―良いイチジク― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「バビロンの王ネブカデレザルが、エホヤキムの子、ユダの王エコヌヤと、ユダのつかさたちや、職人や、鍛冶屋をエルサレムから捕らえ移し、バビロンに連れて行って後、主は私に示された。見ると、主の宮の前に、二かごのいちじくが置かれている。一つのかごのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものである。そのとき、主が私に、『エレミヤ。あなたは何を見ているのか』と言われたので、私は言った。『いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いのは非常に悪く、悪くて食べられないものです。』すると、私に次のような主のことばがあった。『イスラエルの神、主は、こう仰せられる。この良いいちじくのように、わたしは、この所からカルデヤ人の地に送ったユダの捕囚の民を良いものにしようと思う。わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。しかし、悪くて食べられないあの悪いいちじくのように、―まことに主はこう仰せられる―わたしは、ユダの王ゼデキヤと、そのつかさたち、エルサレムの残りの者と、この国に残されている者、およびエジプトの国に住みついている者とを、このようにする。わたしは彼らを地のすべての王国のおののき、悩みとし、また、わたしが追い散らすすべての所で、そしり、物笑いの種、なぶりもの、のろいとする。わたしは彼らのうちに、剣と、ききんと、疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす。』」

エレミヤ書24章1-10節

 

何か植物や食べ物を育てる時ってこう、美味しくなるよう色々考えて育てますよね。私も野菜を育てたりしてきましたが。でも簡単ではないんですよね、色んな病気になったりするようで、そのために手をかけなければいけません。小さい頃は飢えれば勝手に育つのかな、と思っていましたがそうではなかった。でも、考えてみれば大事な要素として天候が挙げられますよね。何を育てるにしても。その天候は人の手でどうにかできるものではない。結局すべてを神様は育ててくださっている。植物がそうなら、人ならなおのことではありませんか。あなたを造られた神様は、あなたを愛するがゆえに、あなたが命を失わないよう、御子イエス様のいのちを私たちのために与えてくださった、それほどにあなたを愛され、その愛を今日も注がれているのです。私たちは今こそ神様に立ち返り、この愛に生かされ歩もうではありませんか。

 

さて↑は、古代イスラエル王国において北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エホヤキム、そしてエホヤキン王と続き、南ユダ最後の王、ゼデキヤ王と時代は続きます。彼はBC597年に王になり、11年王として統治していましたが、最後の3年間、バビロンの王ネブカデレザルに反逆し、バビロン軍によって包囲され、絶体絶命の時を迎えていました。その中で神様は、彼らに、そして私たちの前に「いのちの道と死の道」を置かれ、神様がどんな時も共におられる、その神様が広げられるいのちの道を歩もう、と招かれます。ただゼデキヤは神様に逆らい、悲しい最期を迎えることとなるのですが。

 

その上で神様のご計画は変わらないことをこれまでの王への預言を呼び起こしながら、神様は「救い主誕生」の預言をされ、私たちに希望を語られます。神様は滅びに向かう私たちを断ち切るのではなく、新しい若枝、正義をなされるイエス様を遣わされることを語られ、私たちを神様の永遠へと導かれる、偽物ではない、本物のいのちへと導かれると約束されます。その与えられる救い主イエス様の誕生、十字架と復活によって遠ざけられてもおかしくない私たちを近しいものへと招かれるのです。私たちが夢見る幻のようなものではない、本物の神様の恵みに、あなたを苦しめる重荷を取り除き、神様のいのちを与えようと招かれているわけです。

 

そうした預言を受けた民たち、王たちはどうなったのか、神様はエレミヤを通してバビロンの王ネブカデレザルが、エホヤキムの子、ユダの王エコヌヤと、ユダのつかさたちや、職人や、鍛冶屋をエルサレムから捕らえ移し、バビロンに連れて行って後、神様はエレミヤに一つのことを示されます。そう、かのバビロン捕囚です。この時に↑の預言、良いイチジクと悪いイチジクの幻を見せ、その救いのご計画を示されるわけですが、これはもう少し時代背景を見ないと見えてきません。

 

まず、このとき何が起こったのか振り返りますと、まずバビロン捕囚は、全部で3回にわたって行われました。一回目はB.C.605年。この時、ネブカデネザルはエルサレムを完全に包囲し南ユダを属国としましたが、陥落させるまではいかず、多くのユダの民を捕虜としてバビロンに連れて行くことにとどまりました。この時、ダニエルと3人の友人たちも捕虜として連れて行かれることになります。バビロン捕囚にあったイスラエルの民を彼らがバビロンの中枢、宦官として置かれていることによってイスラエルの民を執り成し、支えることとなります。この間、民族滅亡を狙う王たちやその臣下たちによってその危機があった中で、神様は彼らを通して救われたのです。時には人となって生まれてこられる前のイエス様が直接来られてまで。

 

話を進めて二回目のバビロン捕囚はB.C.597年です。この時、エゼキエルという預言者もバビロンに捕え移されます。その彼を通して神様は様々な幻を語られ、やがて来る捕囚からの解放、その解放された先で起こる回復の希望、さらに終わりの時に備えられている神様の完全な御国の話、勝利を見せながら、民にこの神様が今彼らを守られている、その希望へ神様が変わらず導くことを示していきます。そして最後に三回目がB.C.586年です。これが最終的な捕囚です。この時、エルサレム神殿は完全に崩壊し、神殿も破壊されます。

 

↑の出来事は、その二回目の捕囚直後の出来事です。このとき、ユダの王、エコヌヤと、ユダの高官たち、鍛冶職人といった技術者たちが、エルサレムから連れて行かれました。国としては力を失っていきます。最後のゼデキヤについては最初の方で振り返ったり、これまでの預言の中でも見てきたように、彼は結局のところ神様に従わず、この神様が示されている救いの方向を疑い、神様がいる場所にいることを拒否し、自分の思いにとどまった結果、バビロンによって最悪のエンディングを迎えることになるのです。一方でエホヤキンは捕囚されていきますが、彼はバビロンの王と共に食事をすることをゆるされ、丁重な扱いを受け、その彼の内に働かれる神様を知ってか、立ち返ったか、彼の孫は神様に信頼し、バビロン捕囚から解放されても実際は国は破壊されつくされた状態に絶望することなく、そこに帰っていき、神様の回復に期待するのでした。

 

普通に考えて目の前に広がるバビロン捕囚は敗北にしか見えない、しかしこの歴史の背後を見てみるとわかるとおり、神様はそこにおられた。神様は見捨てていなかったのです。神様は第2回捕囚時、もう絶望しかない中で「主の宮の前に、二かごのいちじくが置かれている。一つのかごのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものである」という幻をエレミヤに見せます。そのとき、神様がエレミヤに、「エレミヤ。あなたは何を見ているのか」と言われ、エレミヤは「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いのは非常に悪く、悪くて食べられないものです」と答えます。すると、神様はさらに「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。この良いいちじくのように、わたしは、この所からカルデヤ人の地に送ったユダの捕囚の民を良いものにしようと思う。わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである」と語られるのでした。

 

神様は「良いいちじくの実」と「非常に悪いイチジクの実」を見せます。初物と非常に悪いだけではなく食べられないほどのもの。神様は、本来神様から離れ捨て、好き放題やってきた、どんなに神様が救ってもすぐに神様を忘れ、神様を捨てる彼らを捨てることはしようと思えばできたでしょう。それこそ23章で見たように、重荷である私たちを捨てることだってできたでしょう。しかし、神様は今バビロン捕囚中の様子を細かく見たように見捨てることはなかったのです。もう悪くて仕方がないはずの彼らを「良いイチジク」のようにすると、神様はエレミヤに語られるのです。

 

神様は捕囚されていく民を見ながらも「良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである」と約束されるのです。神様が目をかけ、いつかではなく、必ず彼らを国に帰す(70年先になりますが、この時連れていかれた人たちの中でも生きてこの地を見るものもいます)、実際にエルサレム神殿は帰って来た時に修復されるのですが、彼らの魂も、彼ら自身も神様によって建て直される、神様ご自身が彼らの神様となられることで、彼らは本当の回復を遂げていくのです。そうして本当の神殿回復、神様の住まわれる、あるべき私たちの姿へと回復させたい、と今エレミヤに訴えるのです、捨てているのではない、今この困難な時だからこそ、神様に帰るように、心を尽くして立ち返るように。

 

ただ、このまま神様に立ち返らず自分という国に留まるなら彼らは悪いイチジクのように捨てられていく、死に向かっていく、だからもう一つ神様が用意されている良いイチジクに回復することを願い今語られる。いや、語られるだけではなく、神様ご自身がその御手をもって救われたように、私たちも悪いイチジクとなって腐り死にゆくことがないよう、捨てられることがないように、神様は私たちを救うために、私たちの思い煩いも、痛みも悲しみも、何より罪も一切身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされる、本当の良いイチジクの実へとしてくださるのです。

 

神様は私たちにこのイエス様のいのちをもって救いの道を今示されました。御子イエス様のいのちをもって「わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」と今宣言されているのです。私たちは今どちらの道を選ぶだろうか。神様が開かれたいのちの道をどうして今疑う事ができるでしょうか。神様があなたを回復させてくださる、もう一度神様のイメージされた最高のあなたへ建て直されるのです。私たちはこの神様のくださった本物のいのちの実をいただこう、このイエス様に心を尽くして立ち返ろう。神様が今日最高の良いイチジクの実をもってあなたを待っておられるから。