―涙をもってあなたの帰りを待っている方がいる― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「死んだ者のために泣くな。彼のために嘆くな。去って行く者のために、大いに泣け。彼は二度と、帰って、故郷を見ることがないからだ。父ヨシヤに代わって王となり、この所から出て行った、ヨシヤの子、ユダの王シャルムについて、主はまことにこう仰せられる。『彼は二度とここには帰らない。彼は引いて行かれた所で死に、二度とこの国を見ることはない。』『ああ。不義によって自分の家を建て、不正によって自分の高殿を建てる者。隣人をただで働かせて報酬も払わず、【私は自分のために、広い家、ゆったりした高殿を建て、それに窓を取りつけ、杉の板でおおい、朱を塗ろう】と言う者。あなたは杉の木で競って、王になるのか。あなたの父は飲み食いしたが、公義と正義を行なったではないか。そのとき、彼は幸福だった。彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさばき、そのとき、彼は幸福だった。それが、わたしを知ることではなかったのか。―主の御告げ―しかし、あなたの目と心とは、自分の利得だけに向けられ、罪のない者の血を流し、しいたげと暴虐を行なうだけだ。それゆえ、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムについて、主はこう仰せられる。だれも、【ああ、悲しいかな、私の兄弟。ああ、悲しいかな、私の姉妹】と言って彼をいたまず、だれも、【ああ、悲しいかな、主よ。ああ、悲しいかな、陛下よ】と言って彼をいたまない。彼はここからエルサレムの門まで、引きずられ、投げやられて、ろばが埋められるように埋められる。」

エレミヤ書22章10-19節

 

人が失われる時、これほどつらいものはないですよね。私も近年、親しい人が何人もが天に帰っていったのを見てきました。ちょうど20年前には母の事故死(半分不審死)、同年のいとこの自殺、14年前の父の病死はもう本当にしばらく立ち上がれなくなるほどでした。ただこの時いずれも様々な友が駆け付けてくれて、神様は立ち上がらせてくださった。時間がかかった時もありましたが、その間も神様ご自身が共にいて励まし続けて下さった、本当に感謝です。悲しむものと悲しみ、喜ぶものととともに喜ばれる神様。だから他でもない、あなた自身が失われていく事、滅びゆくことを悲しまれるのです。だからこそ、神様は私たちを救うために御子イエス様のいのちを身代わりにされた、それほどにあなたを愛し、あなたの帰りを待っているのです。今日私たちは神様に帰ろう、神様はあなたを今日も待っておられるから。

 

さて↑は、古代イスラエル王国において北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エホヤキム、そしてエホヤキン王と続き、南ユダ最後の王、ゼデキヤ王と時代は続きます。彼はBC597年に王になり、11年王として統治していましたが、最後の3年間、バビロンの王ネブカデレザルに反逆しました。そのためにエルサレムはバビロン軍によって包囲されることになります。ゼデキヤ王はバビロンのネブカデネザル王に包囲され、絶体絶命の時を迎えていました。その時彼は神様に祈ってほしいと、エレミヤに使者を遣わし、「いのちの道と死の道」を彼らの前に置かれ、神様がどんな時も共におられる、神様が広げられるいのちの道を歩もう、と招かれます。

 

しかしここでエレミヤは時間をさかのぼって預言を振り返ります。↑の前までではエホヤキム王の時代に預言されたもので、公義と正義を行う、究極的には神様との真っ直ぐな関係に帰ろう、そして互いに愛し合い歩もう、というところでしたが、今度はさらに時代をさかのぼり、シャルム(エホアハズ王)の時代にまでさかのぼります。

 

エホアハズ王については、歴史書の中に「エホアハズは二十三歳で王となり、エルサレムで三か月間、王であった。彼の母の名はハムタルといい、リブナの出のエレミヤの娘であった。彼は、その先祖たちがしたように、主の目の前に悪を行なった。パロ・ネコは、彼をエルサレムで王であったときに、ハマテの地リブラに幽閉し、この国に銀百タラントと金一タラントの科料を課した。ついで、パロ・ネコは、ヨシヤの子エルヤキムをその父ヨシヤに代えて王とし、その名をエホヤキムと改めさせ、エホアハズを捕えて、エジプトへ連れて行った。エホアハズはそこで死んだ」と記されています。宗教改革を行うも、最後はエジプトの王、パロ・ネコによって殺されてしまった父ヨシヤ王の後を引き継ぐも、在位3か月で終わります。エジプトに連れていかれ、そこで死ぬこととなるのです。

 

それが↑で「死んだ者のために泣くな。彼のために嘆くな。去って行く者のために、大いに泣け。彼は二度と、帰って、故郷を見ることがないからだ。父ヨシヤに代わって王となり、この所から出て行った、ヨシヤの子、ユダの王シャルムについて、主はまことにこう仰せられる。『彼は二度とここには帰らない。彼は引いて行かれた所で死に、二度とこの国を見ることはない。』」とエレミヤに神様が告げられたことになります。ヨシヤ王という偉大な王がいなくなって悲しむ民、しかしその後続くエホアハズ王も帰ってくることがない、この境遇を悲しむよう神様は訴えるのです。

 

こんな状況にどこに希望があるのか。その後先ほど出てきたエホヤキムが登場しますが、その後出てくるエホヤキン王は3か月でこれまたバビロンに捕囚されていきます。ただ彼の場合は捕囚地で神様に立ち返り、彼の子孫からバビロン捕囚解放後の中心人物が登場したりもします。そして前の章で見ていたゼデキヤ王の絶望と、バビロンによる完全捕囚。

 

ただ、境遇を悲しむで終わりでいいのでしょうか、神様は彼らを見捨てたのでしょうか。よくゼデキヤ王に預言されていたことを思い出してほしいのですが、神様は「見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。この町にとどまる者は、剣とききんと疫病によって死ぬが、出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる。なぜならわたしは、幸いのためにではなく、わざわいのためにこの町から顔をそむけるからである…」と仰られていましたよね。

 

確かにどちらにせよ向かうはバビロン捕囚ではあるのですが、ただ神様は彼らの前に、「いのちの道と死の道」を置かれているのです。いのちの道は、神様が共に進まれる道です。そう、今神様は、もう一度彼らに、私たちに自分の境遇を見つめなおすよう訴えるのです。私たちは世の中や周りの状況、境遇に絶望していませんか?希望を失っていませんか。しかし私たちが忘れてはいけないのは、私たちには神様がいるという事です。私たちの境遇、私たちの歩む一日一日の中に神様が共におられる、いや神様が造られた日々の中に私たちは今日生かされている、神様の御手の中に私たちはあるのです。陶器師が精魂込めてその作品を作っていたように、神様は私たちをその御手をもって、その情熱をもって守り導かれておられるのです。

 

神様が私たちを造られた、この神様が今日あなたを守られている、導かれている、死の道ではなくいのちの道に招こうと語られ続けている、こんな素晴らしい境遇はありません。ヨシヤ王の時代だけではなく、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤと時代が変わっても神様の愛は、御言葉は止まることがなかったように、神様は今日も私たちに語り続けておられる。私たちは神様の口から出る一つ一つのことば、恵みによって生きさせていただいているのです。その神様がその口から出し実現させてくださるそのご計画が私たちにも注がれている、何か不確定なものでも、時とともに変わるものでもなく、確かに神様の御手があなたの上にあり、あなたの手を取り導かれるのです。

 

私たちは神様から離れて歩むその自分で作りだした境遇から離れ、神様があなたを導かれるこの境遇に思いを置きましょう。パウロという、神様を信じていた人が、多くの迫害を受け、何度も殺されそうになりながらも、彼は自分の境遇について「私は主にあって非常に喜びました。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と語りました。

 

たとえ、神様を信じて貧しく大変な状態に世から見たらあったとしても、むしろ神様が彼自身を、私たちを満ちたらせてくださる、神様が私たちをどのような状況の中にあっても強めてくださる、神様がいる、神様が共におられ、神様ご自身が働かれているこの境遇を彼は感謝していました。この神様に彼は生かされているんだ、という確信があったのです。

 

神様はエレミヤを通してさらに「ああ。不義によって自分の家を建て、不正によって自分の高殿を建てる者。隣人をただで働かせて報酬も払わず、『私は自分のために、広い家、ゆったりした高殿を建て、それに窓を取りつけ、杉の板でおおい、朱を塗ろう』と言う者。あなたは杉の木で競って、王になるのか。あなたの父は飲み食いしたが、公義と正義を行なったではないか。そのとき、彼は幸福だった。彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさばき、そのとき、彼は幸福だった。それが、わたしを知ることではなかったのか。―主の御告げ―しかし、あなたの目と心とは、自分の利得だけに向けられ、罪のない者の血を流し、しいたげと暴虐を行なうだけだ…」とエホヤキム王時代に語られた預言をもう一度ここで思い起こさせます。ヨシヤ王の時代は神様を求めていたからこその境遇だったんだ、と。神様がその幸福を注がれていたのに、その神様を求めず、神様から離れて好き勝手しているところにあるのは、罪やサタン、世の勢力の利得にしかならない。そうじゃなく神様の境遇、神様の恵みに生きるよう、いまあらためて訴えるのです。

 

私たちはやがて滅びゆく道に進んではいけない。神様はあなたをいのちの道に、救いに招くため、御子イエス様を私たちのために遣わされたではありませんか。どこか遠いところにおられるのではなく、罪を犯さない点を除いて完全に人となって生まれ、人として人の間に住まわれ、その愛を現された。当時はローマ帝国の支配や偽宗教家たちによる理不尽などもうどうにもならない時代、そのような境遇をイエス様は呆れて捨てるのではなく、むしろそれでも愛を現し続け、ついには私たちの罪の身代わりに、神様はイエス様にその罪を背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。

 

これ以上の境遇がどこにありますか?あなたの今日は、このイエス様のいのちが注がれている、この愛があなたに注がれ、今日私たちは生かされているのです。私たちはもう自分の境遇を悲しんで自分の好きなように生き、周りの声によって不遇な家、いのちを建ててはいけない。神様が今日あなたという人を今日も建て上げ、またあなたを導かれているのです。あなたの手を握っているのは、あなたの日々を与えてくださっているのは、扉を開けてくださっているのはこの神様なんです。しかも罪人としてではなく、神様の子とされた。これ以上の喜びはどこにあるのか。私たちはこの神様の愛からもう離れることなく、天の御国に行くその日まで、主から離れることなく歩み続けよう。神様が御子イエス様いのちにあって開かれたいのちなのですから。