―重荷は降ろしていいんだ― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…この民、あるいは預言者、あるいは祭司が、【主の宣告とは何か】とあなたに尋ねたら、あなたは彼らに、【あなたがたが重荷だ。だから、わたしはあなたがたを捨てる】と言え。―主の御告げ―預言者でも、祭司でも、民でも、【主の宣告】と言う者があれば、その者とその家とを、わたしは罰する。』あなたがたは互いに『主は何と答えられたか。主は何と語られたか』と言うがよい。しかし『主の宣告』ということを二度と述べてはならない。主のことばが人の重荷となり、あなたがたが、生ける神、万軍の主、私たちの神のことばを曲げるからだ。『あの預言者たちにこう言え。主は何と答えられたか。主は何と語られたか。もし、あなたがたが【主の宣告】と言うなら、それに対して、主はこう仰せられる。【わたしはあなたがたに、主の宣告、と言うなと言い送ったのに、あなたがたは主の宣告というこのことばを語っている。それゆえ、見よ、わたしはあなたがたを全く忘れ、あなたがたと、あなたがたや先祖たちに与えたこの町とを、わたしの前から捨て、永遠のそしり、忘れられることのない、永遠の侮辱をあなたがたに与える。】』」

エレミヤ書23章33-40節

 

重荷、荷物、これらは重くのしかかってくるものですね。荷物にしても、それなりの量があればその手をふさいで私たちの行動に制限をかける、ある意味では「お荷物」となってしまうわけです。イエス様は私たちに、その重荷をおろしていいんだよ、と仰るのですが、重荷ではなく、イエス様が、自分が思うようにさせてくれない、何もしてくれない、と変に疑って、重荷として降ろしていないでしょうか。むしろイエス様は私たちの重荷を一緒に背負い導き出して下さるのです。私たちを重荷と言って捨てるのではなく。私たちは今こそ神様に帰ろう。神様はあなたを今日も待っておられるから。

 

さて↑は、古代イスラエル王国において北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エホヤキム、そしてエホヤキン王と続き、南ユダ最後の王、ゼデキヤ王と時代は続きます。彼はBC597年に王になり、11年王として統治していましたが、最後の3年間、バビロンの王ネブカデレザルに反逆し、バビロン軍によって包囲され、絶体絶命の時を迎えていました。その中で神様は、彼らに、そして私たちの前に「いのちの道と死の道」を置かれ、神様がどんな時も共におられる、その神様が広げられるいのちの道を歩もう、と招かれます。

 

その上で神様のご計画は変わらないことをこれまでの王への預言を呼び起こしながら、神様は「救い主誕生」の預言をされ、私たちに希望を語られます。神様は滅びに向かう私たちを断ち切るのではなく、新しい若枝、正義をなされるイエス様を遣わされることを語られ、私たちを神様の永遠へと導かれる、偽物ではない、本物のいのちへと導かれると約束されます。その与えられる救い主イエス様の誕生、十字架と復活によって遠ざけられてもおかしくない私たちを近しいものへと招かれるのです。私たちが夢見る幻のようなものではない、本物の神様の恵みに。

 

神様はなおエレミヤを通して「この民、あるいは預言者、あるいは祭司が、『主の宣告とは何か』とあなたに尋ねたら、あなたは彼らに、『あなたがたが重荷だ。だから、わたしはあなたがたを捨てる』と言え。―主の御告げ―預言者でも、祭司でも、民でも、『主の宣告』と言う者があれば、その者とその家とを、わたしは罰する」と語られます。

 

これは非常に厳しいですね。いや、厳しいと思うだけまだいいのですが、だから何?と思っていたら大変なことになります。私たちは神様の恵みによって生かされている、その神様から捨てられたらどうやって生きていけるのでしょうか。だってこの世界を造られ、すべ治められている神様が、私たちを造られた神様がいるから、支えてくださっているですから。

 

神様はここで民たちが「主の宣告は何か」と尋ねたら、と仰られていますが、面白いことに、この「宣告」という言葉は「重荷」という言葉にもともとのことばではなっているのです。気づきましたか?神様が私たちこそ「重荷だ」と仰っている、その言葉はここから出てきたのです。もう少しいうと、「荷物」という言葉となり、それは「運ぶ」という意味合いを持っています。

 

本来神様のことばというのは私たちの重荷となることはありません。イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」と仰られました。これはイエス様を信じて歩む人たちが、それ故に迫害を受けている人たちに向けて主に語られた言葉なのですが、ある人は神様を信じて何になる?その御言葉・宣告が何になる?というかもしれません。

 

ただ、そうしたことで疲れている私たちを、イエス様は招いてくださっているのです。むしろここに休みがあるんだ、と、平安があるんだ、と。むしろそのくびきをイエス様が一緒に背負って進んでくださるのです。くびきは、一人で負うものではありません。ペアで、しかも強いものと弱いものがペアになって負い、強いものから弱いものは学ぶのです。イエス様は、イエス様を信じて何になる?その御言葉・宣告を信じて何になる?と思う私たちを、見捨てるのではなく、心優しくへりくだり、むしろ一緒にそのくびきを負ってくださり、進んでくださる。イエス様が導いて下さるのです。その中でイエス様が安らがせてくださる、イエス様と歩む中にその安らぎがあなたの内を占めるようになるのです。イエス様の荷は、その御言葉は私たちの重荷になることはなく、むしろ軽くされる、私たちの歩みを確かなものとしてくださるのです。

 

イエス様の12弟子ひとり、ヨハネは多くの迫害に会い、何度も殺されそうになりながら迎えた老年、彼はイエス様を信じて損をした、とは言わず、「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」と語りました。

 

イエス様をキリスト、ようするに救い主として信じる人は誰でも、神様によって生まれた、それはもちろんもともと私たちは神様によって造られ、生まれたものであることには変わりはないのですが、私たちがイエス様を救い主として受け入れる時、私たちはイエス様の十字架と共に一度は死に、霊的に新しく生まれ変わらせていただけるのです。新しくされるのです。イエス様が十字架の死で終わるのではなく、復活されたように、私たちもこのイエス様を救い主として信じ受け入れる時、正確にはイエス様が「私の罪のために」身代わりに十字架にかかられ死なれ、復活された、救いとなられたその救い主として信じ受け入れる時、私たちはもう古い、罪に支配されるものではなく、神様の子とされる、新しく命が与えられる、このイエス様の救いによって、私たちは新しく神様によって生まれさせていただけるわけです。

 

これだけの方が私たちに生きてほしい、と語られている、それがどうして重荷になりえるでしょう。むしろこの宣告・みことばによって私たちは生きるのです。神様の愛があなたの内に注がれるのです。どんなにこの世が重くのしかかっていようとも、最後に私たちは勝利するのです。神様の宣告・みことばは私たちの重荷となるのではなく、私たちを導き出すのです。そこに神様の勝利が広がるのです。神様が敗北されることはありません。世がどんなに神を信じて何になる、と私たちをそそのかそうとも、最後には神様の勝利がそこに広がるのです。

 

私たちは神様の広げてくださる勝利をどれだけ待ち望んでいるでしょうか。神様を退けて、自分の勝利がなることを願っていませんか?神様の宣告・みことばは私の重荷だ、と思っていませんか?言っていませんか?あなたに御子イエス様のいのちを注がれてまで救い出された神様がどうしてあなたの重荷となりえましょう。

 

「主の宣告とは何か」、と民は言っています。しかし神様は難しいことを語りません。神様の願うところは悔い改めて神様に彼らが、私たちが立ち返り、いのちを得ることです。わかっている、わかっているけどそれが何になる、という事なんです、彼らの言いたいことは。しかしそうではないのです。私たちが神様のみことばを利用して何か利益を得ようとするのではない、神様が私たちの内にその御言葉をもって働かれ生かして下さるのです。先程のヨハネの言葉、「私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります」の通り、まさに神様の愛があなたの内に現されるのです。

 

私たちは今日この神様をどれだけ愛していますか?自分より下に来ていませんか?神様は↑で「あなたがたが重荷だ。だから、わたしはあなたがたを捨てる」と仰られています。民がこのようにいう事で、その疑い自体が彼らの重荷となるというのです。そうではなく、神様はそれをおろすように訴えるのです。あなたが捨てられることがないように、神様のみことば・宣告を捨てるのではなく、あなたのその疑いや何やらも、不安も、全部神様に置くように。神様が導かれる命の道ではなく、↑で語られているように、自身で捻じ曲げては神様の導かれている命の道をどうしてゆくことができるでしょう。むしろそのあなたの重荷をイエス様が一緒に背負って進まれるではありませんか。

 

ダビデ王は神様に愛されていました。しかし同時に多くの戦い、裏切り、苦しみがありました。しかし彼は「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」と語られる。神様に委ねて良いんです。神様があなたを揺るがさず、最後は先ほどのヨハネのことばではありませんが、主の勝利へ導かれる、そこに神様の勝利が広がるから。

 

神様は、私たちが捨てられることがないよう、永遠のそしりを拭い去らせるため、私たちの子の重荷、思い煩い、痛み、何より罪という重荷を、その刑罰を取り除くため、御子イエス様に私たちのこれらの重荷を一切背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の子の重荷、罪を取り除かれる、赦され、神様の子としてくださるのです。

 

これほどまでに愛されたイエス様ゆえに、今日私たちは生きているのです。もう私たち自身が重荷となってはいけません。このイエス様の命がけの愛によって与えられたいのちが重荷になりえることなどありえない。むしろこのイエス様の十字架と復活によって勝利された、この神様の広げてくださる命、御心に大いに期待しようではありませんか。私たちに圧し掛かる様々な問題は主にあって打ち砕かれ、勝利の日へ、私たちは神様に導かれる。ただただ私たちは神様のみことばに信頼し続け歩もう。この方に信頼する人は揺るがされることはなく、どんな大嵐が吹こうともこれが倒れることはないのだから。