―本当に必要なのは…― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。そこで、ペテロがこう言った。『アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。』アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずに入って来た。ペテロは彼女にこう言った。『あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。』彼女は『はい。その値段です』と言った。そこで、ペテロは彼女に言った。『どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。』すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。入って来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。」

使徒の働き5章1-11節

 

みなさんにとって、本当に必要なものは何でしょうね。色々あげられると思うんですけど、これ、というものに絞るとなるとこれは大変。でも私たちは本当に大事な神様を忘れてはいけない。結局ここに尽きるのではないでしょうか。ここに立つのは本当に難しいし、戦い、誘惑がある。けど、だからこそ、神様。不安や恐れ、悩みがあっても最後神様が聞いてくださる。神様に私たちは帰りたいものです。

 

さて、↑はAD30年頃の出来事。神の御子イエス様が人となって生まれ、その愛を全うされ、ただ助けるだけではなく、私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架で罰せられ死なれ、3日目によみがえられた後、イエス様の昇天後、約束されていた新しい助け主なる聖霊様が降臨され、教会が誕生した時の話になります。↑の前の箇所では、40年間足の萎えた男性がイエス様の御名によって癒され、議会にペテロたちが逮捕されるという出来事がありました。しかし彼らは恐れて信仰を捨てる、一時神様から離れよう、というのではなく、むしろますます神様を求め、また互いに助け合い、支え合い歩んでいきます。

 

そんなある日、大きな事件が起こるのです。初代教会に、アナニヤとサッピラという夫妻がいました。彼らは他の人たちが自分の持ち物を出して共有しているのを見てか、また前回見たようなバルナバという人が畑を売ってその代金を持ってきた姿を見て、自分もそうしようと思ったのでしょう。彼らは自分の地所や持ち物を売って使徒たちの足元にこれを置きます。

 

ところが、彼らはペテロが「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と言っている言葉を見ると、どうも一部自分たちのところにとっておいたようです。そしてアナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えるのでした。

 

この箇所は非常に難しいです。例えば、じゃあ全額献金しなければいけないの?今はどうなの?全額献金できない人は神様を欺いているの?盗んでいるの?ちょっと違いますよね。それはどこかのカルト宗教と同じ。聖霊様を欺いたから、聖霊様に打たれて死んだ?いえ、そんなことは一言も書いていないんですよね。この使徒の働きを記録しているルカは歴史家でもありますから、正確に記録を残す人です。こんな大事件を嘘で書く必要はないでしょう。おそらく、このことばどおりなんだと思います。そもそも聖霊様は何でも知っておられる。欺くことなんてできるはずがないんです。聖霊様を汚す行為は赦されない、だからこうなった、という人もいます。

 

でも、聖霊様は心の内を見ておられる。捧げものを神様が受け取らなかった、という事は旧約時代からもありました。その時その男性は受け入れられなかったことに腹を立て受け入れられた自分の兄弟の殺害を試みるのですが、神様は彼をなだめ、もう一度神様に向き合い、神様に喜ばれる器になるよう諭すわけです(結局彼は弟を殺害するのですが)

 

確かにアナニヤとサッピラは罪を犯しています。これは間違いないし、否定することはできません。その彼らを肯定するつもりもありません。罪は罪。罪を犯してもいいよいいよ、しょうがないよね、というつもりはありません。ただ、サタンに心を奪われ、聖霊様を欺いた彼をどうして悔い改めに導こうとペテロはしなかったのだろう、というのが、私の卒業した神学校の元校長先生のご意見。ペテロ自身イエス様を裏切り、3度にわたって否定し、最後は呪いをかけてまで否定した、そんな彼を復活のイエス様はそれでも出会ってくださり、悔い改めに導かれ、赦してくださったではないか、と。一番その赦された体験をしたその彼が、それこそ今の教会風に言うなら、牧会者として裏の牧会室に呼び出して、一緒に悔い改めの祈りをするべきだったのではないか、と仰っていたのが非常に印象に残っています。イエス様の原則もそうでした。言われてみたら、と先ほどのいけにえを受け入れられなかった人への神様の諭し、悔い改めへの導きへの行動を思い出したわけです。アナニヤとサッピラの死因は聖霊様に打たれたからだ、という人がいるのですが、それは書いてありませんしね、ここで。先生が言うにはペテロのことばによる心臓発作だ、と。

 

まあ正直な話がここで私はこんな偉そうなことを書けるほどの者ではないです。ただ、結局のところ、彼は、人に最も必要なものがあるということなんです。それは神様。最後、ペテロを変えたように神様の愛、御子イエス様を十字架に私たちの罪の身代わりにかけ死なせるという信じられないほどの愛が現わされた十字架なんです。私に必要なのも十字架。神学校の校長先生が言っていたところも最終的に行きつくのは、十字架なんです。

 

サタンに心奪われ、聖霊様を欺いた、彼にいったい何があったのか、ここでは詳しく書いていないので何とも言えません。生活への不安化、自己顕示か。想像するといくらでも出てきそうですが、ただ私たちがそうしたものにとらわれてしまう、そこから解放できるのはイエス様であり、イエス様に全てがある。イエス様がすべてを結局つくりかえることができる、そのイエス様を求める事、そこなのです。神様はだって、私たちを滅ぼすならとっくにできているのに、それでも私たちが悔い改めるのを待ち、それでも帰ってこない私たちのために、私たちの罪を身代わりにイエス様に背負わせ、十字架に架けられ、死なせた。ありえない話です。なんでアナニヤのために、何でペテロのために、なんてこの私のために。でもそのなんでをそれでも貫き通された十字架の愛、イエス様の最後まであきらめなかった十字架の愛を思う時、私たちはこの方に頼るしかないことを知るのではないでしょうか。イエス様の復活と共に私たちは新しくしていただける、この死を死で終わらせない神様の愛の前に私たちは求めずにいられましょうか。

 

もし、ペテロが悔い改めに導き、アナニヤが悔い改めていたならサッピラはどうだったか、と思うところ。彼らを他人事のように見れない私たちですよね。むしろ私たちはサタンに心を奪われるものではなく、この心を御霊様によって聖めていただき、死んだものとしてではなく、神様に生かされ、歩みたいものです。神様を正しく恐れ、人の想像をはるかに超えた神様の御業がなることを切に祈りたいものです。神様が与えてくださったものを丸ごといただき、これに生きようではありませんか。