―怒りと悲しみ― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…あなたは彼らにこのすべてのことばを預言して、言え。【主は高い所から叫び、その聖なる御住まいから声をあげられる。その牧場に向かって大声で叫び、酒ぶねを踏む者のように、地の全住民に向かって叫び声をあげられる。その騒ぎは地の果てまでも響き渡る。主が諸国の民と争い、すべての者をさばき、悪者どもを剣に渡されるからだ。―主の御告げ―万軍の主はこう仰せられる。見よ。わざわいが国から国へと移り行き、大暴風が地の果てから起こる。その日、主に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、彼らはいたみ悲しまれることなく、集められることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる。】』牧者たちよ。泣きわめけ。群れのあるじたちよ。灰の中にころげ回れ。あなたがたがほふられ、あなたがたが散らされる日が来たからだ。あなたがたは美しい雄羊のように倒れる。逃げ場は牧者たちから、のがれ場は群れのあるじたちから消えうせる。聞け。牧者たちの叫び、群れのあるじたちの泣き声を。主が彼らの牧場を荒らしておられるからだ。平和な牧場も、主の燃える怒りによって荒れすたれる。主は、若獅子のように、仮庵を捨てた。主の燃える剣、主の燃える怒りによって、彼らの国が荒れ果てるからだ。」

エレミヤ書25章30-38節

 

私たちの感情には喜怒哀楽と大きく分けることができると思うのですが、時には心が揺さぶられ苦しむこともありますが、ただ感情があるところが人らしいのかな?思考停止する、という事はあっても、感情自体はあるでしょう?現しづらい、という人もいますが、でもある。ロボットではない、生きているんだ。実は神様も感情があるんですよ?どこかの像ではない、神様は生きておられ、喜ぶものとともに喜び、悲しむものと共に悲しんでくださる。その悲しみゆえに、私たちが罪に陥ること、それによって滅びゆくことに怒り、そして、その悲しみゆえに、その怒りを御子イエス様に注がれることで、あなたを救わんとされたのです。私たちは本当の意味で結ばれたいのちの関係、御子イエス様のいのちをもって結ばれた神様とのこの命の関係に生きようではありませんか。神様は今日もあなたの帰りを待っておられるから。

 

さて、↑はヨシヤ王の子、ユダの王エホヤキムの第四年、バビロンの王ネブカデレザルの元年にさかのぼります。この時、エホヤキムの息子エホヤキンはバビロンにすでに連れ去られていました。ヨシヤ王が死んで後、バビロン帝国が台頭してきました。どうもこのネブカデネザルの元年に第1次バビロン捕囚が起こったようで、エホヤキン王を含む多くの有能な人たちが連れ去られていきました。この8年ほど前には、ダニエルという王族の子孫が連れ去られ、彼がバビロンの宦官になることによってこの先バビロンに移された民が支えられることになるのですが、神様はすべて準備万端、という状態にあったのです。そしてこの10年後さらに第2次バビロン捕囚が起こり、イスラエルは今、崩壊の一途をたどっていくのです。

 

その中でエレミヤは、バビロン捕囚が現実として起こることと同時に、70年先にイスラエルの民を解放させることを約束しました。事実バビロンはペルシャに討たれます。神様がペルシャの王、クセルクセス王の霊を動かし、彼は立ち上がり、ついにバビロンは討たれ、イスラエルは解放されるのです。神様は確かに捕囚前から捕囚中、捕囚後に至るまで彼らと共におられた、神様の愛は、言葉は尽きることなく彼らに注がれていたのでした。神様は恵みの杯を注ぎ続けている、しかしイスラエルの民は神様から離れ、罪の杯から飲み、滅びへ向かっていく事を今警告され、神様のいのちの杯を受けよ、立ち返れ、とすべての諸国に向けて訴えるのでした。

 

神様はさらにエレミヤに、↑で「あなたは彼らにこのすべてのことばを預言して、言え。『主は高い所から叫び、その聖なる御住まいから声をあげられる。その牧場に向かって大声で叫び、酒ぶねを踏む者のように、地の全住民に向かって叫び声をあげられる。その騒ぎは地の果てまでも響き渡る。主が諸国の民と争い、すべての者をさばき、悪者どもを剣に渡されるからだ。―主の御告げ―万軍の主はこう仰せられる。見よ。わざわいが国から国へと移り行き、大暴風が地の果てから起こる。その日、主に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、彼らはいたみ悲しまれることなく、集められることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる』」と仰られます。

 

↑の前の箇所では憤りの杯を飲ませる諸国の名前が取りあげられていましたが、まさに神様は諸国の民との戦いのために出てこられることをここで示されています。それこそライオンが牧場にいる獲物を捕りに行くかのように神様は形容され、それを宣言されるのです。この咆哮が届かないところはない、と。そこには、ぶどうを踏めば、ぶどうの汁が出てくるように流血が起こると。神様のこの怒りが暴風のように吹き上げられるというのです。

 

この裁きの宣言を見て、聞いて、皆さんはどう感じるでしょうか。神様は愛の神様なのにどうしてそんなことをされるのですか?と思いますか?私達はたまに間違えるのですが、神様は確かに愛の神様です。しかし義でもあるのです。間違ったことを放置される方ではない、悪を放置される方ではない、神様はこれと戦われるのです。義である神様は同時にやはり愛の神様ゆえに、私たちがこの悪から、罪から、苦しみから、あなたを支配するすべてのものから解放し、真理を持って自由にしようと戦ってくださるのです。私たちは神様が悲しまれることを悲しみとしていますか?神様の喜ばれることを自身の喜びとしていますか?神様が私たちを見捨てるなら、預言なんてしません。預言者を遣わすことなどないでしょう。なんで神様を信頼し歩む預言者を危険にさらしてまで語られるのか。それでも彼らを、私たちを愛しているからです。

 

実はここで触れられている預言について、イエス様の12弟子の一人である、ヨハネはイエス様の啓示を受けて「そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオン(約307.2km)に広がった」とイエス様の見せてくださった終わりの時について記録に残します。

 

先程の愛と義、義と愛の話はそうですが、それでもこれはあまりにつらい話ですよね。しかし、あなたを神様から引き離すものたちの影響はそれほどまでだということが見られるのではないでしょうか。あまりに破滅的で、あなたに本来注がれたはずの神様のいのちを奪う、血を滴らせる。神様が滴らせたいのは血ですか?いえ、あなたへの愛、恵みではありませんか。その神様の愛から私たちはどうして離れていられるでしょうか。駆り集められ、本来神様のもとに招き入れられるはずが、どうして私たちは神様から離れてこのような終わりに向かっていいはずがあるでしょう。その酒ぶねは、都の外、神様の御国から完全に引き離された場所で捨てられる。これほど悲しい話があるでしょうか。

 

だからこそ今神様は語られるのです。↑の前で神様の「憤りの杯」の話が挙げられましたが、憤りは怒りと同時に悲しみも含まれるものという事は昨日紹介した通りです(辞書的にも)。あなたがそうして神様から離れ失われていくことを怒りつつも悲しむゆえに、もう一度神様はその憐れみの杯をもってあなたを招かれているのです。終わりの時、そのような本当に苦しみ、滅びゆく、裁きに向かうことを良しとできないゆえに神様は怒りの杯と共にあわれみの杯を私たちに示されている、今立ち返れ、と訴えるのです。終わりの日に起こる、世界的な裁きの時が来る前に、終わりの時が来る前に、と。

 

そう考えますと、先ほどの獅子の咆哮の意味が変わってきます。神様はあなたをただ脅しかけるように咆哮されているのではない、全世界に向けて、今こそ帰れ、と訴えているのです。その咆哮が届かないところはないことを先ほど見ましたが、まさにあなたに、神様は訴えているのです。神様の牧場に私たちに帰るように。あなたの罪、あなたを神様の恵みから、いのちから引き離すものと戦うために向かってこられているのです。神様は滅びゆく私たちを黙っているのではなく遠くから見ているだけではなく、私たちのために戦ってくださるのです。獅子が襲ってくるから怖い、ではなくあなたの魂を奪う者たちと神様は戦ってくださる、あなたをサタンの手で引き裂かれることがないよう、あなたを世の思い煩いや痛み、何より罪によって引き裂かれることがないように、神様は黙ってみているのではなく戦ってくださるのです。

 

神様が、ですよ?見捨てるためではなく、あなたを救うために戦ってくださる。戦ってくださっているのです。それなのに私たちが神様と戦って何になりますか。↑の前の箇所の罪の杯から私たちはワインを飲んでいる場合ではないんです。神様が踏んでくださった、踏んでくださっているまことのぶどうから造られたいのちの血潮、恵みをいただかなくてどうしますか。

 

神様はエレミヤを通して「牧者たちよ。泣きわめけ。群れのあるじたちよ。灰の中にころげ回れ。あなたがたがほふられ、あなたがたが散らされる日が来たからだ。あなたがたは美しい雄羊のように倒れる。逃げ場は牧者たちから、のがれ場は群れのあるじたちから消えうせる。聞け。牧者たちの叫び、群れのあるじたちの泣き声を。主が彼らの牧場を荒らしておられるからだ。平和な牧場も、主の燃える怒りによって荒れすたれる。主は、若獅子のように、仮庵を捨てた。主の燃える剣、主の燃える怒りによって、彼らの国が荒れ果てるからだ」とさらに語られていますが、私たちはもう灰の中を転げまわっている場合ではありません。あなたの真なる牧者があなたのために、あなたを滅ぼすものから救うために来られたのだから。

 

神様は燃えるその怒りを、↑の前半にあるその暴風を御子イエス様の十字架に集約されたのです。私たちが負っているこの罪から救うため、私たちをサタンの手から、死から取り戻すため、私たちのこの罪の刑罰を御子イエス様に神様は身代わりに負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と神の御子イエス様が叫ばれるほどに、完全に神様から捨てられてまで、あなたを取り戻そうとされたのです。死んで、陰府にくだられてまでもあなたを、死から引き上げようとされたのです。そして3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。屠り場からあなたを神様の宮、家族に戻して下さったのです。あなたのために罪と戦われる獅子イエス様はいのちを持ってまであなたを救われたのです。

 

今十字架からこの獅子の咆哮、叫び声が全地に響き渡っています。あなたにもこの救いは届いているのです。この命がけの愛が今日あなたに向けられています。あなたの身代わりに1600ステディオン(約307.2km)、いや数字に現せないほどに流された、十字架上で流されあなたに届いた、このイエス様の血潮があなたにも向けられあなたをこの命の道へと今日招かれているのです。この血が、愛が、確かな保証となり、あなたを今日も導かれる、このイエス様のいのちによって今日、私たちは生かされているのです。私たちは今日、このイエス様の咆哮を聞いていますか?いのちの叫びを聞いていますか?あなたのためにいのちをもって愛されたイエス様に今こそ帰ろう。命をかけてあなたを愛されたイエス様が導かれるこの道を歩ませていただこう。