―朝ごとに、いやいつもそこにある救い― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『あなたは、この民に言え。主はこう仰せられる。【見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。この町にとどまる者は、剣とききんと疫病によって死ぬが、出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる。なぜならわたしは、幸いのためにではなく、わざわいのためにこの町から顔をそむけるからである。―主の御告げ―この町は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼くであろう。】』ユダの王家のために―『主のことばを聞け。ダビデの家よ。主はこう仰せられる。朝ごとに、正しいさばきを行ない、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ。さもないと、あなたがたの悪行のために、わたしの憤りが火のように燃えて焼き尽くし、消す者はいない。』『ああ、この谷に住む者、平地の岩よ。あなたに言う。―主の御告げ―あなたがたは、【だれが、私たちのところに下って来よう。だれが、私たちの住まいに入れよう】と言っている。わたしはあなたがたを、その行ないの実にしたがって罰する。―主の御告げ―また、わたしは、その林に火をつける。火はその周辺をことごとく焼き尽くす。』」

エレミヤ書21章8-14節

 

神様って本当にいるの?と聞かれることがあります。私も子供のころはよくわからなかった。話には聞いていたけど、どこかお話の世界なのかな、と思っていたのを覚えています。ただ、じゃあどうやったら一人で生きられるんだろう、と小さいながらに思い、寝ているとき、どうやって死なないでいられるんだろう、と疑問に思いました。ただ、この真相を動かしている人がいる、翌朝を備えてくださる方がいる、ああ、神様が私を生かして下さっているんだ、とこの時知りました。それからいじめやらなにやら本当に死にそうな中を通ってきましたし、何度か書いていますが自死に至りそうになってこともありました(結局助け出されたのですが)。神様がいなければ私の今日はない、神様が順境の時も逆境の時も共にいてくださることをこの身で体験してきました。私たちは本当に色んな時がある、でも私たちはこの神様に今日生かされていることを覚えよう。御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった神様が今日私たちを愛し導かれていること、共におられることを覚え、この方から離れず歩みたいものです。

 

さて↑は、古代イスラエル王国において北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エホヤキム、そしてエホヤキン王と続き、南ユダ最後の王、ゼデキヤ王の時代の話になります。彼はBC597年に王になりました。とはいっても、バビロンの傀儡でしかありませんでしたが。彼は11年王として統治していた。しかし最後の3年間、バビロンの王ネブカデレザルに反逆しました。そのためにエルサレムはバビロン軍によって包囲されることになります。↑はそのころの出来事です。ゼデキヤ王はバビロンのネブカデネザル王に包囲され、絶体絶命の時を迎えていました。そして、もしかしたら神様なら助けてくれるかもしれない、との思いで神様に祈ってほしい、とエレミヤに使者を遣わすのでした。

 

しかし神様が仰られたのは、彼らが思っていた事とは違い「見よ。あなたがたは、城壁の外からあなたがたを囲んでいるバビロンの王とカルデヤ人とに向かって戦っているが、わたしは、あなたがたの手にしている武具を取り返して、それをこの町の中に集め、わたし自身が、伸ばした手と強い腕と、怒りと、憤りと、激怒とをもって、あなたがたと戦い、この町に住むものは、人間も獣も打ち、彼らはひどい疫病で死ぬ。そのあとで、―主の御告げ―わたしはユダの王ゼデキヤと、その家来と、その民と、この町で、疫病や剣やききんからのがれて生き残った者たちとを、バビロンの王ネブカデレザルの手、敵の手、いのちをねらう者たちの手に渡す。彼は彼らを剣の刃で打ち、彼らを惜しまず、容赦せず、あわれまない」というものでした。彼らは神様に祈ってもらったのだから、助けてくれるに違いない、という思いがあったでしょうが、そうではありませんでした。

 

これなら神様に頼らなければよかった、と思いますか?もしあなたが困った時に神様に頼ったら思うような答えをいただけない時、その時それなら頼らなければ、と思いますか?ただ自分たちの都合に応えさせる神を求める、というのは何か違いますよね。むしろ神様は、私たちにいつもその御目を向けてくださっており、その御手を伸ばし、救わんとしてくださっているのです。

 

昨日の分かち合いでも触れましたが、じゃあ彼らを見捨てるから、と神様は無視して何も答えなかったのか、と言ったらそうではありませんよね。神様は彼に応えてくださった。神様はエレミヤを通して民に、そしてゼデキヤ王に「見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。この町にとどまる者は、剣とききんと疫病によって死ぬが、出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる。なぜならわたしは、幸いのためにではなく、わざわいのためにこの町から顔をそむけるからである。―主の御告げ―この町は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼くであろう」と仰られました。

 

神様は「死の道」だけを置いている、と仰られたのではなく「あなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く」と仰られたのです。これは何か別世界の話、他人事の話ではない、あなたのための道なんだ、と。神様は救いの道を彼らの前に置かれていたのです。死の道は彼らが自分たちがこれまで歩んできたように自分たちの好きなように選んできた道を進むことです。神様はいのちの道に進むよう招かれているのです。それは神様が共におられるという道です。

 

ここで神様が仰られていることは「この町にとどまる者は、剣とききんと疫病によって死ぬが、出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる。なぜならわたしは、幸いのためにではなく、わざわいのためにこの町から顔をそむけるからである。―主の御告げ―この町は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼くであろう」というものです。どこにいのちの道があるのか、と思うところです。しかし、バビロン捕囚されていく先で神様も彼らと共におられるのです。捕囚地にあっても預言者を置いて民の内に語られ、守られていた。また物理的な面においても、バビロンの宦官にイスラエルの民を置かせることによってイスラエル民族存亡の危機から救われたり、バビロンの王たちが神様に悔い改めるなど、驚くべき御業をなして、70年先には神様はバビロンからイスラエルの民を解放されるのです。

 

彼らの目から見たらそれは死の道に見えたかもしれない。しかし、神様が彼らと共に進まれる、神様がそこに満ちを開かれ導かれるからこそ、そこに命があるのです。どんなに彼らを焼きつくそうとしても、決してそれは叶わない、むしろ神様の情熱が彼らを生かすのです。しかし神様がこうしなさい、と仰るところに意味などない、と自分で道を切り開こうとしても神様が顔を向けてなければ一体どこにいのちがあるだろう。自分の前に置かれている自分の道、神様不在の道に進むか、どんな時でも神様が共に神様がおられる、神様の奇しい御業が、その恵みが注がれる道を進むか、あなたはどちらを望むでしょう。「神様が」あなたの前においてくださったんですよ?神様があなたを保証されるんです。これ以上どこに恵みがあるでしょう。

 

神様は、エレミヤを通してこれまでの王にも言ってこられたことですが、「主のことばを聞け。ダビデの家よ。主はこう仰せられる。朝ごとに、正しいさばきを行ない、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ。さもないと、あなたがたの悪行のために、わたしの憤りが火のように燃えて焼き尽くし、消す者はいない」と仰られます。当時のイスラエルは、以前神様が律法に定められたような正しい裁判官が置かれることはなく、専制君主性のような状態になっていました。どちらかというと王に謁見して裁いてもらう(ソロモンの知恵による裁き(一緒に暮らしていた女性が同じ日に赤ちゃんを出産するも、片方の母親が子供を寝ている時につぶしてしまったか死なせてしまい、赤ちゃんを取り換えてしまった、という事件)などでもわかるかと思いますが)ようになっていました。しかし、彼らは正しくさばかず、下手をすれば賄賂を受け取って裁きを曲げる何でこともあった。神様が悪行、というほどですから相当のものだったのでしょう。そこから神様の知恵に、自分たちの進む道を神様にしっかり委ねよう、と今改めて訴えるのです。神様のことばを聞け、と。

 

古代イスラエル王国3代目の王ソロモンは「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」と語り、また2代目の王ダビデは「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる」と、それぞれ体験的に語りました。神様がその道をまっすぐにし、成し遂げ、義を光のように、真昼ようにあなたの道を輝かせてくださるのです、神様の義をもって。朝毎に正しいさばきをもって私たちを導かれる。

 

だからこそ私たちは「だれが、私たちのところに下って来よう。だれが、私たちの住まいに入れよう」と言って自分の知恵に頼るのではなく、神様が私たちの主であることを願い、お招きしましょう。神様があなたの王となり、あなたをすべ治め守られるから。私たちの悟りが神様にどうして勝れましょう。この天地万物を造られた神様が今日あなたを守られ導かれる、神様のいのちで、神様ご自身であなたを溢れさせてくださるのです。

 

神様はかつてダビデ王に「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう」と仰られました。神様が私たちが神様の恵みから離れ、その霊が貧しく死にゆく私たちを何とか救わんと、朝毎に、とこしえにその恵み、救いに招くため、私たちの罪を取り除くため、神様は私たちのために御子イエス様を遣わして下さりました。神であられるのにもかかわらず罪を犯さない点を除き完全に人となって生まれてこられました。一時的ではなく私たちの間に住まわれ、その愛を現されました。どんなに裏切られても私たちを捨てず、ついには私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架に架けられ、罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえらせていただいたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、死の道ではなくいのちの道へと私たちを招かれた、神様の子として招かれたのです。「だれが、私たちのところに下って来よう。だれが、私たちの住まいに入れよう」と言う私たちのために神の御子イエス様が降ってこられ、陰府に降ってまで私たちを引き上げ神様の御住まいに私たちを招いてくださったのです。

 

神様はこのイエス様のいのちにあって私たちに今「見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く」と私たちにも問いかけられています。神様が置かれた救いの道と死の道です。もう私たちを世に、思い煩いに、何より罪に踏みにじらせてはいけない。これらによって神様のくださったいのちを貧しいものにさせてはいけない。今こそ、神様の溢れんばかりの恵みに生きようではありませんか。御子イエス様にあって開かれたこの命の道、私たちは最後まで神様に信頼し歩もうではありませんか。