「『ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち。―主の御告げ―』それゆえ、イスラエルの神、主は、この民を牧する牧者たちについて、こう仰せられる。『あなたがたは、わたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ。わたしは、あなたがたの悪い行ないを罰する。―主の御告げ―しかし、わたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての国から集め、もとの牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んでふえよう。わたしは彼らの上に牧者たちを立て、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おののくことなく、失われることもない。―主の御告げ―見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、【主は私たちの正義】と呼ばれよう。それゆえ、見よ、このような日が来る。―主の御告げ―その日には、彼らは、【イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる】とはもう言わないで、【イスラエルの家のすえを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる】と言って、自分たちの土地に住むようになる。』」
エレミヤ書23章1-8節
朝はやがて昼となり、夜となる。でも夜は夜で終わるのではなく、また朝を迎える。すごく当たり前のことを言っていると言われそうですが、これってすごいですよね。当たり前のように次の日を迎えるわけですが、その日がある、ということ。次の日が備えられているということ。それは自然にあるわけではない、備える方がいるからその日がある、神様が備えてくださっているのです。神様が備えてくださった日なんて素敵ではありませんか。明けない夜はない、神様が明けさせてくださり、そこへ導いて下さる。今日あなたは誰に信頼していますか?
さて↑は、古代イスラエル王国において北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エホヤキム、そしてエホヤキン王と続き、南ユダ最後の王、ゼデキヤ王と時代は続きます。彼はBC597年に王になり、11年王として統治していましたが、最後の3年間、バビロンの王ネブカデレザルに反逆しました。そのためにエルサレムはバビロン軍によって包囲されることになります。ゼデキヤ王はバビロンのネブカデネザル王に包囲され、絶体絶命の時を迎えていました。その時彼は神様に祈ってほしいと、エレミヤに使者を遣わし、「いのちの道と死の道」を彼らの前に置かれ、神様がどんな時も共におられる、神様が広げられるいのちの道を歩もう、と招かれます。そしてそれは時代によって変わるものではなく、かつての王たちに預言したことを振り返りながら、真っすぐに愛される神様の愛に、心を向ける、何より神様に愛されているこの素晴らしい境遇、愛に生きよう、最愛成る神様と最愛成る関係に、と。
ここまで多くの預言がなされ、バビロン捕囚が起こる人の目には絶望しかない中、神様はここで希望の預言をエレミヤを通して語られます。もちろん、以前「いのちの道と死の道を置く」と仰られていたように、目の前には救いの道をいつも神様は用意されていたんですよ?そこに神様という希望がおられたのです。神様の内にこそ希望があるのです。しかしそれでも気づかない彼らに向けて、神様は見捨てるのではなく、語るのをやめるのでもなく、彼らにはっきりとここで希望を語られるのです。そう、救い主イエス様の預言が。
ここで神様はエレミヤを通して「『ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち。―主の御告げ―』それゆえ、イスラエルの神、主は、この民を牧する牧者たちについて、こう仰せられる。『あなたがたは、わたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ。わたしは、あなたがたの悪い行ないを罰する。―主の御告げ―…』」と告げられます。
ここでいう牧者というのはまあ群れを導く羊飼いとか、王、指導者たち、そんなところでしょうか。本来の「牧する」者と考えると、羊を守る、24時間いつも敵から守り、弱っていれば助ける、そのような役割があるはずなのに、神様の大切な民を守るどころか、王たちは顧みず、ついには散らされていく、バビロン捕囚へと向かわせてしまう牧者たちに今告げられるのです。しかし…本物の牧者・神様は私たちを見捨てなかったのです。
神様はそこで話を打ち切る、終わるのではなく、続けて「しかし、わたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての国から集め、もとの牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んでふえよう。わたしは彼らの上に牧者たちを立て、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おののくことなく、失われることもない。―主の御告げ―」と告げられます。
ここには複数の約束が見えます。一つはバビロン捕囚からの解放です。バビロン捕囚から70年、確かにイスラエルの民はペルシャのクセルクセル(クロス)王によって解放されます。ただそれは時の流れではなく、「エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。『ペルシヤの王クロスは言う。【天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。残る者はみな、その者を援助するようにせよ…】』」と歴史家はこの時の様子について記録に残しています。
ペルシャの王からただ解放するだけではなく、援助まで申し出る、普通に考えてあり得ない話。しかし神様は行動に起こされる神様、約束を反故にされるのではなく、実現させる神様なのです。人の援助は尽きなくとも、神様の援助は、神様の蔵は尽きることなく私たちを助けます。私たちを牧者として導きます。
イエス様ご自身、十字架にかかられる少し前、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます」と仰られていました。イエス様ご自身が彷徨う私たちを身をていして守られる、いのちをもって守られるというのです。あなたの内に侵入しようとする世の勢力、様々な思い煩い、罪、サタン、これら一切からあなたを守るために戦われるのです。散らされるのではなく、ご自身のもとに呼び寄せてくださるのです。
↑で指摘されていたような、何もしない偽牧者ではなく、良い牧者として。神様はあなたのために動かれる神様。そして今触れたように見えたでしょうか、実はこれはイエス様誕生の約束でもあったのです。まだこのエレミヤの時代には人となって生まれてきてはいませんでしたが、この天地万物が造られるはるか前から存在していたんですよ?そのイエス様が、もう私たちを見限って語るのをやめるのではなく、救いに来られた、約束を成就しに来られたのです。神であられるのに。普通に考えたら考えられない。しかし、あなたの良い牧者として私たちの間に住まわれることを選ばれたのです。「羊のためにいのちを捨てる」牧者は私たちを捨てるのではなく、神のありようを捨ててまで来られたのです。
でもそれだけではない。本来↑で語られているように、罰せられなければならないはずの私たちの罪の刑罰をその身に負われたのです、イエス様は。私たちの罪を、何の罪もないイエス様がその身に背負われ、十字架にかかられ、身代わりに罰せられ、死なれたのです。これはもっとあり得ない話ですよ。しかしそのありえない話を、愛する私たちを救うために、実行に移されたのです。その身に私たちの罰を完全に引き受けられ、死なれたのです。本来私たちが神様の恵みの中生きるはずが、その罪ゆえに離れてしまった、見捨てられ、永遠の滅びに向かうはずだった私たちを、罰せられてその罰を引き受けられただけではなく、陰府にまで降っていかれて私たちを引き上げられたのです。3日目によみがえらせていただいたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、同じ復活の恵みに与り、そして神様の子として迎え入れていただけるのです。呼び集められた先、そこには神様の恵みが、新しい命がここに広がっているのです。
でもこの話はここで終わらない。神様はエレミヤを通してさらに「見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義』と呼ばれよう。それゆえ、見よ、このような日が来る。―主の御告げ―その日には、彼らは、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる』とはもう言わないで、『イスラエルの家のすえを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言って、自分たちの土地に住むようになる」と語られます。
捕囚から解放、救われた、後は頑張って生きて、天国で待っているよ、とは仰られていない。やがて「一つの正しい若枝」を起こして下さるのです。え?誰?復活のイエス様がもちろんその正義によって私たちをすべ治めてくださるのですが、イエス様が来られた時、イエス様は王にはなりませんでした。ただし、私たちの救い主、主となられ、復活のイエス様のいのちが私たちの内にいのちをもたらされる、ある意味では正しい若枝となって私たちの内にいのちを、正義を、主となって治めてくださります。私たちはこの若枝、イエス様によって今日生かされているのです。
しかしさらに続きがあるのです。イエス様はやがて王の王として再び来られるのです。今の罪の世を今度は裁き、完全な御国を完成させてくださるのです。神様の公義、正義が溢れ、ここではイスラエルの民について触れられていますが、イスラエルの民だけではなく、私たちも招かれているのです。この辺りは終末論となって色々説があるので区分けはしませんが、ただ言えることは私たちはやがてイエス様というまことの王様、私たちのためにいのちさえ惜しまない王なるイエス様が再び来られ、全てに勝利され、完全な御国を来たらせてくださり、そこに私たちを招いてくださる、今もそこに向けて私たちは共に歩ませていただいているのです。
確かに世の中色々あります。しかしイエス様はすでに十字架によって勝利された、このイエス様が今私たちを治め、導かれていることをどうか忘れないでください。いつか未来の話ではなく、今、私たちはこの完全なるイエス様が私たちを導いておられる、私たちは私たちの救となられ、いのちを惜しまず与えてくださったまことの牧者、王の王なるイエス様に今日信頼し、離れることなく歩もうではありませんか。このイエス様のいのちが開いてくださったこの日々、私たちは大いに期待し歩もうではありませんか。