―あなたは喜びなんです― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主は私にこう仰せられた。『行って、亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ。水に浸してはならない。』私は主のことばのとおり、帯を買って、腰に締めた。すると、私に次のような主のことばがあった。『あなたが買って腰に着けているその帯を取り、すぐ、ユーフラテス川へ行き、それをそこの岩の割れ目に隠せ。』そこで、主が私に命じられたように、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。多くの日を経て、主は私に仰せられた。『すぐ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。』私はユーフラテス川に行って、掘り、隠した所から帯を取り出したが、なんと、その帯は腐って、何の役にも立たなくなっていた。すると、私に次のような主のことばがあった。『主はこう仰せられる。わたしはユダとエルサレムの大きな誇りを腐らせる。わたしのことばを聞こうともせず、自分たちのかたくなな心のままに歩み、ほかの神々に従って、それに仕え、それを拝むこの悪い民は、何の役にも立たないこの帯のようになる。なぜなら、帯が人の腰に結びつくように、わたしは、イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた。―主の御告げ―それは、彼らがわたしの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなるためだったのに、彼らがわたしに聞き従わなかったからだ。…』」

エレミヤ書13章1-11節

 

本当に大切人は何があっても取り戻したい、それが人の思いかと思います。思い入れがなければそうではないかもしれませんが、本当に大切な人となると話は別だと思うのです。逆にどうでもよくなったときは…それが人。ただ、神様は違うのです。神様は見放すのではなく、あなたを愛するがゆえに、最後まであきらめず、何が何でも救おうとされる方です。神様の愛を今日もう一度覚えよう。御子イエス様のいのちという代価を持ってでもあなたを引き戻す、救おうとされている神様にもう一度心を向け、神様に立ち返り、これに生きようではありませんか。

 

さて、古代イスラエル王国において、北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エジプトの傀儡の王エホヤキムが王になったBC607年頃、神様がエレミヤを通して語られたのが↑になりますが、神様はせっかくの宗教改革の後すぐに神様から離れていったその民に、もう一度神様の愛を、契約を思い出させるために語り、彼らに呪いに生きるのではなく、神様の聖なる民・家族として生きてほしい、と招かれるのでした。ただ彼らは神様に逆らい、神様のことばを語るエレミヤを殺そうとたくらみます。それでも神様は彼らを諦めず滅びゆく呪いの中ではなく、神様の恵みの内に植えたいと訴えるのでした。

 

その思いを↑で神様は現されます。神様とエレミヤの間で「『行って、亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ。水に浸してはならない。』私は主のことばのとおり、帯を買って、腰に締めた。すると、私に次のような主のことばがあった。『あなたが買って腰に着けているその帯を取り、すぐ、ユーフラテス川へ行き、それをそこの岩の割れ目に隠せ。』そこで、主が私に命じられたように、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。多くの日を経て、主は私に仰せられた。『すぐ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。』私はユーフラテス川に行って、掘り、隠した所から帯を取り出したが、なんと、その帯は腐って、何の役にも立たなくなっていた」というやり取りが成されます。

 

神様は時々預言者に意味のある行動をとるよう命じることがあります。そこには神様の思いが込められているのですが神様はその思いを行動に移される、ということなんです。一番有名なことですと、預言者に、姦淫の女性と結婚するように、そして浮気された後もう一度その女性を買い戻すように、とか、エレミヤより少し時代を進めてバビロン捕囚された先で、エゼキエルという預言者に、「左脇を下にして390日間横たわり、終わったら右脇を下にして40日間横たわります。そして人の糞でパンを焼いて食べなさい」などと命じられたこともあります。もうここまでくると理解に苦しむ、という事ばかりですが、神様は私たちには理解できないことをなされるのです。どうしてそこまで?と私たちが思うことを神様はなして下さるのです。他にもありますがその時代はバラバラ、しかし神様の行動、愛の行動、救いは昔も今も変わらないのです。しかし今、受け取ってほしい、と神様はいつもその愛を示されている、今受け取ってほしいと神様は語られる、そのことをどうか忘れないでください。

 

話を↑に進め、まず「行って、亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ。水に浸してはいけない」と神様は仰らます。当時の服というのは一枚の布で出来ていました。それで帯を腰に巻いたのですが、男性は仕事など体を動かす時は、その布をもっと上にあげて帯で締めました。ただ、亜麻布を水に浸してはいけない、と。考えてみますと、確かに亜麻布の帯は、水に浸せばもっと早く柔らかくなります。けれども、神様は帯を新品のままにしておきたかったようです。水に浸ければ、それだけ腐敗も早くなるでしょうから。

 

これはどういうことなのかと言いますと、↑を見てみますと、どうも帯をもって神様が私たちをきちんと結び付けてくださっている、神様が守ってくださっているわけです。パウロという人は「(御霊によって)しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め…」と語ります。ただだらしない格好をしないで、という意味ではありませんよ?もちろんだらしない歩みをしない、ということも意味するかとは思いますが、真理の帯が、イエス様という真理なるイエス様に私たちは結び付けられる、この真理があなたを守られる、私たちの救いとなられたイエス様が私たちの歩みを確かなものとしてくださる。

 

神様はあなたをどうでもいい存在だとは思っていません。あなたが世の荒波で沈みゆくことがないよう、あなたが世の思い煩い、勢力、罪、サタンに抱き着かれて、離されないようにつかまれて、しっかり守られるのです。我がうちに、汚れていくのではなく神様の聖さによって私たちを覆う、神様の聖さによって私たちは生かされる、神様は生かして下さるのです。つらくあなたを汚しいく、汚れていくものではない、腐っていくのではない、神様は聖く保ちたいのです。あなたはだって神様の作品、神様の最高傑作ですよ?そのあなたが腐っていって滅びていく事をだれが我慢できますか?あなたを造られた神様がどうしてそんなことを我慢できるでしょう。神様は水に浸してらくになるのではない、それでもあなたの重荷を一緒に背負っていってくださるのです。私たちは神様と共にある、神様の御手の中にあって、神様と一つとされる、神様の全てがあなたの内に注がれ、与えられているのです。

 

私たちは神様から離れてはいけません。神様があなたを堅く守られる、あなたと共にその重荷を背負われ一緒に歩んでくださる。あなたの結ばれた先は誰がいますか?私たちは真理であり、いのちであるイエス様にしっかり結びつけられた、そのいのちの道を歩ませていただきたいものです。そんなことをして何になるの?ではなく、私たちはこの真理の帯をしっかり結びます、神様あなたについて行きますと告白したいものです。神様を堅く離さないと、あなたにその愛をもって導かれるから。

 

神様はさらに「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、すぐ、ユーフラテス川へ行き、それをそこの岩の割れ目に隠せ」といいます。このエレミヤの語られた場所からこのユーフラテス川までは直線距離で800kmくらいになるそうです。いうまでもありませんが、今彼らのいるところは舗装された道ではなく荒れ地です。移動手段も今のようなものはありません。

 

しかし多くの月日がたって、神様は再びエレミヤに「すぐ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ」というのですあれだけ苦労して出かけて行ったのに、またこの長距離を行かなければいけないのか、とはエレミヤは考えずすぐにこれを実行します。しかし行った先で発見したのは、かつてあった新品の帯ではなく、完全に腐ってしまった何の役にも立たないものとなっていました。

 

「ユーフラテス川」という言葉から察する方はいるかと思いますが、ようするに、バビロンに捕囚されていくその姿を現しています。先程、私たちは神様と一つとされた、聖なるものとされた、あなたは神様の宝、聖なる民とされた、神様の家族とされていたものなのです。その私たちが連れ去られていく、ありえない、なんでそんなことが、と思うでしょう?でもその何でそんなことが、というのは神様の悲しみなのです。なんでこんなに大切に愛してきたものが、と。彼らは自分たちの大切にしていることを誇り、神様よりそっちの方が価値があると神様から離れていった。

 

しかしそれに頼って生きた結果何が起こったか。彼らは世が与えるはずだった楽しみを失い、色を失いついには腐り役に立たない、誰からも見捨てられたものとなってしまった。神様はそれでもそれを取るように、と仰ったのは見捨てられないからではないでしょうか。

 

神様はそこで「わたしはユダとエルサレムの大きな誇りを腐らせる。わたしのことばを聞こうともせず、自分たちのかたくなな心のままに歩み、ほかの神々に従って、それに仕え、それを拝むこの悪い民は、何の役にも立たないこの帯のようになる。なぜなら、帯が人の腰に結びつくように、わたしは、イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた。―主の御告げ―それは、彼らがわたしの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなるためだったのに、彼らがわたしに聞き従わなかったからだ」と仰ります。

 

神様は、それでも彼らを、あなたを神様の民、神様の名によって生きるものとされる、名誉となり、栄としたかったのです。しかし彼らはそれを他の神々の一つとして並べるなり、何の価値もないものとしてしまった。真理の帯、神様に結び付けられていることが何の意味もない、と。

 

それでも神様は彼らを見捨てられず、何の役にも立たなくなった、腐った帯、彼ら、私たちをもう一度取り戻すため、神の御子イエス様を遣わされたのです。私たちをもう一度神様のものとするため、この腐った状態からもう一度聖めるため、罪を洗い聖めるため、私たちの罪を身代わりに神様はイエス様に背負わせ、十字架に架け、罰し、死なせたのです。何の罪もないイエス様、しかも神の御子イエス様を。そこまでしてでもあなたを愛された。あなたをもう一度取り戻す、神様の誇りとされる神様は愛を実行されたのです。神様はこのイエス様の贖いを良しとされた神様は、イエス様をよみがえらせてくださった、腐ったままではなく、復活させてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子とされる、腐ったものではなく、もう一度神様の新しい息吹、いのちを吹き込まれ、新しいものとしてくださるのです。

 

私たちはもう神様から離れてはいけない。イエス様のいのちにあって新しくされたこの命を無駄にしてはいけない、侮ってはいけない。私たちは真理の帯、イエス様によって神様にもう結び付けられているのです。もう神様から離れてはいけません。むしろこの神様が開かれた道、いのちをもってあなたへの愛を貫き通したイエス様の導かれるこの道を、イエス様に信頼し歩もうではありませんか。そこは腐った場所ではない、どんな道も、イエス様が進まれ、神様の栄光へと導かれ、招かれるから。私たちはこの神様の愛が私たちの内に、また全地に溢れることを祈ろうではありませんか。