「主からエレミヤにあったみことばは、こうである。『立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。』私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。それから、私に次のような主のことばがあった。『イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。―主の御告げ―見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。さあ、今、ユダの人とエルサレムの住民に言え。【主はこう仰せられる。見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え、あなたがたを攻める計画を立てている。さあ、おのおの悪の道から立ち返り、あなたがたの行ないとわざとを改めよ。】しかし、彼らは言う。【だめだ。私たちは自分の計画に従い、おのおの悪いかたくなな心のままに行なうのだから】と。」
エレミヤ書18章1-12節
私が小さな頃、母の手がいつも近くにあったような記憶が残っています。いつも私が母を呼ぶと、すぐに駆けつけてくれた。それだけに20年前に突然事故で召天した時はもうどうしようもなく、感情、思考が停止した、そんな時期がありました。ただ、やはり子はいつかは親元を離れるわけです。しかし神様は私たちをその御手でいつも守られている。御手の内にある、それがどれだけ感謝な事か。あなたという人を愛し、あなたのためなら、あなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまない神様が今日あなたと共にいるんです。この神様の御手の内に私たちは今日生かされているのです。私たちは神様に帰ろう。神様はあなたの呼び声を聴き、また応えられるから。
さて、古代イスラエル王国において、北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エジプトの傀儡の王エホヤキムが王になったBC607年頃、神様がエレミヤを通して語られたのが↑になります。神様は私たちを神様ご自身のものとしてくださり、その恵みに生きてほしい、あなたの内側を、世の思い煩いや痛み、罪ではなく神様の恵み、聖霊様で満たしたい、とご自身のもとに招くかのように語られてきました。本来捨てられてもおかしくない私たちを、王の王、主の主なる神様がすべ治め、私たちの渇いた地を天の恵みの雨で潤されると約束され、その契約はまさに今、御子イエス様のいのちをもって私たちとも結ばれる、善にして善を行われる、慈しみ深い神様が今日あなたに恵みを注がれている、と。神様はもう罪やサタンによってあなたの心を刻まれるのではなく、神様の霊に満たされるよう招かれるのです。本当の意味での癒し、救いに、終わることのない安息にイエス様の花嫁として。
神様はここでエレミヤに「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう」と仰られます。エレミヤは何でそんなことを?とは考えずに、これを聞くと「陶器師の家に下って行」きました。
私はこのエレミヤの聞いてすぐに行動したことがすごいな、と思います。普通に考えたらいきなり立って、陶器師の家に行って何になる、と考えたいじゃないですか。今神様、それどころじゃないでしょ、と。それはこれまでエレミヤ書を分かち合ってきた中でどれだけ荒んだ状況か、またエレミヤ自身も命を狙われていることも見てきた通りです。今下手に自分の知らないところに行ったら、何があるか分からない。いったところで何になる、今はそれどころじゃない、など色々考えたくなることもあるでしょう。
誰しも一歩を踏み出すという事は勇気が必要な事です。ただ無謀というのも違います。そこに保証があるから、私たちは踏み出せるのです。その保証は何か、語られる神様、行けという神様がそこにおられる。神様が行け、というなら必ず連れて行ってくださる。神様が招く場所に。不明確な場所なのではなく、神様のおられる場所、神様が共にそこまで導いて下さるのです。
私たちはどうしても神様を疑って自分で扉を閉めてあきらめるという事がありますが、しかし神様が開かれた、神様が今導こうとしてる、それなのに私たちが神様を信じないでどうしますか。見えないからですか?それは人は見えないことに不安を覚えます。しかし、神様はどこぞの八百万的な神ではない、何もしゃべれない、自分で動くことさえできない、息もないものではない、神様は語られ、行動される、愛を語るだけではなく実行される方。私たちは近年は人生100年時代と言いますが生きても大体そんなものです。しかし、神様はこの天地万物を苦られ、そこから今に至り、これからもずっと存在し続け、保持される方。守られる方。私たちはこの神様に何が勝ることができるでしょう。この神様は私たちが生まれる前から私たちのことを知り、母の胎内で形作り、また命を与えてくださり、そして今日まで生かして下さっている、その神様から離れて私たちは何ができるでしょう。
イスラエルの父祖にあたるアブラハムという人がかつていました。彼は偶像を拝み、何を信じたらいいのか分からないようなところに住んでいたのですが、ある日神様は彼に、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と仰られたのですが、彼が神様のことばに従い、神様の言われた、全く見たこともない、どこにあるのかもわからない、どれくらいそのところまでかかるかもわからない、そのような中で出発しました。そして彼は本当の意味での新しい命、神様の御手の内にある新しい命へと招かれたのです。もちろん様々な問題はありましたが、彼の内に神様の恵みが溢れた人生へと変えられたのです。
↑を見ると神様の悔い改めへの招きに対して、民は受け入れなかったことが語られていますが、エレミヤはまだ見えなくとも、神様がそこにおられるから、と信じて踏み出していきました。私たちは神様が開かれる、神様がその御手の内にあって導かれることをどう感じるだろうか。それでも自分は自分?神様を世の中と同程度に並べて神様を侮る?私たちは私たちに命を与え、そのいのちを広げる神様に今日信頼したいものです。神様が行け、というなら、神様がそこにあり、神様がそこに何かをあなたのために用意されているのだから。
こうしてエレミヤは神様の仰られたように陶器師の家に下っていきました。おそらく陶器師の家といっても、一軒だけではないでしょうから、神様が、その見せたいその場所に導かれた、というのは間違いないでしょう。神様は確かに導かれる神様。そうしてエレミヤがその神様の見せたかった陶器師の家に行くと、ちょうど、陶器師はろくろで仕事をしているところでした。陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えているその姿を見かけます。神様は一体何を見せたかったのか。
神様はエレミヤに「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。―主の御告げ―見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す」と仰られました。
陶器師はもちろん気がふれて作品を壊したわけではありません。ただ気にくわない、役に立たないから他のものに変えてしまおう、と元のものを捨てた様子がこの陶器師の姿からは見えません。むしろ「再びそれを」陶器師自身の気に入った器に作り替えるのです。神様はそのようにされる方なんだ、と仰られるのです。気に食わなければ壊す、気に入れば大事にする、そういう話ではなく、神様はそれを捨て去るのではなく、新しく作り直して下さるのです。たとえ他から捨てられるような状態になろうと、神様はなんとか彼らが、私たちという器が回復することを願って、良い、神様の理想とする最高の姿、神様のイメージされている姿に、それこそ人が作られた時のようにまさにその霊魂込めて神様は私たちをその御手の内にあって整えられているんです。それは世の中の誰かじゃない、このご時世を握っている誰か、当時でいうならバビロンではない、偽預言者でもない、本物の神様、この天地万物を造られた神様が、あなたという人にその御手をもって愛を注がれているのです。
私たちは自分をだれの手に委ねていますか?それはあなたに大きな影響を与えます。それは人生歩んでいれば何となく感じるのではないでしょうか。別にそういう人と隔てた場所で生きるように、とかそういうことを言いたいわけではないのです。あなたという人は誰の御手の内にあるのか。「あなたがたも、わたしの手の中にある」、神様の御手の中に、「あなたも」もあるのです。好き勝手にしたいなら、捨てるでしょう。神様から離れ好き勝手に生きていた彼らなら、しかし神様はそれでも、悔い改めるなら「災いを思い直す」と約束されているのです。
神様の御手が私たちと共にある、世に捨てられ、もうどうにもならなくなっている私たちをそれでも、もう一度魂を吹き入れるために、神様は御子イエス様を私たちに遣わされました。神様は見捨てていなかったのです。もういらないなら、イエス様を遣わすこともないでしょう。わざわざ人と同じようになってまで生まれてくるなどされなかったでしょう。しかし、神様はそれでも壊され、崩れ行く私たちを救うため、その罰をその身に引き受けるため、御子イエス様に私たちの重荷も、痛みも、罪も一切を身代わりに背負わせ、十字架に架けられ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、まさに↑で語られているように、災いの手から引き上げ、神様の子として受け入れてくださるのです。
命をかけてまであなたを死から命へ引き上げられた、そのイエス様の御手が、その御腕があなたを今日導かれます。私たちは今日誰にあなた自身を委ねているでしょうか。神様がその御腕で開かれ、その手で導かれ、全てはこの命をかけたイエス様の御手があなたを包んでおられるのです。命をかけて、その御手を伸ばしてまであなたをもう一度回復させたかった、神様のイメージに、あるべきあなたへ。もう他の世の勢力、思い煩い、罪、サタンにあなたを壊させてはいけない。今日、神様の御手に私たちは委ね、その造られる一日一日信頼し、委ね、歩もうではありませんか。
