「大祭司は、『そのとおりか』と尋ねた。そこでステパノは言った。『兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父アブラハムが、ハランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現われて、【あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け】と言われました。そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、ハランに住みました。そして、父の死後、神は彼をそこから今あなたがたの住んでいるこの地にお移しになりましたが、ここでは、足の踏み場となるだけのものさえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。それでも、子どももなかった彼に対して、この地を彼とその子孫に財産として与えることを約束されたのです。また神は次のようなことを話されました。【彼の子孫は外国に移り住み、四百年間、奴隷にされ、虐待される。】そして、こう言われました。【彼らを奴隷にする国民は、わたしがさばく。その後、彼らはのがれ出て、この所で、わたしを礼拝する。】また神は、アブラハムに割礼の契約をお与えになりました。こうして、彼にイサクが生まれました。彼は八日目にイサクに割礼を施しました。それから、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブに十二人の族長が生まれました。…』」
使徒の働き7章1-8節
心というのはなかなか難しいもので、コントロールするのが難しいところの一つではないか、と思います。だからこそよりどころが必要なのかな、と思うわけです。心と言いますか、私たち自身の。私たちがヘンな方向に進まないためにも。これを守る方が必要。ではそれはどこにあるのか。神様。神様は私たちを造られた、心もすべて造られた、この方が私たちに今日も御目を注がれているのです。私たちは神様に身を委ねて良い。あなたの心だけではない、魂を救うために、あなたの、私たちの重荷、罪、一切をその身に身代わりに御子イエス様に背負わせ死なせた、それほどまでにあなたの魂を取り戻そうとされた神様が今日あなたと共にいるのだから。
さて、↑はAD30年頃の出来事。神の御子イエス様が人となって生まれ、その愛を全うされ、ついには私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架で罰せられ死なれ、3日目によみがえられた後、イエス様の昇天後、約束されていた新しい助け主なる聖霊様が降臨され、教会が誕生したころの話になります。聖霊様の働きによって多くの人たちがイエス様の救いを信じ受け入れて、その数は日ごとに増しています。しかしこれを良く思わない宗教家たちが弟子たちを逮捕したりその触手を伸ばしてきています。そして今、若手のホープ、教会からも支える役を任されるほどのステパノが偽証によって逮捕されるのでした。
ステパノは、なんでそんな偽証で捕まらなければいけないんだ、と逃れようと思えばもしかしたらできたのかもしれない。といいますのも、↑の直前で「議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた」と、聖霊様が彼の内に満ち溢れ、彼の顔は輝いていたのです。この7章でも紹介されますモーセという人も、かつて聖霊様に満ちた時、その顔が輝いたことがありましたから。ある意味では彼を見ていた人たちはそのモーセの出来事を思い出した人もいたかもしれません。神様は、キリスト教徒を迫害する彼ら、迷い出ている彼らに今、語ろうとしておられるのです。
ステパノは聖霊様に導かれ、語り始めます。まずユダヤの民、イスラエルの父祖、アブラハムについて言及し始めます。彼らは律法に違反している、とステパノを訴えたのですが、その律法について、また神様について、そしてその律法の指示していたイエスキリストについて話が展開していくわけですが、まずそのはじめアブラハムから話を始めます。
聖霊様に導かれ、彼は「私たちの父アブラハムが、ハランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現われて、『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け』と言われました。そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、ハランに住みました。そして、父の死後、神は彼をそこから今あなたがたの住んでいるこの地にお移しになりましたが、ここでは、足の踏み場となるだけのものさえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。それでも、子どももなかった彼に対して、この地を彼とその子孫に財産として与えることを約束されたのです。…また神は、アブラハムに割礼の契約をお与えになりました」と語ります。
アブラハムは月の神などの偶像を作る町に住んでいました。神様はそんなアブラハムに目を留めたのです。いや神様は全ての人にその御目は注がれているのですが、神様を求める彼を、偽の神に囲まれたところから連れ出して下さった、神様ご自身の内に招かれたのでした。神様はどこにいるのか、迷っていた彼に、神様が示す地へ行け、と神様ご自身がその道を備えられたのです。
神様の彼への最初の約束は、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」というものでした。
アブラハムはすぐに子孫が急激に増えた、というわけではなく、実際に彼に↑の一番最後で挙げられている「イサク」という子供が与えられるのは、彼が100歳の時です。奥さんも90。普通ならあきらめる、ないし、神様はいないのでは?と思うかもしれない。実際アブラハムは途中神様を疑い、奥さんの提案もあったのですが、奴隷の女性との間に子どもを、と動き、子どもは与えられるも、結果的に彼らを悩ませることになります。その子孫たちの間でさえ。しかし神様はそれでもアブラハムを見捨てることなく100歳の時、ついに子供を与えるのでした。
じゃあ神様はある時だけ助けてくれるのか?何もない時期があるのか?そうではないのです。神様ご自身が共におられること、それこそが最高の財産といいますか恵みなのです、いのちなのです。神様が共におられるからこそ、意味がある、神様があなたにご自身の恵みを注がれるからこそ私たちは生きたものとなるのです。人が作られた時も神様の息吹が吹き込まれた時、初めて人は生きたものとなったでしょう?私たちは神様なしでは生きられないのです。
今ステパノを訴えている宗教家たちは、そもそも神様を求めていますか?と今問われているのです。神様を疑い、神様を訴える私たちに問われるのです。神様を求めているふりをして、実は求めていない宗教家たち、自分たちの利益をもたらす神を求める彼ら、私たち。しかし、神様ご自身を私たちは求めているでしょうか。アブラハムを暗闇から引き上げご自身のもとに引き寄せられた神様は、罪にとらわれる私たちを救い出すため、神様は私たちの罪を御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として受け入れてくださるのです。
そのイエス様の十字架があなた方に示された、救いが示された、ここに永遠のいのちが、救いが、私たちのよりどころ、帰るべき場所があるんだ、と今聖霊様を通してステパノは訴えるのです。騙しごとではない、本物の神様による本物の愛がここに示されたのです。私たちはもう騙しごとにとらわれ、迷っている場合ではないのです。神様を訴えている場合ではないのです。御子イエス様のいのちをかけて招かれたこの救いの道をどうして疑う事ができましょう。今イエス様を通して新しい命の道、永遠のいのちへと私たちは招かれた、今このイエス様が共に歩んでくださっているのです。何を迷う必要がありましょう。今こそ真実なる神様に立ち返り、この命の内を歩ませていただこうではありませんか。イエス様が世の終わりまであなたと共におられ、導かれるから。たとえ困難な時も、変わらずこの神様があなたと共におられるのだから。
