔い改めに導き、本物の神様はどこにいるのだろうと暗闇の中をさまよう人たちも。イエス様から出会いに来てくださったのです。その中には、イエス様が十字架にかかられる時、裏切った弟子たち、イエスなど知らない、と3度にわたり否定し、最後は呪ってまで否定したあのペテロもいました。いったいこの中にイエス様のくださる安らぎにだれが与る権利があるだろう、なんて思う人ばかり。でもそうではない、だからこそ、魂を失い疲れ果て、死にゆくしかない彼ら、私たちだからこそ、イエス様が必要なのです。このイエス様の安らぎが、いのちが必要なのです。どこか遠くにイエス様がいて見守っているだけ、なのではなくイエス様はあなたに生きてほしい、と願い彼らのところに、あなたのところに来られたのです。
神様は↑で「―見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。―主の御告げ―その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ」と仰られます。
神様は、もうこれ以上あなたが世の思い煩いや様々な問題、何より罪、サタンの手によって引き抜かれ、倒され、壊され、滅ぼされることがないよう、あなたを見張られ、と言いますかその御手を伸ばされ続けていた神様が(まあそれでも民はその御手を取らずに滅びの道を進んでいったわけですが)、あなたをもう一度建て直そう、魂を回復させよう、潤そう、と、私たちの負うべき痛み、重荷、何より罪の代償を御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけ、身代わりに罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、この御子イエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として受け入れてくださるのです。もうこの世の何ものもあなたを食い荒らさせない、とあなたをご自身のもとに引き寄せてくださったのです。
神様は「人間の種と家畜の種を蒔く」といいますが、まさにあり得ない種が、御子イエス様のいのちという種が私たちの内に蒔かれました。ありえない話です。適当なものでとりあえずがんばってよ、ではなく、御子イエス様のいのちという種がまかれ、これによって私たちはもう一度立ち上がらせていただけるのです、そしてこのイエス様によって、私たちは豊かな実を結ぶ、いや結ばせていただける、そこに神様の素晴らしい恵みが、愛が溢れ広がるのです。輝くのです。神様の、イエス様のいのちによって建て直されたいのちだからこそ、輝き、あなたの魂は潤されるのです。
イエス様の12弟子の一人だったヨハネは「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです」と語ります。もう罪を働かせてあなたを壊させてはいけません。むしろこのイエス様の種が、いのちが働き溢れることを切に祈ろうではありませんか。そこに本物の癒し、命が溢れるから。