―永遠の愛― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『その時、―主の御告げ―わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。』主はこう仰せられる。『剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ。』主は遠くから、私に現われた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。エフライムの山では見張る者たちが、【さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう】と呼ばわる日が来るからだ。』まことに主はこう仰せられる。『ヤコブのために喜び歌え。国々のかしらのために叫べ。告げ知らせ、賛美して、言え。【主よ。あなたの民を救ってください。イスラエルの残りの者を。】見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中には目の見えない者も足のなえた者も、妊婦も産婦も共にいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る。彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしは彼らを、水の流れのほとりに導き、彼らは平らな道を歩いて、つまずかない。わたしはイスラエルの父となろう。エフライムはわたしの長子だから。』諸国の民よ。主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。『イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る』と。主はヤコブを贖い、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されたからだ。彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、穀物と新しいぶどう酒とオリーブ油と、羊の子、牛の子とに対する主の恵みに喜び輝く。彼らのたましいは潤った園のようになり、もう再び、しぼむことはない。そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも共に楽しむ。『わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。また祭司のたましいを髄で飽かせ、わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。―主の御告げ―』」

エレミヤ書31章1-14節

 

世の中には色んな歌があって、「愛」について歌われているものも多数あります。ただ、それを本当に実行しているの?と言われると、クエスチョンマークがつきます。まあ人はそれぞれ感情があり、なかなか頭でわかっている通りには行かないのが現実か。自分に嫌なことがあれば負の感情を抱く。でもそれを覆う完全な愛、それはたぶん人は持ち合わせない。ただ、神様はあなたを愛しています。永遠の愛をもって。あなたがどれだけ神様から離れようと、何とかあなたに帰ってきてほしい、いのちを得てほしい、とご自分の最も大切な御子イエス様のいのちをあなたの身代わりに差し出し、死なせるほどにあなたを愛された。この愛はとこしえに変わりません。私たちは永遠に愛される神様と永久に歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、↑はおおよそBC586年頃、イスラエル・南ユダの民が完全にバビロンに捕囚された後、ネブカデネザルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、長老たちで生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、およびすべての民に、預言者エレミヤは、エルサレムから手紙を送ります。神様は彼らに、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と語られ、本物の神様を求め続けよう、神様は彼らの、あなたの声を聞き、神様の恵みを見い出させて下さる、神様の恵みが溢れる、繁栄が豊かに広がる、勝利の日が必ず来る、と語られました。今、だけではなくとこしえに神様の御手がともにあり、彼らを導く、と。だからこの神様に帰ろうと訴えてこられたわけです。あなたの直し難い傷を癒し、再建、あるべきあなたへと回復させる、その恵みを注ぐ、と。

 

ここまで神様は捕囚からの解放、またすべての部族の帰還など様々語られてきました。その中で、彼らの繁栄が回復していく事を語られていますが、それを実現させるの人の手によるものではありません。これはこれまでも見てきましたが、神様がいるから、本当の意味で繁栄が回復するわけです。神様はここで、「その時、―主の御告げ―わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる」と語られるわけです。

 

神様が、彼らの神様となられる。まあもともと神様は神様なのですが、神様はある一部の部族だけではなく、それこそ、堕落の一途をたどっていた、離散させられていた北イスラエルの神でもある、と仰るのです。あなたの神であられる、と。あなたなど知らない、と見捨てるのではなく、神様はそれでも彼らの、あなたの神であり続けたい、と彼らを招いておられるのです。彼らを、あなたを、わたしの民として招くんだ、と神様ご自身がはっきりと誓われるのです。

 

全ての主役は神様です。神となられる、神様が神様の民として私たちを招かれる。神様が私たちの内に住まわれるとはなんと幸いなことでしょう。神様はあなたをどこか遠くにつき離すのではなく、招いておられるのです。遠く離れた、離散されている北イスラエルに対しても、それでもその地においても神様は彼らの神様であることを忘れないで、救いはここにあるんだ、と神様ご自身が彼らに近づき、その愛を注がれるのです。他でもない神様が、あなたの神様となってくださる、この恵みに私たちはどれだけ感謝しているでしょうか。他の誰かに任せるのではなく、神様ご自身の内に神様があなたを招かれ、その愛を、恵みを、豊かに注がれるのです。そこにどれだけの繁栄、いのちがあることか。あなたの神は誰ですか?神様を退けて別な何かを神にして、それに支配され、命を失っていませんか?

 

神様はさらに「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ」と仰っています。これはなかなか難しい話なのですが、やがて来る終わりの時の大患難時代についての話になります。どうもこれはその時、彼らの多くは殺されることになる、「三分の二」は断たれてしまうほどだそうです。さらに「荒野で恵みを得た」とありますが、これは反キリストが神殿で自分が神であると宣言してから、ユダヤ地方から逃げた、そこでイエス様は戻ってこられ、完全な勝利をもたらされる、彼らを救い、平安を、本当の休息を与えてくださる、というのです。

 

神様から離れ好き勝手にしていた彼らですよ?なぜそこまで?と思われるかもしれない。でも、それでも神様は私たちが滅びるのではなく、生きてほしいのです。何もない、絶望しかない、いったいどうしたらいいんだ、しかしそこに神様はおられるのです。神様はある時だけ神様をされるのではない、とこしえに神様であられるのです。神様はご自身の内にかくまおうと私たちを招いてくださっているのです、全ての民、あなたにも。

 

イエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と仰られました。行っても、お前のことなど知らない、と言われたらどうにもなりません。しかしイエス様ご自身があなたを招かれあなたを休ませる、魂に安らぎをもたらして下さるのです。イエス様こそわが巌、わが砦、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神です。わが盾、わが救いの角、わがやぐらです。この方に身を避けるなら、私たちは剣を免れて生き残ることかでできます。どんな荒野のような場所にいようと、あなたに襲い掛かる世の様々な剣などが襲い掛かろうとも、その荒野にイエス様も共におられ、休みを与えてくださるのです。

 

神様は「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう』と呼ばわる日が来るからだ」と仰ります。

 

神様の愛は永遠の愛です。ある時気が変わって愛するのをやめるとか、そういう方ではない。もし、神様の愛を失ったら、私たちは誰に頼って生きたらいいのだろう?私たちは神様に愛されているから生きていられる。希望があるのです。人の愛は限界があります。時に態度を翻されることもあるでしょう。私も何度もそれを経験しました。兄弟愛、隣人愛、色々言われますが。それは相手を否定したいというわけではなく、人は不完全だから完全な愛はもてない、完全な愛を持っておられるのは神様だけなのです。

 

どんなに人が見捨てようと、離れていこうと、神様はそれでも愛を向けておられる。誠実を尽くし続けて下さる、それはある時だけではない、とこしえに、私たちが良い時も悪い時も、それでも私たちに帰ってきてほしい、とその御手を伸ばされ、時には直接、先ほどの終わりの時の話ではありませんが一体こんな中に神はどこにいるんだ、と思う中に、神様はおられる、その神様を私たちがそれでも求めるかどうか、永遠にあなたを愛される神様を私たちが永遠に求めるかそれが私たちに問われているのです。神様はその御手を広げて、私たちを招いてくださる、神様ご自身が私たちの内に住まおうとしてくださっている、その永遠の愛を持つ神様を私たちはどれだけ求めているでしょうか。

 

結婚式でよく開かれる聖書の箇所で、「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です」というものがありますね。人の希望や愛はいつかは尽き得ます。しかし、神様がとこしえにおられるからこそ、私たちは信仰と言いますか、神様に信頼できる、神様がいつまでもおられる、その神様の愛が私たちに注がれているのです。

 

神様はその究極のかたちとして、御子イエス様を私たちに与えてくださりました。神であられるのに、そのありようを捨てられないとは考えず、罪を犯さない点を除いては完全に人となって生まれて来てくださりました。人と同じように、傷つけば痛みもあるし血も流れる。お腹もすけば喉だって渇かれる。イエス様はどこか遠い存在としてではなく、私たちと同じような、全く近い存在となってこられ、その愛を現されたのです。時に罵られ、裏切られ、殺されそうになっても、イエス様は愛することをやめませんでした。そして最後は私たちを見捨てるのではなく、私たちの重荷も、痛みも、何より罪も一切身代わりに背負われ、十字架に架けられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。

 

無条件の愛。まずイエス様は最初に愛を示された、愛された、いのちを差し出してでもあなたを愛することを選ばれた、そこまでして、あなたを愛することを選ばれ、あなたが滅びるのではなく、永遠のいのちを得る、持つことを何より願われたのです。あなたを、神様から離れすべてを失ったなあなたをもう一度愛され、建て直されるのです。神様はあなたの神となり、その民・子として下さったのです。このいつまでも残る究極の愛が今日も命をもって取り戻されたイエス様があなたに注いでくださっている、溢れさせてくださっています。あなたは今日、どれだけこのイエス様の愛を求めていますか?