―愛されているんです― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主はこう仰せられる。『ユダの王の家に下り、そこで、このことばを語って言え。【ダビデの王座に着いているユダの王よ。あなたも、この門のうちに入って来るあなたの家来、あなたの民も、主のことばを聞け。主はこう仰せられる。公義と正義を行ない、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ。在留異国人、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また罪のない者の血をこの所に流してはならない。もし、あなたがたがこのことばを忠実に行なうなら、ダビデの王座に着いている王たちは、車や馬に乗り、彼らも、その家来、その民も、この家の門のうちに入ることができよう。しかし、もしこのことばを聞かなければ、わたしは自分にかけて誓うが、―主の御告げ―この家は必ず廃墟となる。】』まことに、ユダの王の家について、主はこう仰せられる。『あなたは、わたしにとってはギルアデ、レバノンの頂。しかし必ず、わたしはあなたを荒野にし、住む者もない町々にする。わたしはあなたを攻めるため、おのおの武具を持つ破壊者たちを準備する。彼らは、最も美しいあなたの杉の木を切り倒し、これを火に投げ入れる。多くの国々の民がこの町のそばを過ぎ、彼らが互いに、【なぜ、主はこの大きな町をこのようにしたのだろう】と言うと、人々は、【彼らが彼らの神、主の契約を捨て、ほかの神々を拝み、これに仕えたからだ】と言おう。』」

エレミヤ書22章1-9節

 

私たちは愛されているって知っていますか?そんな人がどこにいるんだよ、と思う人もいるかもしれませんが、どんなに孤独に感じる事があっても、私たちは神様に愛されているんです。これは変わらない事実です。嘘ではないですよ。神様は、私たちを救うためになら御子イエス様のいのちを惜しまず与えてくださったほどにあなたを愛してくださっているのです。この命に、あなたという人にそれだけの愛が注がれているのです。なんと感謝な事でしょう。ただそれだけではなくもう一つ忘れないでほしいのは、あなたの隣にいる人も、周りにいる人も神様にその愛を注がれていること。私たちはだからこそ、互いに愛し合いたいものです。神様の愛がここに溢れることを。神様の御心がここになることを。そこに神様の驚くべきことがなるから。あなたは今日神様をどれだけ求めているでしょう。

 

さて↑は、古代イスラエル王国において北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エホヤキム、そしてエホヤキン王と続き、南ユダ最後の王、ゼデキヤ王の時代の話になります。彼はBC597年に王になりました。とはいっても、バビロンの傀儡でしかありませんでしたが。彼は11年王として統治していた。しかし最後の3年間、バビロンの王ネブカデレザルに反逆しました。そのためにエルサレムはバビロン軍によって包囲されることになります。↑はそのころの出来事です。ゼデキヤ王はバビロンのネブカデネザル王に包囲され、絶体絶命の時を迎えていました。そして、もしかしたら神様なら助けてくれるかもしれない、との思いで神様に祈ってほしい、とエレミヤに使者を遣わし、「いのちの道と死の道」を彼らの前に置かれ、神様がどんな時も共におられる、神様が広げられるいのちの道を歩もう、と招かれるのでした。

 

ここで話はヨシヤ王の死んだ頃にさかのぼります。まあエレミヤ書がエレミヤへの預言がまとめられたものでもあるので、どうしても時代があっちこっちいく傾向があります。ただ、神様のおことばは、ある時はその通り、ある時は変わる、とかそういう不安定なものではなく神様のことばは永遠に立つのです。いや、必ずそれを成し遂げ、空しくかえってくることは決してない。神様は昔の話ではなく、今も生きておられ、今もあなたを変わらず愛し導いて下さっていることを忘れないでください。神様はあなたを今日も愛しておられます。

 

いきなり話が逸れましたが、神様はエレミヤを通して「ユダの王の家に下り、そこで、このことばを語って言え。『ダビデの王座に着いているユダの王よ。あなたも、この門のうちに入って来るあなたの家来、あなたの民も、主のことばを聞け。主はこう仰せられる。公義と正義を行ない、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ。在留異国人、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また罪のない者の血をこの所に流してはならない。…』」と語られます。

 

昨日も分かち合わせていただきましたが、当時は主に王様が裁いていました。近代に見られる三権分立とは少し違いますね。それゆえに王は常に神様を求める、神様の義を求めることが神様から求められていました。まあそもそもの話が、「あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない」と神様が仰られていたのに、それをしなかった時点で問題は出てくるわけですが。

 

神様はこの裁きについて「あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる」と裁きを曲げたり、賄賂によって裁きを変える、弱さを抱える人を虐げた判決をしてはいけない、とはっきりと仰られていました。まさに↑で神様がエレミヤを通して語られている通りです。その神様の御思いは昔も今も変わらないのです。

 

それで、エレミヤを通して神様は何を訴えたかったのか。それは公義と正義を行う事です。ちょっと言葉がかたくて何を言っているのか捕らえづらいかもしれませんが、公義は公正に物事を治めることです。そして正義はそのままと言えばそのままなのですが、真っすぐな関係を現します。捻じ曲げた関係ではなく、まっすぐな関係へ。逆に言うならばねじ曲がってしまっている関係をまっすぐに直す、という事も言えるでしょう。

 

神様は、ねじまがった関係ではなく、互いに愛し合う、真っすぐな、真実なる愛で互いに愛し合うことを何よりも願われています。律法の中でも、イエス様もまた「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と仰られます。それは誰か自分の中の良い人を愛しなさい、とかそういうことではなく、あなたの苦手な人も、あなたの目の前にいる困っている人も自分のように愛そう、互いに愛し合いましょう、というのです。特に当時は何か障がい、弱さのある人をさげすむケースが見られ、下手をすれば、この人がそのような体になったのは、その人が罪を犯したか、両親、先祖が何か罪を犯したからか、とさげすまれていることもありました。

 

ただイエス様は別な時に「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。…まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」とも仰られました。

 

この小さなもの、神様はそのような小さなものにも目を留められ、その御手を差し伸べられ癒されてきました。わたしの目的は人々の罪を身代わりに背負い十字架にかかることだから、今目の前にいる人を助けている場合ではない、と見捨てるのではなく、むしろその人たちのところに、人々から見捨てられるような人たちのところに足を運ばれ、癒されたのです。でも癒して終わりではなく、神様との真っ直ぐな関係に引き戻されるために、真実なる愛の関係の中に招き続けたのです。それはもちろん弱さを持っている人たちだけではない、霊的に弱さを持つ人たち、神様を知らず、心・霊において貧しい、小さな、暗闇の中をさ迷い歩く彼らを、私たちを神様の真実なる愛の中に招こうとされたのです。

 

今エレミヤを通して神様が語られていることは、互いに愛し合い、支え合う事、それも真実です。私たちは意外にこの点を見逃しやすいのですが、信仰さえ持っていれば目の前の困っている人を無視していいというわけではありません。また罪にさ迷う人をただそれはダメだ、と罰して終わるのではなくその人を悔い改めに導くのも大切なことです(アナニヤとサッピラの罪について使徒の働きの分かち合いの中で見ましたが、もし彼らをペテロが悔い改めに導いていたら?)。

 

12弟子の一人だった使徒ヨハネは老年になって「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています」と語ります。むしろ神様の愛にあって、神様の愛を受け赦されたことを覚え、互いに愛し合うことを勧めるのです。だからこそまず真実なる神様の愛に帰ろう、この愛を受け、これに生きよう、と。

 

エレミヤに、神様は「ダビデの王座に着いているユダの王よ。あなたも、この門のうちに入って来るあなたの家来、あなたの民も、主のことばを聞け」というように仰られていますよね。すべての人を神様はその真実なる門、神様の門に招かれているのです。神様の不完全なる愛ではなく完全な愛、捻じ曲げられた関係ではなく真っ直ぐな神様の愛へ招かれているのです。私は関係ない、あの人は関係ない、ではなくあなたを神様は招かれているのです。あなたの隣人をも神様は招かれているのです。あなたも隣人も、神様が造られ、愛された存在です。私たちには関係ない、と神様から離れて一体どうして私たちは生きられますか。

 

「あなたも」、神様はその王座からあなたを招かれた。あなたを招くために御子イエス様を遣わされたのです。あなたをもう一度まがった関係ではなく、滅びに向かう、死に向かう私たちをもう一度取り戻すために、あなたを救いに来られたのです。なんでこんな裏切り、すぐに離れるものを愛さなければいけないんだ、自分が命を身代わりにしなければいけないんだ、とは考えずに、御子イエス様は、私たちの罪を身代わりに背負われ、最後まで十字架から降りることなく、身代わりに罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。罪によって捻じ曲げられた関係から、真実な愛の関係に。御子イエス様のいのちにあって今日招かれているのです。↑にある裁きを私たちの身代わりに御子イエス様に背負わせてまで。

 

私たちはこの愛を受けた今、どう生きるでしょうか。私たちは今日、御子イエス様にどれだけ愛されているのか、今一度十字架に立ち返りこれを心に刻み、この愛をもって互いに愛し合う、仕え合う者でありたいものです。私たちはこの真実なる愛、神様の愛なしに生きることはできません。私たちは今こそこの真実なる神様の愛が溢れることを、また私たちの周りにも溢れ、神様の栄光が満ち溢れることを祈り歩みたいものです。神様は今日も、その御国物門を、イエス様のこのいのちをもってひらかれ、その恵みを注がれているから私たちもこれに生きようではありませんか。