―偽物か、本物か― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「預言者たちに対して―私の心は、うちに砕かれ、私の骨はみな震える。私は酔いどれのようだ。ぶどう酒に負けた男のようになった。主と、主の聖なることばのために。国は姦通する者で満ちているからだ。地はのろわれて喪に服し、荒野の牧草地は乾ききる。彼らの走る道は悪で、正しくないものをその力とする。実に、預言者も祭司も汚れている。わたしの家の中にも、わたしは彼らの悪を見いだした。―主の御告げ―それゆえ、彼らの道は、暗やみの中のすべりやすい所のようになり、彼らは追い散らされて、そこに倒れる。わたしが彼らにわざわいをもたらし、刑罰の年をもたらすからだ。―主の御告げ―サマリヤの預言者たちの中に、みだらな事をわたしは見た。彼らはバアルによって預言し、わたしの民イスラエルを惑わした。エルサレムの預言者たちの中にも、恐ろしい事をわたしは見た。彼らは姦通し、うそをついて歩き、悪を行なう者どもの手を強くして、その悪からだれをも戻らせない。彼らはみな、わたしには、ソドムのようであり、その住民はゴモラのようである。それゆえ、万軍の主は、預言者たちについて、こう仰せられる。『見よ。わたしは彼らに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。汚れがエルサレムの預言者たちから出て、この全土に広がったからだ。』」

エレミヤ書23章9-15節

 

最近紙幣のデザインが新しくなりましたね。私のところではなかなか手にする機会がないのですが、たまたま仕事上の関係で手にすることがありました。一瞬おもちゃのお金?一目見た時は思いましたが、本当に工夫が凝らされてますよね。一緒に仕事をしている人と見ながら驚かされました。ただ、よく言われているのはこれを使った詐欺がまた出てくるという話。その手法を聞いていると、あああり得るよな、と思うところですが、本当に悲しい話ですよね。人をだます。その人の心の内にはいったい何があるのか。これについては考えるところは色々あるのですが、私の願うところは真実がそこにあること、偽物、いろんな思いに私たちの内がいっぱいになるのではなく、本物に、本のものの神様に、本のものの神様の愛で私たちが満たされる事。私たちが偽物となるのではなく、神様に喜ばれる者へと変えられたいものです。

 

さて↑は、古代イスラエル王国において北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エホヤキム、そしてエホヤキン王と続き、南ユダ最後の王、ゼデキヤ王と時代は続きます。彼はBC597年に王になり、11年王として統治していましたが、最後の3年間、バビロンの王ネブカデレザルに反逆しました。そのためにエルサレムはバビロン軍によって包囲されることになります。ゼデキヤ王はバビロンのネブカデネザル王に包囲され、絶体絶命の時を迎えていました。その時彼は神様に祈ってほしいと、エレミヤに使者を遣わし、「いのちの道と死の道」を彼らの前に置かれ、神様がどんな時も共におられる、神様が広げられるいのちの道を歩もう、と招かれます。

 

そうしてここまで多くの預言が語られてきたのですが、ここで一転して神様は「救い主誕生」の預言をされ、私たちに希望を語られます。神様は滅びに向かう私たちを断ち切るのではなく、新しい若枝、正義をなされるイエス様を遣わされることを語られ、私たちを神様の永遠へと導いて下さる事を↑の前で見ました。

 

ここで、神様の預言はまた別なところに向けられていきます。が、↑の前の本物の王、牧者なるイエス様がおられる、この希望が錨のようにしっかりと私たちをつなぎとめてくださる。神様が私たちをまことの希望に招いてくださっている、この事を忘れないでいたいものです。

 

話を↑に進めて、神様はエレミヤを通して「預言者たちに対して―私の心は、うちに砕かれ、私の骨はみな震える。私は酔いどれのようだ。ぶどう酒に負けた男のようになった。主と、主の聖なることばのために。国は姦通する者で満ちているからだ。地はのろわれて喪に服し、荒野の牧草地は乾ききる。彼らの走る道は悪で、正しくないものをその力とする。実に、預言者も祭司も汚れている。わたしの家の中にも、わたしは彼らの悪を見いだした。―主の御告げ―」と、ここで偽預言者について語られていきます。

 

偽預言者についてはここまでも見てきましたが、神様のことばを語る預言者と違って、自分の心を語る人です。律法にしても何にしても、自分の都合のいいほうに曲げる、今風に言えば世の中や権力者に忖度して、彼らが気に入ることを語るのです。例えば、神様は捕囚される、といっても、神様がそんなことをされるはずがない、すぐに帰ってくる、と語ったり。しかし、神様はこれまでの預言でも見てきたように、神様が一緒に進まれる、そこにこそ命がある、だから神様のもとに帰れ、それこそがそのメッセージの中に込められていたはずです。

 

よげん、と言いますと、「未来の予測」的なイメージを持つ方がいますが、それは「予言」です。そう、予想なんです。だから不確定な要素が多いわけです。一方「預言」というのは神様のことばを「預」かり、語る、そのまま語るわけです。もちろんこれまで預言書の中で見てきたように未来のことについて告げられることもあります。ただそれは未来予想ではなく、「神様が」約束され語られる事。神様の告げられる言葉は必ずなります。神様は嘘を尽きませんからね、というよりも主である神様が全てを成し遂げてくださるのだから、ならないということはない、空しくかえってくることもなく、必ず成し遂げてくださるのです。

 

まあ占い的に「預言」に頼る方がいるのですが、根本的に違う。私も何人か預言の賜物を持った方と関わることが結構あったのですが、予想的な預言を語る人がいるのですが、あたるかあたらないか、あいまいなんです。それはそう聞えたような気がする、程度のもので神様が語られたものではないから。本物の預言というのは先ほども申し上げました通り、神様からくるわけですからならないという事はないのです、外れる外れないのではなく、神様がなされることですから。そういう意味でああ本物の預言の賜物がある方だな、という方はほとんどみことばを語る。悔い改めに導き、神様に立ち返る方向におおよそ語られているのです。私たちが進むべき道へと導くこともあります。結局それは神様の御心の方向に導くことを語っていました。

 

何でこんな話をしたのか、というと、神様の預言、御言葉の意味を私たちはよく考えなければいけないからです。エレミヤはその偽預言者たちが、人々の心を神様から引き離し、また本物の預言、神様から語られるみことば・預言を聞いても話を聞かず、帰って語るエレミヤを迫害し、何度も殺されそうになり、幽閉されることもあったわけです。その時、エレミヤの心は先ほどのことばにある通り、「私の心は、うちに砕かれ、私の骨はみな震える。私は酔いどれのようだ。ぶどう酒に負けた男のようになった。主と、主の聖なることばのために」と、あるように心が砕かれ骨が震える、というほどになってしまうのです。酔いどれと言いますか、飲み過ぎてどうにもならなくなってしまった人のように。

 

結局偽預言といいますか、私たちを生かすのではなく、それこそお酒に頼っていやなことを忘れる、ではありませんが、自分の心を生かすことはできない。私たちの心をお酒のように酔わせる、楽しませる言葉や、ラブシャワーと言ったものは世の中にはたくさんあるわけですが、そこに支えるものが無いのです。

 

しかしパウロという人は「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい」と語ります。酒に支配されるのではなく、コントロールされるのではなく、御霊に満たされる事。御霊様、聖霊様は新しい助け主なる聖霊様、として神様が私たちに与えてくださった方です。この方が私たちの内に満ち溢れる、私たちの内に神様の霊が、いのちが、みことばが、満ち溢れる時、私たちの骨を強くし、その聖なる言葉によって私たちは生きるものとなるのです。

 

私たちは、エレミヤを通して神様が告げられているように、偽預言者が「国は姦通する者で満ちているからだ。地はのろわれて喪に服し、荒野の牧草地は乾ききる。彼らの走る道は悪で、正しくないものをその力とする。実に、預言者も祭司も汚れている。わたしの家の中にも、わたしは彼らの悪を見いだした。―主の御告げ―」という道をたどるような、神様ではない生きたものではない、私たちを傷つけるもの、心を砕くもの、死という衣、喪に服すような状態、渇ききったものになってはいけない。私たちは悪に支配されるのではなく、汚されてあなたの、神様が造られたあるべきあなたの姿を失ってはいけない、神様ご自身、神様の霊に満たされ、私たちは生きたいものです。

 

神様はエレミヤを通してさらに「それゆえ、彼らの道は、暗やみの中のすべりやすい所のようになり、彼らは追い散らされて、そこに倒れる。わたしが彼らにわざわいをもたらし、刑罰の年をもたらすからだ。―主の御告げ―」と告げられています。私たちは神様を追い出す側になっていませんか?神様なしで私たちは誰が生きられるでしょう。私たちが神様から追い出されたら、私たちは倒れるしかない、神様いなくても大丈夫、という人もいますが、むしろ神様が守ってくださっていた私たちを他の侵略者が来て支配するだけです。刑罰の年月を私たちが迎えてどうしますか。むしろ神様の恵みの年を求めないでどうしましょう。

 

パウロはさらに「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」と語ります。彼は1世紀、初代教会が産声を上げたころにキリスト教徒を迫害、殺害に加担する者でした。イエス様を迫害する者でした。神様を信じているつもりで、やがて来る救い主を彼も一応は待ち望んでいたのですが、彼はその神様が遣わされた救い主、罪の赦しのために十字架で身代わりに罰せられたイエス様の救いを無視して、むしろそのイエス様は呪われたものとしていました。しかし復活のイエス様が彼と出会い、裁くどころかむしろ悔い改めに導き、罪を赦された彼は変えられます。神様の恵みは溢れんばかりのもので、その時はもう今始まっている、救いの日がいまここにある、と宣言するのです。神様が働かれているこの命こそ恵みなんだ、と。

 

神様が恵みを注がれるのです。それは、ただ何となく恵んであげる、一時的に助けてあげる、とかそういうレベルの話ではないのです。神様は、私たちをこのように裁き、刑罰の年月から救い出すために、私たちの罪の身代わりに御子イエス様にその刑罰を背負わせたのです。私たちの重荷、悲しみ、痛み、何より罪、一切を身代わりに背負わせ十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。

 

私たちは今、このイエス様のいのちにあって恵みの年月、日に招かれている、招かれたのです。その私たちがどうして今、神様から離れていられましょう。このイエス様の十字架と死によって新しく与えられたいのち、産声はもうあげられた。もう偽物に支配されてはいけない、本物の神様の霊に生かされ歩もうではありませんか。本物の恵みが、いのちが今日、あなたの内に、またあなたの周りに溢れますように。神様の驚くべき働きが、栄光がこの全地に満ち溢れますように。聖なる方が成される恵みに今日生かされ歩もう。