―雨を降り注がれるのは…― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「私は言った。『ああ、神、主よ。預言者たちは、【あなたがたは剣を見ず、ききんもあなたがたに起こらない。かえって、わたしはこの所でまことの平安をあなたがたに与える】と人々に言っているではありませんか。』主は私に仰せられた。『あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、【剣やききんがこの国に起こらない】と言っているこの預言者たちについて、主はこう仰せられる。【剣とききんによって、その預言者たちは滅びうせる。】彼らの預言を聞いた民も、ききんと剣によってエルサレムの道ばたに投げ出され、彼らを葬る者もいなくなる。彼らも、その妻も、息子、娘もそのようになる。わたしは、彼らの上にわざわいを注ぎかける。あなたは彼らに、このことばを言え。【私の目は夜も昼も涙を流して、やむことがない。私の民の娘、おとめの打たれた傷は大きく、いやしがたい、ひどい打ち傷。野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。町に入ると、見よ、飢えて病む者たち。しかし、預言者も祭司も、地にさまよって、途方にくれている。】』あなたはユダを全く退けたのですか。あなたはシオンをきらわれたのですか。なぜ、あなたは、私たちを打って、いやされないのですか。私たちが平安を待ち望んでも、幸いはなく、いやしの時を待ち望んでも、なんと、恐怖しかありません。主よ。私たちは自分たちの悪と、先祖の咎とを知っています。ほんとうに私たちは、あなたに罪を犯しています。御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座をはずかしめないでください。あなたが私たちに立てられた契約を覚えて、それを破らないでください。異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。私たちの神、主よ。それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。」

エレミヤ書14章13-22節

 

雨、これは私たちに欠かすことができません。雨がもたらされることによって作物が育ちます。まあ近年線状降水帯といったものに苦しめられる傾向がありますが。それによって苦しんでいる人たちが神様の癒し、慰めが注がれますように。私たちが忘れてはいけないのは、神様は私たちを魂まで潤して下さる方ということ。どんな日照り、つらい中にあっても、神様がそこに雨を降らせる、砂漠に川を流れさせる神様。私たちはこの神様を求めよう。神様の、上からの、他でもない、天の神様が本物の恵みの雨を注いでくださることを切に願おうではありませんか。

 

さて、古代イスラエル王国において、北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エジプトの傀儡の王エホヤキムが王になったBC607年頃、神様がエレミヤを通して語られたのが↑になります。神様はここまで、亜麻布を帯でしっかり結ぶように、神様が私たちを神様ご自身のものとしてくださり、その恵みに生きてほしい、あなたの内側を、世の思い煩いや痛み、罪ではなく神様の恵み、聖霊様で満たしたい、とご自身のもとに招くかのように語られてきました。王の王、主の主なる神様がすべ治め、私たちの渇いた地を天の恵みの雨で潤される、と語られていました。

 

神様が↑の前の箇所で「このように、彼らはさすらうことを愛し、その足を制することもしない。それで、主は彼らを喜ばず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。…この民のために幸いを祈ってはならない。彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のいけにえや、穀物のささげ物をささげても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣とききんと疫病で、彼らをことごとく絶ち滅ぼす」と仰られたことに対し、エレミヤは今、「ああ、神、主よ。預言者たちは、『あなたがたは剣を見ず、ききんもあなたがたに起こらない。かえって、わたしはこの所でまことの平安をあなたがたに与える』と人々に言っているではありませんか」と神様に訴えます。

 

世間ではこう言っているじゃないか、という思いをエレミヤは訴えているのですが、エレミヤがどのような思いでこのことを神様に訴えたのでしょうね。エレミヤは神様に対し全幅の信頼を置くと言いますか、それでも神様に従う人です。最初私はこれを読んでいて、ああ世の流れとぶつかると人はかのようにもろくなるのか、と感じてしまったのですが、それも人の弱さか。

 

ただ、「世の中はこう言っているじゃないか」というのは、少々問題があります。言葉だけではない、世の中の考え方ではこうしなければいけないんだ、とか。それが普通なんだ、とか。これは私も気づかないうちに良く陥ってしまう話なのですが、それはね、世の中的な常識というものがあるでしょう。でも世の常識に神様が劣るのか?神様がなさることは世のもたらす力に劣るのだろうか、と。それは私たちの耳にいいことばを聞いてたくなることはあります。私もここは弱いところで、どうしても自分に都合のいいことばを聞きたくなる、でも神様は私の最善を考える方、わたしを知っておられ、わたしを愛してくださる方、こんな私をさえ見捨てないでいてくださる方、その神様が今何を訴えるのか、これを私たちは聴かなければいけないのではないでしょうか。こう書いている私も耳が痛い話ではありますが。

 

話を聞くうえで相手がどんな気持ちで話しているのか、これを知ることが大事です。もちろん口だけ言っている場合もあるのですが。実際当時エレミヤの前に立ちはだかり、エレミヤを迫害していた偽預言者たちは、民に忖度をして、それこそどこかの政治家のようにとりあえず耳にいいことを言うことで人気を得る、そんな感じでした。神様が言っている事よりも、そっちの方が良い、と考えたのでしょう。しかし神様は、私たちが神様に立ち返って神様の恵み、神様のいのちの内に生きる事、本当の意味で生きたものとなることを何よりも願われている。だからこそ、昨日分かち合ったような、霊的な剣、世のもたらすあなたを傷つける剣、罪という疫病、神様から断絶される飢饉に陥ることがないように、神様のみことばにへりくだり、神様から聖めていただき、神様のみことば、神様の恵みで生きてほしい、と訴えるわけです。

 

よく「愛しているからこそ言っているんだ、大切に思っているから言っているんだ、これはあなたのためなんだ」ということばを口にされる方がいます。本気でそう思って言っている人もいるので否定はしませんが、これを心底実行できる、最後の最後まで付き合えるのは神様だけです。もう聞かないから知らないと見捨てるのが、世の限界。しかし神様は私たちが立ち返るのを最後の最後まで待っておられる。

 

神様は↑で「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、『剣やききんがこの国に起こらない』と言っているこの預言者たちについて、主はこう仰せられる。『剣とききんによって、その預言者たちは滅びうせる。』彼らの預言を聞いた民も、ききんと剣によってエルサレムの道ばたに投げ出され、彼らを葬る者もいなくなる。彼らも、その妻も、息子、娘もそのようになる。わたしは、彼らの上にわざわいを注ぎかける」とエレミヤに答えます。

 

結局その世が言っている言葉というのは神様のことばではなかった。神様のことばではないことによって生きる彼らは結局自分たちの価値、言ってていることによって滅びることになる、神様の恵みではなく災いを招くことになるわけです。世のことば、価値観はは時代とともに変わります。しかし神様のことばというのはそうしたものによって変わることのない、永遠のことば、約束です。私たちはここで神様が仰るように、空しいものによって生きるのではなく、神様のみことばこそが本当になる、この御言葉に生きるよう訴えるのです。災いを注ぎかける、と神様は仰りますが、むしろ私たちは神様のいのちを、恵みを求めないでどうしましょう。世はこう言っている、ああいっている、ではなく、神様は何を願っておられるのか。それが自分にとってどんなことであろうとも、神様の御心が完全に現されることを願わずにどうしていられましょう。神様は私たちが神様から引き離されて途方に暮れることがないよう、今訴えているのです。

 

エレミヤはこの神様のことばを受け、「…異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。私たちの神、主よ。それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです」と訴えます。異国の虚しい偽神は大雨を降らせることはできない。しかし神様しか本当に私たちを潤し、砂漠に川を流すことができる方はいないんだ、と彼は今告白します。私たちの内に渇くことのない泉をあふれさせてくださるのは、この神様だけなんだ、と。

 

私たちは神様にこの思いを持っているでしょうか。神様は偽のことばではなく、いのちのことば、本物の恵み、愛、地のもたらすものではない、この天地万物を造られた神様の恵みの雨を注がれるのです。

 

神様は私たちをそれでも見捨てられず、罪に食い尽くされ、世にむしばまれ、滅びゆくしかない私たちの魂をもう一度生き返らせるため、御子イエス様を私たちに与えてくださりました。私たちのど真ん中に住まわれ、私たちに恵みを注ぎ続けました。しかし一時的に潤すのではなく、魂の底から回復させるため、私たちの罪を御子イエス様に身代わりに神様は背負わせ、十字架に架けられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人に、同じ復活の恵みに与らせてくださるのです。

 

今日、このイエス様のいのちを持ってまで愛されたこの恵みの雨があなたに注がれ、あなたの魂を回復させ、潤そうとあなたにイエス様はその愛を向けています。あなたはこの愛をどう受け取るでしょう。あなたを罪・サタンの手に降るという最大の災いから救うため、あなたを見捨てずに命をかけられたこのイエス様の究極の愛をどう思うだろう。命をかけてまで愛されたイエス様があなたにもたらそうとしていることは果たして世の常識に勝ることができるでしょうか、いえそんなことはない。

 

今日、「主よ。私たちは自分たちの悪と、先祖の咎とを知っています。ほんとうに私たちは、あなたに罪を犯しています。御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座をはずかしめないでください。あなたが私たちに立てられた契約を覚えて、それを破らないでください」とエレミヤが言っていた契約は、私たちが破った契約をイエス様のいのちによって結ばれています。私たちをこのイエス様の究極の愛が繋いでくださり、私たちは神様のものとされました。イエス様のいのちをもってこの契約を保証された今、私たちはもう神様から離れてはいけない。神様がイエス様のいのちを持ってまで取り戻されたこの新しい命、最後まで神様に信頼し、歩もう。世のもたらす雨ではなく、神様の恵みが私たちの上に、この全地に降り注ぎ、恵みに溢れますように。