「主は私に仰せられた。『たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない。彼らをわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。彼らがあなたに、【どこへ去ろうか】と言うなら、あなたは彼らに言え。【主はこう仰せられる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、ききんに定められた者はききんに、とりこに定められた者はとりこに。】わたしは四つの種類のもので彼らを罰する。―主の御告げ―すなわち、切り殺すために剣、引きずるために犬、食い尽くし、滅ぼすために空の鳥と地の獣である。わたしは彼らを、地のすべての王国のおののきとする。ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行なったことのためである。エルサレムよ。いったい、だれがおまえをあわれもう。だれがおまえのために嘆こう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねよう。おまえがわたしを捨てたのだ、―主の御告げ―おまえはわたしに背を向けた。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに飽いた。わたしはこの国の町囲みのうちで、熊手で彼らを追い散らし、彼らの子を失わせ、わたしの民を滅ぼした。彼らがその行ないを悔い改めなかったからだ。わたしはそのやもめの数を海の砂よりも多くした。わたしは若い男の母親に対し、真昼に荒らす者を送り、にわかに、苦痛と恐怖を彼女の上に襲わせた。七人の子を産んだ女は打ちしおれ、その息はあえいだ。彼女の太陽は、まだ昼のうちに没し、彼女は恥を見、はずかしめを受けた。また、わたしは、彼らの残りの者を彼らの敵の前で剣に渡す。―主の御告げ―』」
エレミヤ書15章1-9節
小学校2年生ごろ、兄と喧嘩をし、明らかに私の方が悪かったので親に家から追い出されたことがあります。当てもなく彷徨い、どうにもならず、ついに家に帰って謝って、ようやく受け入れてもらえました。まあ当時飼っていた犬を散歩に連れて行ったらね、という緩い条件付きでしたが。小さな子供が親に見捨てられたら、もう生きてはいけない。ただ、もしこれが神様だったらどうだろう。もし神様に私たちが見捨てられたらどうなるだろう。私たちは神様がいかに私たちを生かし、愛してくださっているのか、もう一度覚えたいものです。私たちを、あなたを心配され、探しに来られ、いのちを持ってまで救い出された、この愛を覚え。
さて、古代イスラエル王国において、北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エジプトの傀儡の王エホヤキムが王になったBC607年頃、神様がエレミヤを通して語られたのが↑になります。神様はここまで、亜麻布を帯でしっかり結ぶように、神様が私たちを神様ご自身のものとしてくださり、その恵みに生きてほしい、あなたの内側を、世の思い煩いや痛み、罪ではなく神様の恵み、聖霊様で満たしたい、とご自身のもとに招くかのように語られてきました。王の王、主の主なる神様がすべ治め、私たちの渇いた地を天の恵みの雨で潤される、と語られていました。その契約はまさに今、御子イエス様のいのちをもって私たちとも結ばれていることを見てきました。
神様はエレミヤに、「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない。彼らをわたしの前から追い出し、立ち去らせよ」と仰せられます。モーセ、サムエルって?と聖書にあまりなじみのない方もいるかもしれませんが、まず、モーセというのは、かつてイスラエルがエジプトの奴隷として400年近くの間捕らえられていた時に、神様が彼をリーダーとして立て、救い出された、そして約束の地の直前まで導いていった人です。彼は、とても謙遜な人でした。様々な理不尽なことを一緒に脱出したイスラエルの民から言われ、それでも民を見捨てることなく一緒に進んでいきました。時には石を投げられ殺されそうになっても。
ただ、なんでモーセなの?と思うかもしれませんが、その約束の地、かつて先祖たちが住んでいた地、そして必ず帰ると約束されていた約束の地へ向かう途中、モーセが神様にある山に登るように言われ、登って行ったのですが、あまりにモーセの帰りが遅い、と不安になった民は、神様は自分たちを見捨てたんだ、と言って、モーセのサポートとして立てられていた兄のアロンに迫り、自分たちの神を作れ、と言い始めるのです。とんでもない話。ここまで神様が道のない道を導かれ、食べ物も飲み物もない中で日々神様は食べ物を与え、飲み水を与え、戦いがあれば、まだ戦い慣れないイスラエルの民のために神様は戦ってくださっていた。それなのにもかかわらず、彼らは神様を捨て、金の子牛像を作ったのです。
その時神様は、「わたしは彼らを絶ち滅ぼし、あなたを大いなる国民にする」と断絶宣言をされたのですが、モーセは必死に民のために執り成し祈ったのです。自分が神様の内から名を消されても、それでもなんとか彼らを赦していただきたい、と必死に訴え、ついに神様は思い直されたのでした。
それだけではなく、約束の地の目前まで1年目にしてようやくたどり着いた時、モーセたちは偵察隊を出すのですが、その際、彼らは神様の実りの約束を目にします。神様がここに働かれる、神様が養われる、という約束を目にするのでした。それを具体的に目に見える形として彼らに与えていたのです。しかし偵察隊12人の内10人が神様を否定、神様はなんて場所に連れてきたんだ、エジプトに帰ろう、と言い始めたこともありました。残りの2人はいや神様は与えている、と民を励まし進み行くことを進言したのですが。10人の偵察隊はその言葉に腹を立て、ついには石を投げ殺そうとします。それは、神様の約束に対して手をあげる、石を投げつける行為だったのです。しかしそれでも神様へのモーセの執り成しの祈りによって、「彼らを打って滅ぼす」と言われた言葉は取りやめられたのです。
しかし、ここで一つの大きな問題が起こります。何だ助かったんだ、よかったよかった、ではすまなかったのです。ここでイスラエルの民は実は約束の地への到着が40年遅れます。それだけではありません。この偵察隊10人のもたらした偽の福音により、エジプトから出てきた20歳以上の世代は約束の地に入ることができなくなりました。偵察隊の残りの二人を除いて。2人は最後まで神様に従いとおし、約束の地に入ることが赦されたのでした。それ以外は神様から与えられるはずだった恵みを失ってしまうのです。その先も神様に逆らい、死んでいった者、生きたまま地に飲み込まれたものなど、悲惨な道を進む者たちもいました。先程の金の子牛像の事件も、これを作り拝み、恐ろしいことをしていた人たちは実は討たれ死にました。
どうせ許してくれるだろう、という侮りが民にあったのかもしれません。もしくは、そもそも自分に利することを、自分たちの思うタイミングでしない神など神ではない、神はいるのか、という思いがこれらの箇所の中で読むと見えてきます。
ただ、神様はそれでも愛する民ですよ、簡単に見捨てられるわけないじゃないですか。最初から見捨てているなら、わざわざ出エジプトなんてさせませんよ。もしくは不平不満だらけの旅の途中、見捨てますよ。でも神様はそれをしなかったのです。2人の偵察隊だけ約束の地にさっさと連れていってもよかった、でも残された民を憐れまれた神様は、彼らを連れのぼるために2人を彼らのために残されていた、置かれていたんです。神様は見捨てきれなかった。
私たちは神様のこのあわれみ深さをどれだけ知っているでしょうか。これは他人事ではないんです。神様は私たちに命を得てほしい、だからイスラエルの民のためにモーセを立てた、また↑で挙げられているサムエルという人を立てた(彼も「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない」と執り成し祈ります)、他にも旧約聖書で触れてきた人たち、王、預言者、エレミヤもたてられていますが、彼らを通して神様は憐れまれ、救わんとされたのです。何とか生きてほしい、何とか神様に立ち返って、本当の恵みの内に生きてほしい、それこそが神様の願いだったのです。
あなたの人生を振り返ってどうでしょう。神様はいませんでしたか?あなたが一人でどうにもならなく倒れた時、神様があなたを背負い共に歩んでくれませんでしたか?だから今日私たちがここにいるのです、あなたは今日ここに生きているんです。
神様は、民が「どこに去ろうか」というなら「『主はこう仰せられる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、ききんに定められた者はききんに、とりこに定められた者はとりこに。』わたしは四つの種類のもので彼らを罰する。―主の御告げ―すなわち、切り殺すために剣、引きずるために犬、食い尽くし、滅ぼすために空の鳥と地の獣である。わたしは彼らを、地のすべての王国のおののきとする。ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行なったことのためである」というように、エレミヤに告げられました。
私たちが神様からどこに去ろうか、と言って離れるのはある意味では自由です。それはまあそれぞれの考えがあるでしょうから。しかし、そこに何が待っているのか。「死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、ききんに定められた者はききんに、とりこに定められた者はとりこに」です。死に定められるもの、剣、飢饉、とりこ…そうしたものが私たちをただ待つだけです。今モーセとイスラエルの民の歩みを振り返ってみた通りです。
しかし神様はそうではない、死ではなく命に私たちを導かれる方です。そのために、多くの使者を神様は遣わし、時に神様ご自身が立たれることもあった、その行く道を示され、みことばの剣をもって私たちのゆく道を切り開き、導かれ、私たちが飢え渇くことがないように、神様の口から出る一つ一つのことばで私たちを生かし、恵まれるのです。あなたに生きてほしい、世のとりこになるのではなく、神様のいのち、恵みに生きてほしいのです。神様が乳と蜜という恵みの雨をあなたに注ぎ、生かしたいのです。
それゆえ「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない」と仰られた神様は、最後に御子イエス様を立たせてくださりました。私たちのために、とりなし手として、私たちの間に住まわせてくださった。神であられるのに罪を犯さないという点を除いて完全に人となってまで私たちを愛することを選ばれたのです。しかしそれだけで終わらず、この見捨てられるはずの罪ゆえに、滅びてもおかしくない私たちを救うために、ついには私たちの罪のこの刑罰、↑の断絶宣言をその身に負われ、十字架で罰せられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦して下さるのです。そして神様の子として受け入れていただけるのです。
赦したからはい終わり、ではない、ここからイエス様から与えられた本物の命、新しい命が始まるのです。イエス様のいのちによって保障されたこの命、どうしてむしろ私たちは「どこに去ろうか」という必要があるでしょう。むしろ本来はこの命からさらされるはずの、死に定められるはずの私たちを御子イエス様のいのちをもって引き戻された、ここに神様がどれだけの愛を注がれているか、私たちは今一度思い返したいものです。神様が憐れみをもって、御子イエス様のいのちをもって去らせるのではなく引き戻されたこのいのち、私たちはもう神様から離れることなく、神様の憐れみ、究極の愛に生かされ、神様を求め続け歩もうではありませんか。死に定められたものではない、もうあなたは神様のものとされたのですから。
