「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。あなたは彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて、実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの思いからは遠く離れておられます。主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます。どうか彼らを、ほふられる羊のように引きずり出して、虐殺の日のために取り分けてください。いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています。人々は、『彼は私たちの最期を見ない』と言っているのです。あなたは徒歩の人たちと走っても疲れるのに、どうして騎馬の人と競走できよう。あなたは平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせよう。あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らさえ、あなたのあとから大声で呼ばわるのだから、彼らがあなたに親切そうに語りかけても、彼らを信じてはならない。」
エレミヤ書12章1-6節
私たちは、私は一人ではない、どんな中にあってもあなたは孤独になることはない。こんなことを書くと何を綺麗ごとをと言われるかもしれませんが、私たちがどんなに孤独に感じる事があっても、神様があなたと共にいること、神様があなたに御手を伸ばされているという事を忘れないでください。あなたの悩みを聴いてくださる方、神様が勝利を見せてくださる。私たちは神様から目を離さずにいよう。神様はあなたから離れず、あなたと一緒に神様のいのちの道を歩んでくださるから。世がどんなにあなたを惑わし神様を疑わせようとも、私たちは神様がなしてくださることに信頼し歩もうではありませんか。
さて、古代イスラエル王国において、北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エジプトの傀儡の王エホヤキムが王になったBC607年頃、神様がエレミヤを通して語られたのが↑になります。ここで神様はヨシヤ王の時代に宗教改革が成された時に彼が見つけた律法の書、その中で神様は何を訴えていたのかもう一度語ります。それは「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」というものでした。彼らに呪いではなく神様の聖なる民、家族として生きてほしい、と神様は招かれるのです。
しかし、彼らは神様を退け、自分たちの思うままになる神を自分の神としていった。その結果彼らに災いを降す、と神様が宣言され、それに腹を立てた民はエレミヤを殺害しようとたくらみます。彼らは神様が彼らを宗教改革、もとい、神様の恵みですべてを一新させいのちあるものとなることよりも、自分が良いと思うことで満たされていることを求めていたのでした。
これを知ったエレミヤは苦しみ悩みます。人らしいと言えば人らしい。いいんです、人は悩んで。悩むことは不信仰だ、弱い人がすることだ、なんてことはないんです。そんな私たちだからこそ神様が必要、いや、そんな私たちを神様は見捨てず、あなたをいのちの内に招きたいのです。洗い聖めたい、本物の神様の宝で満たしたいと、その御手を伸ばされ語られるのです。そうして私たちは回復していく、神様のイメージされた本来の姿に近づかせていただけるのです。あなたはそれでも、いやどんな時でも神様を求めていますか?
話を↑に進めて、エレミヤはこれに苦悩し、「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。あなたは彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて、実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの思いからは遠く離れておられます」とその思いを口にします。
これはたぶん誰しもが思う疑問化と思います。なぜ悪者の道が栄え、裏切りを働くものが、みな安らかなのか。それは昔も今も変わらず、あっちこっちで見られる光景です。それは誰しもが思う事であり、神様を信じている人でも格闘することです。聖書の中の信仰者としてほとんどの人が取りあげるであろうダビデもこの疑問にぶつかりました。彼は神様を信じていたし、神様によって王とされた、ところが嫉妬する王に命を付け狙われ、息子にはクーデターを起こされ国を追われ…なんでそんな悪だくみが赦されるんだ、と。他にもサタンの策略によって息子や財産、ついには健康まで失った人も、神様に同じように訴えます。
ただ彼らはそれらの問題を諦めるのではなく格闘しました。こうした問題は私たちも、「格闘する」ことです、と今申し上げましたが、これ、本当に必要な事なんです。それは仕方ないよね、と諦めるのではない、もちろん暴力に訴えるとか、そういう話ではないのですが、罪を罪のまま放置する、何か問題があっても黙っている、それは正しい事とは言えません。謙遜に、黙っておとなしくしていることが時に美徳に感じられてしまうこともありますが、そうではありません。たとえば、いじめがあった時、それを放置しますか?其れを放置したらどうなるか、もう一目瞭然ですよね。それをしている人が更生する機会を下手をすれば奪いかねない行為になります。彼らがエレミヤが言うように「神様が正しい」とされることを受け取ることができない、神様の平和がそこに成されない、求めないことほど残念な話はないのです。
エレミヤの苦悩は間違っていない。じゃあその苦悩とどう向き合っていくのか。結局そこなのかな、と思います。エレミヤはただ一人で無謀に格闘する、挑んでいくのではなく、神様に助けを求めた、叫んだ。それが一番なのです。自分の手では何もしないの?と世の中的には言われそうですが、神様に頼ることは何もしない事なのですか?神様に祈ることは何もしない事なのですか?いえ、むしろ神様と一緒にこの問題に取り組んでいく、神様を求め、神様の正しさがそこに現されることを私たちは求めていかなければならないのではないでしょうか。どんなに理不尽なこと上がっても、神様の正しさがそこに現されることを。
↑の前の箇所でエレミヤごと神様を黙らせようという動きが、エレミヤの出身地であるアナトテでありました。ある意味ではエレミヤにあきらめさせようとすることです。世の中にも私たちを世の中的な価値、常識をもってあきらめさせようと迫ってくるものがあります。しかし、そこで私たちはあきらめてはいけません。神様の正しさがなることを願うことをやめてはいけません。神様は、ここまで訴えてきたように、悪を取り除き、一新させる、聖霊様で満たし聖め、神様の宝で満たしたいのです。神様の正しさが、義が、恵みが溢れたところに、神様の御国が広がるところに、私たちは生きる事を願っているでしょうか。
その上で、エレミヤが神様に訴えたことに目をもう一度留めてほしいのです。エレミヤは神様に、「あなたは彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて、実を結びました」と、アナトテについて訴えます。まあアナトテ人は神様によって悪をなしたわけではなく、神様から離れ、神様が水をやり、肥料をまくことを拒んで、自分の好きなように生きる事を願って神様から離れていってしまったわけですが、その結果彼らは悪の実を結び、人を生かす実ではなく、人を悲しみ苦しめる実を結んでしまった。ただ、本来は神様が植えてくださったもの、私たちもまたそうです、私たちは神様によって植えられた、神様によって造られた存在なのです。神様はその土壌に私たちを植えてくださり、水を、肥料をやり私たちを神様の恵みで育ててくださる、神様の恵みの実を結ばせてくださるのです。その私たちが神様に根を下ろさずにどうしますか?神様は一緒にいてくださっているんですよ?神様があなたの血肉となり、あなたを強めてくださる、神様の御力がそこに現されるなら、私たちは何を恐れるだろう。神様を求めずしてどうしましょう。
同じように多くの迫害に合い、何度も裏切られ、殺されそうになり、最後は殉教の死を遂げたパウロという人は「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい」と手紙で書き送りました。
パウロという人は1世紀の間多くの教会を励まし、力づけ、福音を宣べ伝えた人です。ある意味ではカリスマ的に周りからも評価されていたかもしれません。しかし、彼は自分が優れているからこうして成功したのではない(成功という言葉もどうかとは思いますが)、それは神様の力なんだ、神様の滞納の力によって今日までいかされてきたんだ、というのです。どんなに厳しい戦いがあっても神様が一緒にいてくださる。どんなにカオスな時代にあろうとも、邪悪な日ではなく、この日が神様の日となるよう、あきらめず、悪に立ち向かうように訴えるのです。ここで言っている詳しい武具についてはいつかパウロの書いた手紙の分かち合いをするときに詳しく触れますが、「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に」対して私たちはあきらめるのではなく立ち向かい、神様の主権、力、光がここに溢れることを願う、神様が成し遂げてくださる御国が、勝利がここに起こることを願い、立ち上がろう、と彼は私たちを励まします。それはパウロが言っているからじゃない、その神様への思いが、あなたが神様に根を下ろすなら、神様があなたを御霊で満たし、強めてくださる。神の武具、と言いますが、神様ご自身がおられるのです。そしてその御霊様の働きによって、そこにやがて勝利の日が来るのです。
私たちは信じないものになってはいけない。あなたが神様を諦めてどうしますか?神様はあなたを諦めていません、いないんですよ?人々は「彼は私たちの最期を見ない」と、私たちがいつか敗北することを訴えても、私たちは最後神様の勝利を見る、見させていただけるのです。神様は私たちを罪によって死にゆく、永遠の闇に降ることを見過ごせず、あなたを救うために、御子イエス様に私たちの罪を身代わり背負わせ、十字架に架け、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。死から命へ、引き上げてくださったのです。
そこまでしてまで、御子イエス様のいのちをくださってまであなたを救い出された、その神様を私たちが信じずに誰を信じますか?何を信じますか?私たちは神様を求めよう。神様の勝利が、神様の正しさがここに溢れることを。神様が全てを聖めてくださり、神様の完全な御国が来ること、神様の光があなたの内に、またこの地に溢れることを祈ろうではありませんか。悲しみも涙もすべて拭い去られるその日を待ち望み。