―御霊様か力か― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた。ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。そこで、彼らはある人々をそそのかし、『私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた』と言わせた。また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕らえ、議会にひっぱって行った。そして、偽りの証人たちを立てて、こう言わせた。『この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。【あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう】と彼が言うのを、私たちは聞きました。』議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。」

使徒の働き6章8-15節

 

力には屈しない。屈してはいけない。まあ色んな世界で言われるところではありますが、力で押し切ったらろくなことがないのはどこでも見る話ですよね。じゃあこの状況をどうしたらいいんだ、と思う場面にそれでも直面することがあるかもしれません。その時、ふと思うのです。今度は自分の力に頼り過ぎてはいないだろうか、と。私の知っている人で、ある罪を犯した人を説得するために、御霊様がここにご臨在くださり導いて下さい、と祈って始めた時に彼は悔い改め、変わったことがありました。私たちは神様の御力を、いや神様ご自身を侮ってはいけません。御霊様がここに働かれるなら、全ては変えられる。権力や能力ではなく、主の霊によって。さて、あなたは今日誰により頼み生きているでしょうか。

 

さて、↑はAD30年頃の出来事。神の御子イエス様が人となって生まれ、その愛を全うされ、ついには私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架で罰せられ死なれ、3日目によみがえられた後、イエス様の昇天後、約束されていた新しい助け主なる聖霊様が降臨され、教会が誕生したころの話になります。聖霊様の働きによって多くの人たちがイエス様の救いを信じ受け入れて、その数は日ごとに増しています。しかし、↑で触れられているように「ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである」というような出来事が起き、彼らは互いに支え合うため、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選び、教会を支えるようになりました。

 

そのような中、選ばれた7人の一人、ステパノという人がここでクローズアップされます。彼は恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていました。あ、ステパノが恵みと力があった、とかそういう話ではなく、御霊様に満たされていた、その中でその恵みが彼を通して現されていたわけです。聖霊様の力が彼の内に満ち溢れ、彼のわざではなく、彼を通して神様の御業が現わされていた。それは素晴らしいですよね。

 

新しい助け主なる聖霊様が降られることをイエス様は約束されていました。イエス様はある時「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」と仰られました。まさに、求める人には与えられるのです。蛇やサソリ(これは見た目が似ていたという話)ではない、それと比較するほどに最高の「良いもの」を与える、聖霊様を下さる、と約束されているのです。

 

↑で登場する「リベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々」はこのステパノと議論しますが、彼らはステパノがギリシャ系ユダヤ人(↑の前の箇所で触れましたが、かつてのアレクサンダー大王やアンティオコス・エピファネスなどによって侵略され、ヘレニズム化された中でも生き残ったユダヤ人)という事が気に食わず、純粋なユダヤ人ではないものが何を言っている、という話になっていたのです。

 

ただ問題は、ステパノが何をしている、何を言っているのか、ではない、彼を通して神様がされていること、何を言っているのか、それが重要なのです。彼らはそういう意味では神様を求めていなかった。だから議論を吹っ掛ける。これを神様からの御業だと信じた人たちは救われ、また聖霊様が注がれ新しくされた。何ができる、できないではなく、イエス様が我がうちに生きる、御霊様に満ち溢れたものとされた、その新しい命に生きていたのです。古い思い煩いや罪に支配されたものではなく、これらが癒され主が私たちの主として生きる、全ては癒された新しいものとされたのです。その何が問題なのか?彼らは古い伝統やら考え、自分の権力や力に固執して、神様を求めていなかった。だから、どれだけ議論を吹っ掛けても神様を超えることなどできず、対抗もできません。

 

私たちが神様に対抗して何の意味がありましょう。むしろ神様は私たちを死に向かわせるのではなく生きてほしい、と何にも代えがたい御子イエス様のいのちをもって私たちを救われ、さらに新しい助け主なる聖霊様を私たちに与えようとありとあらゆる手をもって私たちにその愛を注がれているんですよ?私たちはどこを向き、どこに向かいますか。神様は私たちを御子イエス様のいのちをもって、それでも引き上げようとしてくださったのです。私たちは神様に自分の力で対抗しようとしたってそこに待つのは罪の呪い、世の勢力、ついには裁き、死です。これらに抗い、その十字架の死と復活によって勝利されたイエス様を求めずにどうしていられましょう。何の力によって生きるでしょう。

 

ここで、対抗できないと感じた彼らは「ある人々をそそのかし、『私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた』と言わせた。また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕らえ、議会にひっぱって行った。そして、偽りの証人たちを立てて、こう言わせた。『この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。『あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう』と彼が言うのを、私たちは聞きました」と嘘でこれをひっくり返そうとします。残念ながら、この後ステパノは殉教します(それは次の7章で詳しく触れます)が、嘘に塗り固められたいのち、あなたになってどうしますか。神様は、御子イエス様をもってあなたを本物の、あるべき姿、神様のことへと回復させてくださったではありませんか。罪人として滅ぼすのではなく救いたい、と御子イエス様のいのちを差し出して。

 

それでもステパノの顔が、かつてイエス様の御顔が輝いたように輝きました。私たちは神様が輝かせてくださるこの道を、いのちを最後まで全うしよう。走り続けよう。どんなに嘘であなたを神様から引き離そうとしようとも、イエス様から離せるものは何もありません。人の力ではなく、御霊様が満ち溢れる、輝く、ただ主の栄光が輝くことを祈ろうではありませんか。本物の神様の、本物の恵みが、力が、この全地に満ち溢れますように。そしてすべての人がこの本物の神様に出会い、イエス様による救いによって本物のいのちを得、これに生きられますように。